第9話 俺のアイデンティティはどこにラーメンを置いた?
レオンとユリウスと話す時間が増えるたび、俺の頭の中では記憶が書き換えられていくようだった。
最初は会話の断片に過ぎなかったものが、やがて場面ごとの映像に変わり、さらに感情や匂い、温度までもが伴ってくる。まるでフィルムの隙間に欠けていたコマが埋められるように、徐々に鮮明さを増していくのだ。
俺はこの街に住んでいた。
そう思うのが自然にさえ感じられるほど、細部がリアルだった。
街路の石畳の冷たさ、夜風に漂うマナ灯の匂い、広場で買い食いした串焼きの味――どれもが「昨日のこと」として脳裏に刻まれている。
さらに厄介なのは、家族の記憶まで浮かんできたことだった。
寮の会話の中でふと「母親」という言葉が出てくると、俺の頭にとっさに誰かの顔が浮かぶんだ。優しげな表情、肩まで流れる栗色の髪、穏やかな声。
「父親」の記憶もある。がっしりした体格で、低い声で俺を叱る姿。
……だが、その顔は俺の父ちゃんや母さんとはまるで似ていなかった。
父ちゃんはラーメン屋の頑固親父で、いつも厨房に立って寸胴を振っていた。母さんは優しいけど口うるさくて、食材の原価計算ばかり気にしていた。
なのに今頭に浮かぶ両親は、機械都市エレクトロニアの住人としてごく自然にそこに存在している。
その乖離に、俺の胸は冷たく締めつけられた。
訓練が終わった後、ヘトヘトになりながら寮の浴場へ向かった。汗まみれの体を洗い流すため――そして、ほんの少しだけ現実逃避するためだ。
浴場は誰もいなかった。ラッキー。今なら独占風呂だぜ。とか思いながらシャワーを浴び、ついでに「自分って今どんな顔してんだろう」と、なんとなく鏡を覗いてみた。
そこに映る顔は、やっぱり俺の知っている“神谷雷牙”じゃなかった。
目は澄んだ青で、稲妻を閉じ込めたような光を宿している。まつ毛は意外なほど長いが、それさえも鋭い印象を崩さない端正な顔立ちのアクセントになっていた。髪は淡い金色で無造作に跳ね、頬の線は研ぎ澄まされた刃のようだ。
かつて大学の友だちが「お前はどこにでもいる普通の男だな」と笑ったあの曖昧な面影は、もうどこにも見当たらない。
鏡の中の顔は「ライ」という誰かであって、俺自身ではなかった。
鏡の前で、俺はしばらく固まっていた。ガラスの向こうにいる誰か――いや、もはや“何か”を見つめながら、指先でそっと鏡をなぞる。
冷たい。リアルな温度が、現実を突きつけてくる。
「……俺、誰なんだよ」
思わず呟いた声は、浴場のタイルに吸い込まれて消えていった。まるで自分の存在ごと、どこかへ飲まれていくような感覚だった。
大学のキャンパスを歩いていた俺。
バイト先でラーメン鍋と格闘していた俺。
父ちゃんと並んで、スープの味見をしていたあの時間。
それらは確かに“俺”だった。
だが今ここに映っている顔――これは完全に別人である。“ライ”という誰か。
まるで映画の中で配役が変更されたように、いつの間にか主演が入れ替わっていた。
頭の中で、無数のクエスチョンマークがぐるぐると回る。
俺は誰だ。
どこから来た。
どこへ向かってる。
ついでに、次の食事は何時だ(重要)。
そんな混乱の渦の中、ひとつだけ、やたらハッキリしているものがあった。
それが「ライ」という名前だ。
気がつけば、周りの人間は全員そう呼んでいる。
レオンが呼ぶ。「おい、ライ」
ユリウスが心配する。「ライ、体調は大丈夫か」
そしてリアナですら、ビシッと軍服決めた状態で「ライ」と冷ややかに名乗る。
……いや、ライって誰やねん。俺は神谷雷牙だぞ? ラーメン命の大学二年生だぞ? カップ麺なら五秒で語れるぞ?
……はずだった。
でもな、毎日「ライ」「ライ」って呼ばれ続けると、人間ってだんだん慣れてきちゃうのよ。
なんなら、「神谷くん」って呼ばれたら「誰?」ってなる自分が、ちょっと怖い。
街を歩いてるときの足音。訓練場で走った感触。仲間と笑いあった時間。
それらは、明らかに“ライ”としての記憶。でもそれが妙にリアルで、生々しくて――
今の俺の“実感”として、否応なしに馴染んでくる。
気がついたら、自己紹介で「ライです」とか言いそうになってて、頭抱えたくなる。
いやいやいや、神谷雷牙って名前はいつ登録されたんだよ。誰が設定したの? 運営? え? 世界の運営ってどこ?(真顔)
なのに――
……なのに。
俺は今日、食堂で呼びかけられた時、完全に無意識で「はい」と返事してしまった。
雷牙じゃない。“ライ”として。
――ああ、これってつまり、俺の「アイデンティティ」が、ガラガラと音を立てて崩れてるってことか。
鏡の中の男は、確かに俺だった。でも、俺じゃない。
その境界線が、日に日に薄れていくのがわかる。
「俺、もうラーメン屋戻れねぇんじゃないか……」
ぽつりと呟いたその声に、鏡の中のライは答えてくれなかった。
……でも、たぶん彼も同じことを思っている。きっと。
だって、今の俺の顔は、限りなく“そういう顔”をしていたからだ。




