第11話 星の家
日々の訓練は淡々と続いていった。
朝は冷たい点呼の声で始まり、鋼のように硬い空気の中、何十人もの訓練生が整列する。
そこから走る、跳ぶ、撃つ、伏せる――一連の動作を身体が覚えるまで、何度も何度も繰り返す。
汗が目に染み、喉は乾き、筋肉は悲鳴を上げる。
それでも、気がつけば自然と仲間たちと声を合わせていた。
レオンの豪快な掛け声、ユリウスの冷静な指示。いつの間にか、それらが訓練の日常風景の一部になっていた。
ただ必死に“こなして”いたはずの訓練だった。
最近までは。
だけどある日――ふとした瞬間、俺の中で何かが引き金を引いたように、記憶が蘇ることがあった。
それは、街の下町での日々だった。
訓練場の隅に積まれた鉄のコンテナの匂い。
焼けた金属、油、そして乾いた埃の混ざり合ったあの臭い――
それが、ある「場所」を思い出させた。
――エレクトロニア下層区。
かつて俺が育った、煤けた街だ。
機械都市の華やかな上層、高度な雷導網が煌めく中環、未来都市の象徴となるようなスパイア・クラウンの光景は、ここには存在しなかった。
そこは巨大な都市構造が縦に積み重なった最深部であり、地上の陽光が一滴たりとも届かぬ場所。
霊素照明が弱々しく路地を照らし、冷たい蒸気と埃が入り混じった空気がいつも重く垂れ込めていた場所。
鉄骨の骨組みが無数に絡まり、まるで鋼の森のように頭上を覆っていた。
高層への導管や配管の隙間からは常に霊素の微細振動が漏れ、機械の息のような音を立てていた。
その骨組みの継ぎ目から滴り落ちる濃霧は、まるで地下の雨のようにコンクリの地面を濡らし、ポタポタという一定のリズムを刻んでいた。
あの街では、昼でも夜でもない永遠の薄暗さが続く。
光を拒む鉄と石の峡谷が、いつも俺たちの周りを囲い込んでいた。
狭い通りには壊れかけの屋台がまばらに並び、その鉄板の上で焦げる匂いは、どこか湿った苦さを含んでいた。
古びた看板の光は時折チラつき、半分消えかけた電脈表示が通行人の影を不規則に揺らす。
壊れた住居は幾重にも積み重なり、隙間だらけの廊下を抜ける風は、霊素照明のハンチング音を伴って俺たちの肌を撫でた。
そこかしこに螺旋状の配管と太い通気ダクトが絡み合っていた。
これらは都市機能の裏側を露わにし、人々の生活と霊素網の全てを隠すことなくさらけ出していた。
上層の人間が想像する“近代都市”の陰影など、あそこには存在しない。
あるのは、生きるための現実だけだった。
俺はそこで育った。
破れた靴をつぎはぎの布で補強し、ほつれたシャツを風に翻しながら毎日を生き抜いた。
腹を満たすのは日々工夫して作った粗末な食事。残り物の穀粉を練って焼いたパンのようなものに、乾いた漬物と水っぽいスープ――。
だが、その暮らしの中にも“確かな温もり”があった。
屋台の向こうから漂ってくる香ばしい焼き物の匂い。
そのただなかで笑い合う、子供たちの無邪気な声──
路地裏の不安定な霊素照明が、俺たちの笑顔を淡く照らしていた。
俺もその中のひとりだった。
拾った空き缶を蹴りながら、狭い路地を駆け回る。
配管の影をジャンプで飛び越え、仲間たちと勝負をしては、転んで膝を擦りむいて笑い転げた。
その街のどこかに、居場所があった。
そして――その中にはいつも、リアナがいた。
リアナは、幼い頃から誰よりも優れていた。
走れば風のように速く、石蹴りをすれば正確無比に角を打ち抜く。拾った木片を剣に見立てて構えれば、俺たちの誰も彼女に敵う者はいなかった。
けれど、彼女はただ“強い”だけじゃなかった。
目立つ存在でありながら、決して驕らず、いつも冷静に周囲を見渡していた。
年下の子が泣けば、屈んで目線を合わせて慰めたし、年上の連中に絡まれている子がいれば、一歩も引かずに間に入った。
そんな彼女を、俺たちは自然と「中心」に据えていた。
小さな集団のなかでは年齢も体格も大差ないはずなのに、彼女はまるで“誰かの代わり”であるかのように全員の前に立っていた。
そして――いつも前を見ていた。他の誰よりも、真っすぐに。
あの頃、俺たちは皆同じ重さを背負って生きていたんだ。
――戦争孤児。
かつて帝国と連邦のあいだで交わされた軍事衝突。
その名残は焼け落ちた村や、封鎖された土地、そして何より親を失った子供たちという“結果”となって確かに存在していた。
俺もリアナも、そして他の子供たちも、皆が親の顔を知らず、血の繋がりもなかった。
その俺たちをひとつ屋根の下に集めていたのが、「星の家」と呼ばれる孤児院だった。
正式名称は「観測居住棟 《セレスティアル・ハビタ》」。
だが、誰もそんな堅苦しい名では呼ばなかった。俺たちにとってそこはただ“家”であり、日々を過ごしていくための場所だった。
帝国領土の外縁にある小さな村の外れ。
村を越えてさらに奥、丘を登りきった崖縁にそれはぽつんと建っていた。
壁は風雨に削られた灰白色の石灰岩で積まれ、屋根には深い紺色の瓦が葺かれていた。
昼間はさほど目立たないその瓦も、夜になると星明かりや月光を受けて柔らかく光を返す。それはまるで、家そのものが空と共鳴しているような光景だった。
崖の向こうには、ただ果てしない夜空が広がっていた。
都会のような灯りはなく、星々が一つひとつ瞬きながら、俺たちの小さな世界を覆っていた。
小さな家の前庭に立って空を見上げると、まるで“空の中に住んでいる”ような気分になった。
俺たちはその空を見て育ち、時には「星になった親が、見ていてくれる」と信じようとした。
古びていて雨漏りもしたし、風が吹けば軋んだ音を立てる家だった。
そこで過ごした日々は、今思えば宝物だった。
大人たちは手を抜くことなく俺たちに接してくれたし、何より子供たち同士が本当の家族のように支え合っていた。
誰かが風邪をひけば皆で看病し、パンが一つしかなければ分け合った。
そこには、たしかに“日常”があった。
質素な石造りの廊下を、裸足で駆け抜ける音。
朝になると鳴る、小さな鐘の音。朝食の匂いを漂わせながら、台所からは古い調理器具の音がカタカタと響いていた。
「ほら、起きなさい!スープが冷めるよ!」
そんな声に寝ぼけ眼のまま布団から這い出すと、隣には必ずリアナの姿があった。
無言で布団を畳む彼女を見て、俺も慌てて手を動かした。遅れれば、教官の代わりに年上の子たちが遠慮なく尻を叩いてくる。
誰もが貧しく、誰もが不完全だった。
でも、その不完全さを補い合い、分け合い、笑い合っていた。
朝の祈りでは、誰からともなく手をつなぎ、星空の残滓を背に、声を合わせて詩を唱える。
「我ら、空より降りし光の子。土に根ざし、風に導かれ、いずれまた天へ還る者なり」
意味を理解していたわけではない。けれどその言葉は、心を少しだけあたためてくれた。
リアナは、そんな日常の中でも特別だった。
炊き出しの手伝いでは、誰よりも手際が良く、泣いている子供には必ず最初に駆け寄った。
小さな手を差し出しながら「大丈夫だよ」と言うその声には、幼いくせに不思議と“信じられる何か”があった。
星の家には、決まりごとがいくつもあった。
食事の前には感謝の言葉を述べること。
他人の名前を呼ぶときは、できるだけ敬意を込めること。
そしてなにより、「誰かの痛みを見て、見ぬふりをしないこと」。
その掟は、文字通り身体に刻まれていた。
ひとりが苦しめば、皆で支える。ひとりが怒られれば、皆で正す。
ときに理不尽で、ときに面倒で――だけど、それが“生きる”ということだった。
夜になると屋根裏の部屋に集まり、皆で毛布を分け合って眠った。
中にはおねしょをして泣く子もいたし、悪夢にうなされる子もいた。
そんな時、誰かがささやくように歌を口ずさむ。
それはきっと、ずっと昔に聞いた子守唄。
誰が教えたかも分からない。でも、皆がそれを知っていた。
「らい、らい、星の声、
ねむれぬ子を、つれてゆけ。
雷の空に、ひとつ星。
やさしき手が、いま、ふれる……」
リアナがその歌を歌うと、不思議と空気がやわらかくなった。
彼女の声は高くも低くもない、ただ透明な響きを持っていた。
それは雷のように激しいものではなかったけれど、深く、確かに心に沁みていくものだった。
俺たちの寝息が重なり、やがて一つの穏やかな波になって、屋根裏の空間を包み込む。
その静寂のなかで、俺はいつも“安心”という名の小さな灯を抱いていた。




