第20話 霜雪ヒレ茸…だと?
「……ところでなんだが」
焚き火の熾火がまだ赤々とくすぶる頃、カイは唐突にそう切り出した。ついさっきまで“戦鍋”をつつきながら、部下の酒癖がどうとか干し肉の火加減がどうとか笑っていたくせに、だ。こういうときはだいたいろくでもないと相場が決まっている。
「……言っておくが、金は貸さないぞ。あと店はお前らの遊び場じゃないからな」
「ちげぇよ。真面目な依頼だ」
彼女は炙った干し肉を片手に、顎で合図するように俺を見た。
「――技師の“イグザス・ベルネロ”って名前、覚えてるか?」
聞いた瞬間、胸の奥がぐっと重くなった。忘れるわけがない。
イグザス・ベルネロ――かつて帝国の魔導技術局で、“飛行技術”の権威として名を馳せた天才技師。俺が所属していた隊とはあまり関わりはなかったが、何度か戦場で顔を合わせたことがある。
魔導飛空艇〈ウルティモ号〉の設計主幹。戦闘中に墜落しかけた艇を魔法と理論で持ち直した、あの“空の鬼才”。
「覚えてる。……だが、今どこで何をしてるかまでは知らん」
「それが、どうやら今は山岳地帯の奥で研究してるらしくてな。世捨て人みたいな生活してるって噂だ」
……似た者同士め。
「で、なんの用なんだ。イグザスに」
「来月、〈大陸横断空賊レース〉が開催される。私の艇――“シルヴァ=ヴァルザン"の調整を頼みたい」
……バカな祭りだ。
空賊同士の威信をかけた空中レース。速さだけでなく、奇抜な航路選択や敵陣突破、天候読みまでを競うという命知らずのバカたちが主催の空のイベント。過去には大気圏の外に出たまま帰ってこなかった連中もいたと聞く。
「……イグザスは、そんな無茶に付き合うような奴じゃなかったはずだがな」
「だから紹介してほしいんだよ、あんたから」
「断る。俺は忙しい」
即答した。
朝は炊飯、昼は接客、夜は保存食の下ごしらえ。いつ休めばいいのかわからない過密日程の中で寝る時間も削って右往左往しているというのに、空を飛ぶバカどもに協力する暇なんてあるか。
「おいおい、いつからそんなしおらしくなっちまったんだ?」
「昔からだ。お前みたいに世界を飛び回るような冒険者気質じゃないんでな」
「…よく言うぜ。ま、そう言うとは思ったよ。ただ、もちろんタダってわけじゃねー」
「…どういう意味だ?」
「料亭を開いたあんたに、“とっておきの見返りを用意したんだよ”。色々候補があったんだが、これが一番じゃねーかと思ってな」
そう言って豪快に広げたのは、一冊の『幻食材交易録・空路版』だった。
「ルミナス大陸じゃまず手に入らない食材を、定期的にここに届けてやる。どうだ? 悪くない話だろ?」
その言葉に、俺の手が止まった。
「……具体的には?」
「霜雪ヒレ茸。あと、アマリアの白蜂蜜。それと、ウロボロス海峡で採れる“紅雷貝”な」
あのな。
それ全部、調理師ギルドの“幻の素材ランキング”でトップ10入りしてるやつだぞ。そんな簡単に手に入るわけが……
「空賊仲間に調達屋がいてな。今回はうちの艇がレースに勝てば、その辺全部優先供給の契約が結べる」
「……俺が手伝ったら、その契約が結ばれると?」
「イグザスが引き受けてくれりゃな。ま、あんたの顔ならいけるだろ?」
カイはそう言って、例の勝気な笑みを浮かべた。“俺の顔なら”――
……まったく、誰がこんな顔にしたと思ってるんだ。
世界を救った英雄。帝国の蒼竜騎士団隊長。幾度となく修羅場をくぐり抜けた軍団きっての切り札。全て、俺の望んだ肩書きじゃなかった。
それでも付き合いの中で生まれた“縁”というものは、簡単には捨てられないらしい。
「……お前らのレースで死人が出るって噂、今でも聞くぞ」
「安心しろ。今回のコースはそんなに危険な場所じゃねぇ」
「……信用ならん」
「でも、霜雪ヒレ茸、食いたいだろ?」
「…………くそ」
否定できなかった。
あのキノコは、出汁をとるだけで香りが数里先に届くと言われる希少食材。あれで鍋を作った日には、野営中の獣すら感涙して集まってくるという伝説がある。
俺は唸った。たっぷりと唸った末に、深く息を吐いて言った。
「……山越えと調査、宿と焚き火と三食、全部お前持ちなら考えてやる」
「交渉成立だな!」
即答か。まったく、この女は変わらない。
……俺は、また静けさから一歩遠ざかる気がしてならなかった。