第22話 面倒な話だ
翌朝。
まだ陽が昇りきらないうちに目が覚めた俺は、寝巻きのまま外に出たあと湧き水で顔を洗った。冷たく澄んでいた山の空気が頬を撫でて、昨夜の残滓がすっと引いていくような気がした。
厨房へ戻り、いつものように米を研ぎ始める。手元で揺れる水音だけが静かな山の朝に優しく響いていた。だが手は動いていても、頭の中では昨日の焚き火のやり取りが繰り返されていた。
……昨日のことが、どうにも頭から離れない。
面倒な話だった。空賊のレースだとか、旧知の技師だとか、俺には関係ない話のはずだった。
――だった、はずなのに。
イグザス・ベルネロ。
その名を耳にした瞬間、胸の奥がざらりと波立つ感覚があった。
思い出したのは、まだ戦の続いていた頃。帝国と反帝連合の全面衝突で、空すら真紅に染まっていたあの時代。俺が“蒼竜騎士団”の第一戦隊を預かっていた頃の話だ。
前線の空に、突然姿を現した漆黒の飛空艇――あれは確か〈デラ=カルマ級魔導巡空艇・第四試作機〉、通称〈ノクティリカ〉。見るからに異様な艦だった。巨大な魔導推進器、常時展開される多層障壁、魔力砲塔、排熱フィン。あの艇が空に浮かぶだけで、戦局の色が変わるような威圧感があった。
その艇を操縦・管理するために派遣されたのが、当時まだ技術局の准上級技師だった“イグザス・ベルネロ”。
初対面の印象は、正直言って――ひょろっとした頼りない眼鏡の男、だった。
白衣の上に薄汚れたマントを羽織り、髪は跳ねてて、足元は野戦に向いてないような革靴。正直、こんな奴が前線に来ること自体冗談かと思った。
だが、実際は違った。
「この艇には、まだ“人の命を運ぶ”資格がありません」
初日のブリーフィングでそう言い切ったのを、今でも覚えている。
開発者本人が、だ。軍上層部が“最新兵器”として大々的に投入しようとしていた〈ノクティリカ〉に対し、彼は真顔で“欠陥がある”と言い放った。
「推進器の熱放散が未調整。砲塔の展開時に魔力干渉が起き、制御が不安定になる。艦内の魔力循環も過負荷ぎみで、長時間の航行は不可能」
的確で冷静な指摘に、俺を含めた戦地の指揮官たちは驚きと共に、少しだけ笑った。
こんなことを軍本部で言えば、即クビどころか粛清もあり得る。けれど、イグザスはそれを恐れていなかった。
「現場に命を預けさせる以上、完璧な状態でなければ私は認めません。私は研究者である前に、技術者ですから」
……その一言で、俺の中で彼の印象はがらりと変わった。
技術者である前に、彼は1人の人間だった。
戦場という場所でそれを貫ける奴は少ない。ましてや、帝国という組織の中では。
その後、俺たちは何度か共同戦線を張ることになった。
砦の防衛戦。後方支援からの離脱作戦。嵐の中の空中戦。
特に覚えているのは、魔導嵐の夜、負傷兵を乗せて強行離脱を試みたあの一戦だ。
あのとき、俺の部隊は囲まれていた。全方位から魔導砲と召喚兵の波。退路は塞がれ、空すら閉じていた。もはや打つ手はない――そう思ったとき、空の彼方から〈ノクティリカ〉が突入してきた。
あの黒い船体が、燃え上がる夜空を裂いて現れたときの衝撃は今でも忘れない。
砲撃をかいくぐり、真っすぐに着陸。しかも、あの無茶な航路を魔力干渉もなく突破していた。
艦首にいたのはいつもの白衣の男。無線越しに聞こえたその声は、やけに淡々としていた。
「乗れますか? あと二分が限界です」
そのとき、彼がすでにすべてを読み切っていたことを悟った。
俺たちは三十名の負傷兵を抱えて突入し、ギリギリで脱出に成功。あの戦は今じゃ帝国の記録にも残っていないが――あの一艇が、三十の命を救ったのは確かだった。
……思えば、イグザスの言葉にはいつも芯があった。
たとえば、こんな言葉も覚えている。
「空は、誰かのために飛ぶもんじゃない。自分が飛びたいから飛ぶんだ」
戦術理論でも戦略命令でもない。あいつ自身の“飛行”に対する純粋な愛着が、そこにあった。
その後、彼は技術局から“自ら離れた”。
派閥争いでも粛清でもない。あくまで、自分の理想を追いかけるためにだ。
「組織にいる限り、私の理論は完成しない」
そう言って正式な手続きを経た上で、帝国の枠を飛び出した。
報酬も名声も、彼にとっては些細なものだったのだろう。
それ以降、彼は独立技師として各地を放浪し、“空を支配しない飛行術”を研究している――そんな噂を耳にしたことがある。
今どこでなにをしているのかと思えば、…そうか。飛空挺の研究を続けているのか。
アイツらしいと言えばアイツらしいが、帝都にいれば設備も人員も揃っているものを。