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第160話 号外






翌朝、帝都セレスティアの空気は驚くほど澄み渡っていた。

光脈塔の稜線に朝日が差し込み、白亜の街路はいつもと変わらぬ穏やかな輝きを帯びる。神殿では朝の祈祷が始まり、鐘の余韻が薄く空気を震わせていた。市場では商人たちが露店を広げ、果実の香りや焼き菓子の甘い匂いが通りを満たす。人々はそれぞれの役割に戻り、街は何事もなかったかのように一日を始めていた。


その日が、帝国の歴史において静かな転換点となることを――

この時点で理解していた者はほとんどいなかった。


 


号外。


 


それは鐘の音よりも早く、街の隅々へと行き渡った。

白翼兵団の兵士たちが主要な交差点に立ち、広場や回廊では配布係が無言で紙束を差し出す。呼び止める声も、内容の説明もない。ただ差し出された紙を「受け取ること」が当然の行為として、無意識のまま自然と手を伸ばしていく。 


人々は足を止め、紙面に視線を落とした。

目で文字を追っているのに、意味がすぐには入ってこない。

朝の光の中、何かがじわりと冷えていくような感覚だけが先に心を満たしていった。

そして誰もが次の言葉を口にするまでに、ほんの少しだけ――呼吸を忘れていた。


そこに疑問を挟む余地はなかった。制服と紋章が示す“正当性”が、考える前に行動を決めさせていた。


紙面の最上段に並ぶ見出しは、視線を逃がすことを許さない。


《元英雄ゼン・アルヴァリード、暴走》

《封印されていた魔神族細胞が活性化》

《ガルヴァ山郷周辺、壊滅的被害》


そこには一切の躊躇がなかった。

仮定も、調査中という注釈もない。

断定形で書かれた文字は、すでに確定した“結論”として読者の前に突きつけられている。


それは報告ではない。

説明でも、警告でもない。


――告知だった。


 


記事本文は、淡々と事実を積み上げる。

終焉戦役の最終局面において、ゼン・アルヴァリードが体内に取り込んだ魔神族の因子。長年沈静化していたそれが、ある日を境に突如として活性化したこと。制御不能となった魔力が地脈と共鳴し、周囲の環境を侵食、破壊に至った経緯。


山郷および周辺地域は壊滅。

死者は数百名規模に及ぶ可能性。

現在も危険区域として完全封鎖中。


文章は冷静で、感情的な言葉を極力排している。

だが、その構成自体が民衆の感情を誘導していた。


「英雄」という肩書き。

「魔神族」という忌避すべき存在。

そして「暴走」という決定的な結末。


それらは帝国民にとって、すでに何度も刷り込まれてきた語彙だった。だからこそ人々は内容を吟味するよりも先に、“理解したつもり”になってしまう。疑問を挟む余地は、この見出しには最初から用意されていなかった。



街角では、小さな声が交わされていた。


言葉にならないざわめき。


それは怒号でもなければ、抗議でもない。

ただ朝の冷えた空気に溶けるような、控えめな囁きだった。


「……やはり、魔神族は危険だったんだな」

「英雄だからって、例外じゃなかったってことか……」

「だから研究が続いてたんだろう。放っておける話じゃない」


誰も声を荒げない。

誰も拳を握らない。


そこにあったのは怒りでも悲嘆でもなく、

“そういうことなのだ”という静かな空気感だけだった。


新聞を畳み、静かに懐へしまう仕草。

隣人と視線を交わし、言葉少なに頷く仕草。


人々はそれ以上を求めなかった。

問い返す必要も疑う理由も、そこには見当たらなかった。


――力を持つ者は、いつか制御を失う。

――だから国家が、その力を管理しなければならない。


それは長年繰り返し聞かされてきた論理だった。

戦争の後も災厄の後も、そして平時においてさえ。


人々はその帝国的な考え方に、あまりにも慣れすぎていた。

疑うより先に、納得してしまうほどに。



「……魔神族が死んでいないという噂は、本当だったのか…」



それらの言葉と同じ結論が、街の至る所でほとんど同時に形成されていく。


そして記事の最後に添えられた一文が、その流れに決定的な方向性を与えた。



《現在、聖皇院直属部隊が沈静化作戦を展開中。

指揮は、第六王子カシアン・ルクレティア殿下》



その名を見た瞬間、街の空気がわずかに変わる。

張り詰めていた緊張がほんの少しだけ緩む。


「……なら、大丈夫だろう」

「殿下が出ているなら、もう制御下だ」

「放っておくような人じゃない」


恐怖は完全には消えない。

だがそれは手の届かない不安ではなく、“管理されている恐怖”へと姿を変える。


人々は安心する。

誰かが責任を引き受け、すでに対処しているという事実に。


それこそがこの号外が果たすべき最大の役割だった。


ゼン・アルヴァリードという存在を悲劇の中心に据え、同時に帝国の「正しさ」を際立たせる。


帝国を救った元英雄は、すでに危険な存在として祭り上げられていた。

だが帝国はそれを把握し、管理し、光のもとに抑え込んだ。


そう信じさせるために――

この紙片は完璧な形で街へとばら撒かれたのだった。

 


――紙面には、決して書かれなかった事実がある。


ガルヴァ山郷を焼き、砕き、地図から消し去ったのは魔神族因子の暴走などではない。


それを実行したのは、黒影部隊。

帝国の公式記録には存在せず、

命令系統すら意図的に分断された、――神聖魔導兵団の暗部情報操作組織。


彼らは命令通りに動いた。

ただそれだけだ。


証拠が残らないように。

破壊の痕跡が「魔力災害」として解釈されるように。

生き残った者の証言が、同じ結論へ自然に収束するように。


焼き払う場所。

残す瓦礫。

あえて救出される人数。


すべては計算され、配置され、調整されていた。


作戦の全貌を知る者は、帝国全体でもほんの一握りに過ぎない。

それ以外の人間にとって、あの惨禍は――


「起きてしまった災害」であり、

「誰にも止められなかった悲劇」であり、

そして「もう二度と繰り返してはならない教訓」だった。


それで、十分だった。


 


この事件は偶然ではない。

激情の暴走でも、制御不能な事故でもない。


最初から「必要な出来事」として設計されていた。


魔神族研究を正当化するため。

零位種という存在がどれほど危険な可能性を秘めているかを、理屈ではなく恐怖として刻み込むため。


そして何より――

帝国が次に選び取る行動に、

誰一人として異議を唱えられない状況を作り出すため。


これは国内向けの統制であり、同時に対外的な示威でもあった。


雷の国――エレトゥス大陸連邦。

急速に軍備を拡張し、雷導兵器を実戦配備しつつある軍事国家。


彼らに向けて、ルミナス聖皇国は無言のまま、しかし明確に示したのだ。


――我々は、危険を知っている。

――そして、それを恐れず、管理する。

――均衡を崩せば、再び終焉は訪れると。


恐怖は、最も効率的な外交言語だった。


説明は不要だった。

理解させる必要すらない。


ただ一つの事例があれば、それで足りた。


ゼン・アルヴァリード。


かつて英雄と呼ばれた男は、この日を境に世界にとっての“答え”となった。


――危険な力は、管理されるべきだ。


その結論を、誰も声に出して反論することはなかった。


なぜならそれがあまりにも“もっともらしく”、あまりにも“帝国らしい選択”だったからだ。


この時点でまだ誰もはっきりとは口にしないが、空気はすでに形を持ちはじめていた。


英雄として称えられていた時間は、あくまで猶予だったのだと。

そしてその猶予は、終わったのだと。


ゼン・アルヴァリードが抵抗しなかったこと。

弁明も、抗議も、怒りの声すら上げなかったこと。

与えられた“物語”を、否定しなかったこと。


それら一つひとつが、世論の中で奇妙な重みを帯びていく。


人々は直感的に理解し始めていた。

英雄ならば、本当に無実であるならば、何かを語るはずだ、と。

沈黙は潔白ではなく、計り知れない余裕として解釈される。


英雄は声を上げない。

だからこそ――より恐ろしい存在に見える。


それは意図された誤解ではなかったが、誤解であるとも誰にも断定できなかった。


この段階ではまだ最終的な結論は出ていない。

処遇も、名称も、公式な定義も決まってはいない。


しかし方向性だけはすでに定まっていた。


帝国は、彼をどう扱うべきか。

民衆は、彼をどう記憶すべきか。


その答えへ向かう道筋だけが、

音もなく抵抗もなく、確実に敷かれていく。




帝都セレスティアの上層部では、号外が街へ出回るよりも早く、すでに結論は共有されていた。


枢機院。

元老院。

聖皇院。


それぞれの会議室で交わされる言葉遣いは異なっていたが、示している方向は寸分違わなかった。


「想定通りだ」

「これ以上、揺らがせる必要はない」

「民意は、すでに収束し始めている」


誰も声を荒げない。

誰も感情を表に出さない。

そこにあるのは、判断ではなく“確認”だった。


ゼン・アルヴァリードという存在が、もはや英雄として扱われる段階を終えたという事実の確認。


それは非難でも、断罪でもない。

単なる工程の進行にすぎなかった。



元老院の老貴族の一人が、沈黙の合間に静かに言葉を落とす。


「我々は、彼を守るために嘘をついていたのではない。

 ただ、使える間は使っていただけだ」


その言葉に、異論は出なかった。


終焉戦役の英雄。

帝国を救った象徴。

民衆の希望。


それらはすべて、疑いようのない事実だった。

だが同時にそれらは永続する価値ではなかった。


英雄という称号は役割であり、機能であり、必要がなくなれば更新されない肩書きにすぎない。


枢機院の古い記録には、ずっと以前から同じ一文が残されている。


――零位種は、管理対象である。


ゼン・アルヴァリードだけが例外であった理由はただ一つ。

彼がまだ役に立っていたからだ。


戦争が終わり秩序が必要とされ、英雄という象徴が民衆を安定させていた時代。


その間だけ、彼は“見ないふり”をされてきた。


だが今、状況は変わった。


魔神族研究は臨界点へと近づき、雷の国エレトゥス連邦は均衡を破る速度で軍事拡張を進めている。

世界は再び、「力をどう扱うか」という問いの前に立たされていた。


そのとき――

制御できない可能性を含んだ英雄ほど、国家にとって厄介な存在はない。


だからこそ、彼は選ばれた。


排除ではない。

処刑でもない。

神格化ですらない。


管理される存在として。


その役割は、彼にとって最後に与えられた“国家的価値”だった。


誰もそれを残酷だとは言わない。

誰もそれを悪だとは呼ばない。


ただ、合理的だと認識するだけだ。


こうして英雄ゼン・アルヴァリードは、静かに次の枠へと移されていく。


誰にも強制されることなく、

誰にも抗われることなく。


それが、この国のやり方だった。

 


第六王子カシアン・ルクレティアは、その場に満ちる空気を、最初から正確に把握していた。


彼は英雄を引きずり下ろすことに興味はない。

栄光を否定したいわけでも、過去を汚したいわけでもなかった。

ましてや、ゼン・アルヴァリードという男に対して、私怨や憎悪を抱いているわけでもない。


むしろ――

彼はゼンという存在を誰よりも高く、冷静に評価していた。


終焉戦役を生き延びただけではない。

世界そのものの構造に触れ、なお壊さずに踏みとどまった人間。

零位核という世界法則の外縁に位置する力を宿しながら、それを振りかざすことなく「人として」生き続けようとした男。


カシアンは理解していた。

それがどれほど稀有で、どれほど危うい均衡の上に成り立っているかを。


だからこそ彼は結論を下していた。


――ゼン・アルヴァリードは、個人として存在してはならない。


零位核を内包する存在。

意思ひとつで国家の秩序を、世界の均衡を、根本から揺るがし得る存在。

その力は善悪に属さない。

だが、善意で制御できるものでもない。


それは「人」ではない。

少なくとも、国家という枠組みの中では。

 


カシアンは最初から、そこに辿り着いていた。


ゼンが抵抗するかどうかは本質的な問題ではない。

暴れるか、逃げるか、沈黙するか。

そのどれを選んだとしても、最終的に彼が行き着く場所は変わらない。


違いが生じるのは、ただ一つ。

その過程でどれだけの人間が巻き込まれ、どれだけの被害が生じるか――それだけだった。


だから彼は選択肢を与えたように見せた。

自発的に従うか、強制されるか。


それは交渉ではない。

説得でも、取引でもない。


工程管理だった。


最も被害が少なく、最も効率的で、最も再現性の高い結末へ導くための“手順の提示”に過ぎない。


 


ゼン・アルヴァリードが抵抗しなかったことは、帝国にとって理想的な結果だった。


彼は否定しなかった。

自分が「危険な存在である」という風聞を、正面から捻じ曲げようとはしなかった。


それは善意ではない。

諦観でも、自己犠牲の美談でもない。


ただ――

世界を壊さないために、沈黙を選んだだけだった。


だが国家は沈黙をそのまま受け取らない。

沈黙は常に、さまざまな思惑や都合によって解釈される。


「やはり、何も言えないのだ」

「弁明できないほど危険なのだ」


そう理解されるように情報は整えられ、文脈は組み替えられ、人々が疑問を抱かない形で提示された。


誰も嘘をついているとは感じない。

誰もが「納得してしまう」構造だった。


 


こうして、ゼン・アルヴァリードは再定義される。


英雄ではない。

被害者でもない。

反逆者でもない。


――危険な存在。


だからこそ、排除はしない。

だからこそ、殺さない。

だからこそ、隔離し、管理する。


それは慈悲ではない。

復讐でもない。


徹底的なまでの合理性だ。



帝国はこの結論に誇りすら抱いていた。


恐怖に屈したわけではない。

感情で動いたわけでもない。


危険を理解し、

危険を分類し、

危険を“制御可能な状態”に留める。


それこそが、光の国が長い歴史の中で培ってきた流儀だった。


光は影を否定しない。

影を排除もしない。


影を管理するために――


 


そして、この日を境に、ゼン・アルヴァリードという名は静かに書き換えられていく。


子どもたちは彼を英雄としてではなく、

「かつて英雄だったが、危険だった存在」として学ぶことになる。


過去の伝説や記録は削除されない。

だが、文脈が変えられる。


賞賛ではなく、警告として。

希望ではなく、教訓として。

 

それは彼を貶めるためではない。

彼を特別扱いするためでもない。


一人の人間が、国家よりも大きな意味を持ってしまうことをこの国は決して許さない。


それが秩序であり、管理であり、――ルミナス聖皇国という国家の本質だった。

 

ゼン・アルヴァリードは、理解していた。


自分がここで剣を振らなかった理由。

声を上げなかった理由。

抗わなかった理由。


それは敗北ではない。

だが、自由でもない。


それでも彼は選んだ。


これ以上、誰かを巻き込まない道を。

これ以上、世界を歪ませない距離を。


その結果として、

彼は一つの役割を引き受けることになった。


 


――危険であるが、排除されない存在。

――価値があるが、自由ではない存在。

――管理されることで、均衡を保つ存在。



それがこの国が彼に与えた、最後の役割だった。


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