第25話 とにかく、そんな感じだよ
江ノ島、かぁ――。
クロエはぽつりとつぶやくように言った。
その頃にはもう、彼女の手からはゲームのコントローラーが滑り落ちていた。
最初はゲームのついでだったはずの会話が、いつの間にか“神谷雷牙の過去”へと深く潜り込んでいた。
異国の風景のような“江ノ島”という響き。
日本という国、藤沢という街。潮風と風鈴、ラーメンと商店街。
彼の言葉のひとつひとつが、クロエには聞きなれない響きを伴って、どこか懐かしい音楽のように心の奥をくすぐっていた。
「ねえ、それで? そのお店って、どんな味だったの? 一番好きなメニューとかさ、あたしにも分かるようにもっと――」
クロエはソファの背から乗り出すようにして、話の続きをせがんだ。
雷牙はほんの少し苦笑して、肩をすくめる。
言葉を選ぶように視線を宙にさまよわせたあと、彼はふと口を閉じた。
「……とにかく、そんな感じだよ」
話を打ち切るような言い方だった。
クロエは「え~? なにそれ、もったいぶらないでよ」と笑ったが、雷牙の表情を見て、それ以上は強く言わなかった。
――正直、ずっと話していたっていいとは思った。
江ノ島のこと、日本のこと、ラーメンのこと、夏の記憶、風の匂い……。
クロエがどこまで理解できているのかは分からない。けれど彼女は確かに、真剣に聞いてくれていた。
だけど雷牙には、これ以上を言葉にするのが難しかった。
説明しようとすればするほど、“ライ”としての記憶が邪魔をしてくる。
異世界で生きてきた時間と、現実で過ごしてきた日々が、受け皿も整えられないままぐしゃぐしゃに絡み合っていく。
――どっちの記憶が“本当”なんだ?
自分は“神谷雷牙”なのか、“雷導兵ライ”なのか――
言葉を紡ぐたびに、自分がどちら側の人間だったのかすら曖昧になってくる。
胸の奥がざわつき、頭のどこかで目眩のような感覚がぶり返す。
(……なんか、気持ち悪ぃ)
目の奥が少し重くなるような感覚があった。
身体はここにあるのに、意識だけが遠くに置いていかれてる――そんな気がした。
(こうして、ここにいる俺って……誰なんだ?)
“神谷雷牙”と呼ばれていた過去。
江ノ島で、ラーメン屋の息子として生きてきた少年。
潮風と出汁の匂いの中で笑い、坂道を駆け上がり、夢中でラーメンを作っていたあの頃の自分。
それは確かに“俺”だった。
けれど今、こうしてクロエの隣に座っている“俺”は、俺であって俺じゃない。
異世界に飛ばされ、目覚めた先で名乗らされていた名――雷導兵“ライ”。
数えきれない任務、戦闘、決断、失敗、喪失……そして、もうひとつの“日常”。
ライとして過ごした時間も、やはり確かに“俺”のものだと感じてしまっている。
それぞれの時間、それぞれの名前、それぞれの感情。
まるで別の人間の記憶のように思えるけれど、それを感じていたのは紛れもなく“俺”だった。
――だったら……どっちが“本当”なんだ?
言葉にすると安っぽくなるような問いだったが、それでもふとした拍子に、心に浮かんでしまう。
たとえばクロエと笑い合うこの瞬間は、雷牙のものか、ライのものか。
彼女とゲームをしながら言葉を交わすのは、どちらの人生の延長線なのか。
(……たぶん、もう“どっちか”って話じゃないんだろうな)
両方とも、自分の中にある。
だからこそ、どちらかだけを“選ぶ”ことができない。
汐見町で生きた雷牙の感覚も、エレクトロニアで戦ってきたライの記憶も――全部が、自分という存在のそのもので、他の何者でもない“自分”なんだ。
(過去は、どれも切り捨てられない)
どんなに曖昧になっても、都合よく忘れてしまいたくても。
誰かに話すとき、“あれは全部嘘でした”なんて割り切れたら楽かもしれないけれど、それをやった瞬間に俺という人間の根っこはどこかで崩れてしまう気がした。
(雷牙である俺も、ライである俺も、どっちも――)
それでも。
言葉にすればするほど、自分が分からなくなる。
伝えようとするたびに、“片方の俺”が“もう片方の俺”の輪郭をぼかしてしまう。
まるで、自分の心の奥で雷牙とライが綱引きしてるみたいに。
……だから
話すのをやめたのは、気遣いでも誤魔化しでもない。
ただ――そうしないと、自分が“バラバラになりそうだった”からだ。
名前や肩書きじゃなくて、記憶や役割でもなくて。
自分という存在を繋ぎ止めている何か――それがいま、少しだけ揺れていた。
でも、隣にはクロエがいた。
どちらの俺でもなく、「今ここにいる俺」をただ見てくれている、数少ない存在。
それだけは、心強かった。
「ちょっと、一旦休憩な」
雷牙はそう言って、再びコントローラーを握り直した。
ゲームの画面には、ドット絵のキャラクターたちがまた無表情に動き出していた。
クロエは口を尖らせながらも、「はーい、先生」なんて軽く返してベッドに身体を預けた。
だけどその目はまだ、ほんの少しだけ雷牙の横顔を見つめ続けていた。
彼の語った風景――“江ノ島 汐見町”という、彼にしか存在しない世界。
それはクロエにとってもどこまでも遠く、けれど妙に近しい、そんな場所にも思えていた。




