第27話 ちょ、ちょっとマジでやばいって!
「ちょ、ちょっとマジでやばいって!!」
あわてて体を起こそうとするも、すでに遅い。クロエは完全に馬乗り状態で、寝巻きの上着を肩からするりと落とし始めていた。白く細い肩が、ぼんやりと室内の光に照らされる。
「うわ、まじまじまじ……!!クロエ、落ち着けって!ほんとに、冗談じゃなく!!」
必死に逃げようとする雷牙だったが、候補生としての実力は彼女のほうが確実に上だった。軽やかで的確な動きで押さえ込まれ、寝巻きの裾を引きずり上げられる。
「クロエ!ほんとに、まずいってば!!俺、そういうつもりじゃ――!」
その口を、クロエの手がふっと塞いだ。
「しーっ。うるさい男は……こう」
手のひらが唇に触れる感触。強くないけど、逃げられない。くすぐったさすら覚える圧力に、雷牙は凍りついたように動けなくなる。
「いいじゃん。好きなんでしょ? あたしのこと」
言いながら、クロエは指先で雷牙の胸元にそっと触れた。くすぐるように、撫でるように。
「ほら……力、抜けてるじゃん」
「……違っ、違うって、これは……!」
声を絞り出すが、息が詰まりそうだった。くすぐられたわけじゃないのに、心臓が跳ねる感覚が止まらない。
(やばいやばいやばい……!)
クロエの太ももが自分の腰を挟むように重なっていて、微かに体温が伝わってくる。下手に動けば、どこかに触れてしまいそうな位置関係。しかも――
(くそ……なんで……)
ライとしての記憶が、断片的に蘇ってくる。
クロエと過ごした夜。彼女の癖、弱い場所、耳元で笑った声。
そして――太ももの内側、そこに小さなホクロがあったことまで。
(バカか俺は!! そういうの、今思い出すなって……!)
首をぶんぶんと振る。これは雷牙の記憶じゃない。ライの記憶だ。なのに、それが頭の中に紛れ込んでくる。いや、“混ざってくる”。
(違う、これは俺じゃない……でも、目の前にいるのは……)
クロエは、今の俺の“彼女”じゃない。
だけど、雷牙としての“俺”は――もうその境界を曖昧にし始めていた。
「……あたしのこと、見てる?」
突然、クロエが真剣な顔で問う。
「さっきからずっと焦点合ってないよ?どこ見てんの?」
その声が、ほんの少しだけ震えていた。
「見てるよ……今は、ちゃんと」
雷牙がそう答えると、クロエはふっと、微笑んだ。
「なら……ちょっとだけ、黙っててよ」
そして、顔を近づけてくる。距離は、もう数センチもない。
呼吸が交わる距離。髪の匂い。視線がぶつかる。まばたきの音さえ、聞こえそうな静けさ。
(このまま、いったら――
たぶん、取り返しがつかなくなる)
「……っ、やば……そろそろ、帰らなきゃ……!」
雷牙が声を震わせながら、ふいに天井を仰いだ。
タイミングとしては最悪かもしれない。でも、理性が限界を告げていた。心臓の高鳴りが喉元まで押し寄せてきて、冷静さを保っていられる自信がなかった。
「明日、朝練……あるし……」
かろうじて口にした言葉は、限界ぎりぎりの防衛本能だった。
だが。
「え~、いいじゃん、泊まっていけば?」
クロエは、ふにゃっと笑ったかと思うと、するりと首筋に顔を寄せ――。
「ひゃっ……!」
雷牙は、思わず間抜けな声を漏らした。
首元に、かぷりと柔らかい感触。
クロエの唇が、そこに軽く齧りついたのだ。
「……な、なにっ……!?」
「なにその反応、可愛いじゃん、マジで」
クロエは笑った。お酒のせいか、あるいは雰囲気のせいか、頬がほんのり赤い。瞳は潤んでいて、少しだけ焦点が合っていないようで――けれど、しっかりと雷牙を見つめていた。
「……ねえ、なんか……」
クロエがぽつりとつぶやく。
「今日のあんた、いつもの“ライ”みたいに、がっつかないんだね」
その言葉に、雷牙の脳内が一瞬フリーズする。
(……“ライ”なら、今頃どうしてたんだろうな)
ライとしての自分なら、きっと迷わずキスして、抱きしめて、クロエの身体に手を伸ばしていたのだろう。理性なんかとうに吹っ飛んで、感情のままに突き進んでいたはずだ。
けれど今の“俺”は――雷牙は、それができない。
理由は分かっている。
自分が“どっちの自分”であるのか、まだはっきり答えを出せないからだ。
(……でも、だからって、何もできないままでいいのか?)
このままじゃ、クロエがどんどん不安になるだけだ。
いつもと違う態度に、違う言葉に、きっと彼女だって戸惑ってる。
それでも、こんなふうに向き合ってくれている――。
だったら。
雷牙は意を決して、腕を彼女の背中へと回した。
「――わっ!?」
驚いたように声を上げるクロエ。
そのままぎゅっと、力強く引き寄せる。
密着する身体。
クロエの胸がもろにぶつかってきて、雷牙の頭が一瞬真っ白になりそうになる。
心臓の鼓動がもう、耳の中で爆音みたいに響いている。
(……くそっ、やべぇ……やべぇけど……これで……!)
「動くなよ……これで、お前の動き……封じたからな……!」
何かに必死に縋るように、雷牙はそう言った。
クロエは数秒間、何も言わなかった。
だが次に彼女が呟いた言葉は――雷牙の理性にトドメを刺しかけた。
「……なに? その気になった?」
耳元に熱い吐息。
囁くような声。その距離、その温度に、思考がまたぶれそうになる。
「ち、違う……ちげぇって……!」
雷牙はかすれた声で言葉を吐いた。
「……まだ、俺の記憶、整理できてねぇんだ……。だから、今お前の身体に下手に触れたら……マジで、どっちの“俺”なのか、分かんなくなりそうでさ……!」
言葉が震える。
でも、それが雷牙の本音だった。
クロエは一瞬、黙った。
雷牙の心臓が、ごくりと大きく跳ねる。
拒絶されるかもしれない。
呆れられるかもしれない。
“男として情けない”と思われるかもしれない。
だけど――
「……そっか」
クロエの声は、意外なほど穏やかだった。
そして――
「じゃあさ、しばらくこのままでいい?」
そう言って、彼女は雷牙の首元に額を預けた。
腕の中で、ふわりと重なる体温。
「……え?」
「このまま、ぎゅってしてるだけでいい。なんか……そのほうが、あたしも安心するから」
クロエの声は、少しだけ落ち着いたトーンで耳元に届いた。
(……クロエなりに、いろいろ思うところがあるんだろうな)
俺が“雷牙”であるのか、“ライ”であるのか――そんなややこしい境界を、クロエはたぶん、本人なりにずっと考えてたんだと思う。
なんかこう――あたたかくて、ちょっとくすぐったい。
彼女の体温が、胸元にじんわり伝わってくる。
ドキドキしてるのがバレないように必死だけど、それはそれとして、ちょっとこの空気は嫌いじゃなかった。
「……わかった」
雷牙はごく自然なふりをして、そっと彼女の背中に手を回した。
別にやましいことをしようってわけじゃない。むしろ逆。
あえて静かに、あえて“何もしない”ことが、いま最も難易度が高い選択肢だということは理解していた。
(よし……耐えろ、俺。理性のライフ、まだ残ってる)
クロエはなにも言わずに、彼の胸に軽く額を預けてくる。
どこか安心したような、その仕草に少しだけ拍子抜けしつつ、雷牙は目を閉じた。
――しばらく、このままでいよう。
ぎゅっと抱きしめるわけでもなく、押し倒されるわけでもない。
ただこうして隣にいて、ぬくもりを分け合うくらいが、今はちょうどいい。
たぶん、いや、絶対に心臓はうるさく鳴ってるけど――それもまあ、彼女にはバレてないだろう。たぶん。
(……たぶん、な)
――という不安を抱えつつも、もう少しだけこの時間に身を預けることにした。




