第19話 俺、男だからな?
エコルの画面を閉じたあと、雷牙はふぅっと小さく息を吐いた。
静かな室内に、クロエがさっきまで鼻歌まじりで動いていた余韻だけが残っている。
どこか妙な現実感というか、夢から覚めきらないようなぼんやりとした浮遊感が、ゆらゆら頭の中に漂っていた。記憶のどこにも存在しなかったはずの場所に自分が今こうして座っているということが、まだちょっと信じられない。
「……それにしても、ここが“市民層の家”か……」
思わず、そう呟いてしまう。
LCAの支援枠候補生である自分にとって、こういう“ちゃんとした家庭”ってやつには何か壁のような距離感がある。下層区育ちの身にとって、こんな二階建ての一軒家なんて自分の人生には一度も関係ないものだと、勝手に思い込んでいた。
クロエは寮生ではない。中環第六市街に家があるから、通学(通訓)という形でLCAの施設に通っている。俺とはそもそもクラスが違うし、専攻してる学科も違う――そう説明されていたが、いざ実際に来てみると、彼女の暮らしはどこか“普通の学生”のようで。
……いや、こういうのが“普通”なのか。むしろ、こっちが“例外”なんだよな。
「学生かぁ……」
つい昔を思い出しそうになるが、頭の中の記憶は濁っている。東京の大学に通っていた“神谷雷牙”の記憶が、少しずつ薄れていく一方で、“ライ”として生きてきた記憶が、曖昧ながらも日に日に濃くなってきている。
そういう意味では目の前のこの光景――クロエの家の中――は、“俺”の中にあるどちらの記憶にも当てはまらない、“未知の風景”だった。
「……あんまりジロジロ見るのもアレか」
とは思いつつも、つい目線はあちこちを辿ってしまう。
家具の配置は整然としているのに、どこか“生活の温度”が残っていた。リビングの一角には、雑誌が無造作に積まれたローテーブル。その上には使用途中のハンドクリームやリップ、霊素保湿器の小型カートリッジが転がっていて――おそらくクロエが普段、そこに座って何気なく手入れをしているのだろう。
壁には大きめのデジタルクロックが掛けられ、その周囲を囲うように写真やポスターが貼られている。アニメっぽいキャラクターのホログラムスタンド、雷導兵育成キャンペーンの記念グッズ、どこかのライブチケットの半券。派手すぎない、けど“好きなものに囲まれてる”感覚が、その空間からにじんでいた。
キッチンカウンターの脇には、未使用の霊素ドリンクが数本、専用ホルダーに整列している。その奥には小型の調理ユニットと、古そうなスパイスラックが設置されていた。そこに並ぶのは、香辛料だけじゃない。和風の調味料っぽいボトルや、手書きで「味覇類似品」と書かれた小瓶もある。
――あれ、たぶん“ラーメン用”だよな。
思わずそんなことを考えて、口元がゆるむ。クロエの話を思い出す。彼女はたまに、寮で「スープ再現レシピ」とか言って俺に見せてきた。まさかそれが家にもあるとは。
目を移すと、カーテンの端には手縫いの刺繍が入っていた。「CLOE」と、アルファベットの名前が小さく縫われている。……いや、これはたぶん子どもの頃のやつだ。少し色が褪せていて、それが逆に時間の重みを感じさせた。
窓の外に目をやれば、向かいの家のベランダが見える。そこには洗濯物が揺れていて、霊素乾燥ではなく自然乾燥らしい。夜間モードの街灯がふわりと灯っていて、ネオンではない、もっと“暮らしに近い”橙色の光が窓辺を照らしていた。
どこからか近所のテレビの音が漏れてくる。誰かが笑ってる声。下層では聞かなかった、こんな時間のこんな音。都市の中に埋もれた、この場所特有の“人間の匂い”があった。
部屋の片隅には、クロエの練習用と思われる個人端末と訓練用ヘッドセット。それが無造作に椅子の背にかけられているのを見て――なんとなく、彼女の日常が立ち上がってくる気がした。
朝、バタバタと着替えて飛び出していく姿。家で食べる軽めの朝食。休日にダラダラとソファに寝転んで、マナチューブ片手にドラマを観る時間。近所の友達と通話しながら課題を片付ける夜。そういう“普通の生活”が、確かにこの部屋に積み重なってきたんだと思った。
……俺には、こういう時間、あったか?
雷導兵としての戦術訓練。日々の評価。任務と自律。そして過去の記憶。俺の時間は常に何かに追われるように流れていた。誰かとこうして何でもない部屋で、意味もなく同じ空気を吸う――そんなことが、こんなにも“遠い世界”のことだったなんて。
そう思った瞬間、妙に胸の奥が熱くなった。
――すげぇな、ホントに“ちゃんとした生活”って感じだ。
どこか安心感のある、けれど自分にはあまりに“遠い”日常。
そんな思いに耽っていたときだった。
「お先〜」
その声とともに、クロエがバスルームの奥からリビングに戻ってきた。
……が。
雷牙の目が、思わず固まった。
クロエは、バスタオル一枚。髪から滴る水滴を軽く拭きながら、何の迷いもなくスタスタと部屋を歩いてくる。
「……っお、おいおいおい……!」
「ん? なに?」
そう言って、彼女はまったく気にする様子もなく、ソファ横のチェストからスマートリモートを取り出してスイッチを入れる。
雷牙はというと視線のやり場に困って、とりあえず手元の缶ビールに目を落とすフリをする。
「……お前なぁ……そういうの、わかってやってんのか……?」
「えー? なに? あたしん家だし、リラックスさせてよ」
どこまでが本気で、どこまでが無自覚なのか。いやたぶん、全部本気で全部無自覚なんだろう。これがクロエという存在の“素”だ。
タオルの端から覗く肩や鎖骨、濡れた髪から滴る水滴、肌に密着したバスタオルの布地――そのどれもが、余計に“生々しい現実”として雷牙の感覚を刺激してくる。
彼は視線をそらしながら、半ば反射的に言葉を吐き出した。
「……つーか、そういうの……気ぃつけろよ。俺、男だからな?」
「ふふ、知ってるよ?」
クロエは楽しげに笑うと、まるで何でもないかのようにソファの向かい側に腰を下ろす。
「でもさ、ライってさ。なんか、変なとこだけ真面目っていうか。……安心しちゃうんだよね。そーいうとこ」
その言葉に、ライは何も言い返せなかった。
部屋の空気が、静かに――けれど確かに、少しだけ変わった気がした。
次第に乾きつつある髪から立ち上るシャンプーの香り。静かに流れる霊素空調の微振動。そして、今この空間に確かに“ふたり”だけがいるという事実。
さっきまでの雑踏や都市の光が遠くなっていくような、そんな夜の深まりがそこにはあった。




