第20話 承認降りた?
「承認、降りた?」
クロエが髪をタオルで拭きながら、何気なくそう尋ねてくる。濡れた髪先からぽとぽとと雫が落ちるのを指で拭いながら、リビングの中心で軽く伸びをした。
雷牙は、手元に置いていた《エコル》を再び手に取り、画面を確認する。
「……マジかよ」
居宅滞在申請――いわゆる「一時外泊届」だ。それが正式に承認されたことを示す通知が届いていた。電子署名と認証コードが付与され、エレクトロニア市民層内での滞在は“問題なし”と記されている。
【居宅滞在申請】承認されました。
滞在期限:本日24時まで(延長申請可)
許可階層:中環第六市街/準上層市民宅
注意:霊素移動記録は常時取得中
「うわ、マジで通ってる……」
「ほらね、言ったじゃん。なんだかんだ制度はちゃんとしてんだからさ」
「いや、こんなんあるの初めて知ったし」
「まあまあ、とにかくこれで心置きなく遊べるね♪」
クロエが嬉しそうに声を上げ、濡れたままの髪をバサッと揺らしながらこちらへ歩いてくる。そのまま近づくと、ほのかにシャンプーの匂いが香ってきた。
「そんじゃ、雷牙もシャワー浴びたら?」
「……は? いやいやいやいや、シャワーて!?」
雷牙は思わずのけ反るようにして言った。
「いや、ちょっと待て、そんな……こっちは着替えも何も持ってきてないし、そもそも人ん家でシャワー借りるとか、図々しすぎるって……」
「なーに言ってんの。いいからいいから♪ パジャマくらい貸してあげるって。サイズも似てるし?」
「いやいやいやいや……っつか、え? 泊めるつもりなの!? え、マジで?」
雷牙の声が一段階上がる。
「だから、夜はこれからって言ってんじゃん♪ まったりしよーよ。ほら、あんた汗かいてんでしょ? 訓練のあとのままじゃん。風呂入った方がさっぱりするよ?」
そう言いながら、クロエはお構いなしに雷牙の手を掴み、ぐいぐいと引っ張り出す。
「ちょ、クロエさん!? いや、マジで! 落ち着け! 深呼吸しよう、一回な!?」
「はいはーい、行くよー?」
俺の抗議なんてどこ吹く風。彼女はそのまま脱衣所の方へと俺をずるずる引きずっていく。なぜか家の構造がやたらスムーズに頭に入ってくるのが悔しい。
「大丈夫、覗いたりしないってば♪」
「そういう問題じゃねぇぇ……!!」
クロエの勢いは止まらず、そのまま雷牙を引きずって廊下へ。やがて脱衣所の前に辿り着くと、彼女はにっこりと笑いながらドアを開けた。
「じゃ、ここ使っていいよー。パジャマ、今持ってくるから!」
「いや、ちょ……!」
バタン。
ドアが閉まる音が響き、そこにはシャンプーの香りと蒸気がほんのり残っていた。
(……いや、待てよ。なんで俺、シャワー浴びる流れになってんの!?)
……これって、いったい何の訓練だ?
気がつけば、雷牙はぽつんと脱衣所に立っていた。
白い壁と、小さな換気ファンのかすかな音。棚にはきれいに畳まれたタオルが数枚、柔軟剤の匂いとともに並んでいる。足元のバスマットはまだほんのり温かく、誰かがさっきまでここにいたことを物語っていた。
「……うわ、マジで入るのか、俺……」
ぼそりと呟きながら、彼はなんとなく周囲を見回す。見慣れない家の脱衣所。よその家のシャワーを借りるなんて、人生でもそうそうない経験だ。しかも相手は彼女とはいえ、女の子の家だ。
戸惑いながらもそっとバスタオルを手に取り、場違いな自分を誤魔化すように息を吐いた。
窓の外からは遠くの雑踏やクラクションの音が微かに聞こえてくる。湯気とともにふんわりと香るのは、たぶん彼女の使っていたシャンプーか何かの匂い。甘さと、ほんの少しの清涼感が混じったような、どこかクセになる香りだった。
「……いや、落ち着け。これは風呂。そう、ただの風呂だ」
そう言い聞かせるようにして制服のボタンに手をかけ、ゆっくりと脱いでいく。服を脱ぎ、シャワー室の扉を開けると、ほんのり湯気が立ちこめていた。温かい湿気に包まれたその空間は、どこか安心感さえあった。
おそるおそる蛇口をひねると、すぐにちょうどいい温度の湯が勢いよく出てくる。手のひらに受けた瞬間、そのあたたかさに思わずため息が漏れた。
(……くそ、気持ちいいな)
肩に湯が当たるたび、訓練で凝り固まっていた筋肉がじわじわとほぐれていく。背中に当たるお湯の感触がやけにリアルで、こうしてただシャワーを浴びているだけのことが、なぜか不思議な時間に思えた。
壁際には整然と並べられたボトル類。シャンプー、コンディショナー、ボディソープ――どれも生活感のある使いかけで、ラベルにはクロエの名前が手書きされたものもあった。
(……ちゃんとしてんだな、クロエって)
普段のギャルっぽい見た目からは想像しづらいけど、こういう“ちゃんと整えられた場所”で、ずっと暮らしてきたんだな……と、妙にしんみりする。
タオルに包まれるような生活。毎日ちゃんと洗って、食べて、眠って。そういう、当たり前みたいな時間の積み重ねが、彼女の中にあるんだろう。
――それに比べて、俺は?
ふとそんな言葉が頭をよぎったが、すぐに振り払う。今は風呂だ。余計なことは考えなくていい。ただ湯に打たれて、今日の疲れを流せばいい。
目を閉じると、耳に残るのはシャワーの音と、外から聞こえてくるクロエの鼻歌。曲名なんて分からないけど、なんとなく楽しそうなリズムで、それだけで空気がちょっと柔らかくなる。
こんな夜が、あるとは思わなかった。
任務も訓練も、思い出も未来も、今だけはどこか遠くに置いてきたみたいで――ただ、誰かの家で風呂に入ってるだけの自分が、妙に“ちゃんと生きてる”気がした。




