第159話 過去の清算
手のひらから伝わる体温は、ただ温かいだけではなかった。
そこには覚悟のような、あるいは迷いのようなものがかすかに混じっていた。
“沈黙”がただの間ではないとすぐに分かった。
それは選び取られようとしている言葉たちの、通り道を整えるための沈黙だった。
まるで口にすれば壊れてしまうかのように、慎重に丁寧に、彼女は言葉を編もうとしていた。
それは優しさではなかった。
守ろうとするための嘘でもなかった。
“本当のこと”を話すための、静かな決意だった。
彼女は今、ひとつの“線”を越えようとしている。
そしてアナスタシアの瞳の奥で、何かが静かにほどけていく気配があった。
「…そう。それは良かったわ」
ほんのわずかに息を吐くように言う。
「……もしかしたらね。“今”しかなかったのかもしれない。あなたがあの場所に行けたのは」
その言い方が、ひどく引っかかった。
慰めでも肯定でもない。
事実をそっと置くような、重さのある声音。
「……どういう、意味ですか?」
問い返した瞬間、胸の奥がざわついた。
聞いてはいけないことに足を踏み入れようとしている――そんな予感が、確かにあった。
アナスタシアは、すぐには答えなかった。
肩に置かれたままの手に、わずかに力が込められる。その仕草ひとつで、彼女が言葉を選んでいることが分かってしまう。
「ミナ」
静かに名を呼ばれる。
「あなたは、あの山郷で見たものを覚えている?」
「……え?」
唐突な問いに少し戸惑いながらも、フェルミナは頷いた。
霧に沈む谷。
段畑の緑。
名もない花が揺れる丘。
役割も肩書きも剥ぎ取られた時間。
「覚えています。……全部」
「そう」
アナスタシアはゆっくりと頷いた。
「それはきっと、偶然与えられた“余白”だったのよ」
余白。
その言葉は、妙にしっくりきた。
「世界は常に、均衡の上で回っている。
国と国、思想と思想、力と力。
そして――人も、例外じゃない」
彼女の声はいつものように穏やかだったけれど、その内容は冷静でありながらどこか残酷だった。
「あなたが王女である以上、あなたの行動は必ずどこかの歯車を動かす。
それが望まれた形であれ、望まれない形であれ」
フェルミナは、思わずシーツを握りしめた。
「でも……」
言いかけて、言葉を探す。
「私が行ったのは、ただ……」
「分かっているわ」
重ねるように、アナスタシアは遮った。
「あなたが何かを壊そうとしたわけじゃないことも、
誰かを裏切ろうとしたわけじゃないことも」
その瞳が、静かにこちらを見つめる。
「ただ、生きてみたかっただけでしょう?」
胸の奥を、正確に射抜かれた。
「……はい」
小さく、けれど確かに頷く。
彼女はその答えを否定しなかった。
ただ少しだけ視線を逸らし、続ける。
「だからこそ、あなたがあそこに行けたのは“今”しかなかった」
「……?」
「あなたが動いたあの時点では、まだ――」
言いかけて、言葉を止めた。
沈黙が落ちる。
それは先ほどまでの受け止めるための沈黙とは違った。
何かを伏せるための、意図的な沈黙。
「……お姉さま?」
呼びかけると、彼女は小さく首を振った。
「クレアも、最初から分かっていたわ」
アナスタシアはそう前置きしてから、ほんの一拍だけ間を置いた。その沈黙は言葉を探すためではなく、これから語る内容の重さを、聞く側に受け止めさせるためのものだった。
彼女はフェルミナから視線を外し、窓の外――白い光に満ちた王宮の中庭へと目を向ける。その横顔は穏やかで、けれど感情の揺らぎを極力排した、政治家のそれだった。
「クレアはね、あなたが思っている以上に多くのことを知っていたわ。
そして、あなたがあの山郷へ向かうと決めた瞬間から、彼女自身の中でも覚悟は決まっていた」
フェルミナは息を詰めたまま、ただ耳を傾けていた。
否定も反論もできない。クレアの背中を思い出すたび、そこに迷いがなかったことだけは、否応なく思い知らされていたからだ。
「彼女が彼の元へ向かった理由は、“弟子として”だけではないわ。
ましてや昔を懐かしんで会いに行く、そんな単純な感情でもなかった」
アナスタシアは、そこで一度言葉を切った。
その先を語ることがどれほど残酷な現実を突きつける行為なのか、痛いほど分かっているという表情だった。
「あなたも、近いうちに知ることになるでしょうけれど……
彼はもう、帝国にとって“ただの英雄”ではないの」
その言葉は静かだった。
声を荒げることも感情を乗せることもなく、そこにあるべき事実として淡々と告げられる。
「終焉戦役の英雄。
それは確かに彼が担ってきた役割よ。
でもそれは、“過去”の評価にすぎない」
アナスタシアはゆっくりとフェルミナへ視線を戻す。
「今の帝国が彼をどう見ているか――
それは“象徴”でも、“功労者”でもない。
もっと冷たく、もっと実務的なものよ」
フェルミナの喉が、小さく鳴った。
「……どういう」
アナスタシアは戸惑いを隠しきれないフェルミナの表情を正面から受け止めるように、静かに言葉を重ねた。
「魔神族は――まだ、完全には死んでいないのよ」
その声音は低く、しかし確信に満ちていた。
フェルミナの目が揺れた。
理解が追いついていないわけではない。
逆に言葉の意味が一瞬で理解できてしまったからこそ、内側に沈む何かが重たく響いた。
「世間ではね、“魔神族は終焉戦役で滅びた”と語られているわ。
それは政治的には正しい伝聞よ。
帝国にとって、世界に向けて示すべき“物語”としては」
「でも……災厄は、あの日確かに消えたんじゃ……」
震える声でそう口にすると、アナスタシアは小さく首を振った。
「確かに、“災厄”は消えたわ。
世界を直接焼き尽くす存在としての魔神族は、あの戦いで闇の奥底に封じられた。
それは否定しない」
そこで彼女は一度言葉を区切り、フェルミナの反応を待つように視線を落とす。
「けれどね、ミナ。
世界というものは、ただ敵を倒せば元通りになるほど単純じゃない」
光脈灯の白い光が、アナスタシアの横顔に淡い影を落とす。
「あの戦いは、世界の“基礎”そのものを削り取った。
均衡を保っていた力の流れを、無理やり固定したの。
だから今の世界は、一見すると平穏に見えるけれど……
実際には、とても不安定な状態で立っている」
フェルミナの胸の奥が、じわりと冷える。
「その歪みを、直接引き受けている存在がいる」
アナスタシアの視線が、再びフェルミナを捉えた。
「それが――あの“彼”よ」
一瞬、フェルミナは言葉の意味を理解できなかった。
けれど次の瞬間、心臓が強く脈打つ。
「……ゼン、様が……?」
信じられない、という思いがそのまま声になって漏れた。
「魔神族は死んだって……ゼン様が倒したって……
皆、そう言っていました……!」
訴えるような言葉に、アナスタシアは否定も嘲笑もしない。
ただ、ゆっくりと頷いた。
「あなたがそう信じていたのも、無理はないわ。
その“物語”を守るために、どれだけ多くの情報が封じられてきたか……
王女であるあなたほど、遠ざけられていた存在はいないもの」
彼女は続ける。
「確かなことはひとつだけ。
ゼン・アルヴァリードは、魔神族を完全に閉じ込めるための“楔”となった。
そして今もなお、その役割を終えてはいない」
フェルミナの喉が、ひくりと鳴る。
「終わって……いない?」
「ええ。
世界は晴れたわけじゃない。
ただ嵐が来るのを……ほんのひととき押し留めているだけ」
その言葉はあまりにも静かで、あまりにも残酷だった。
「彼が存在し続ける限り、世界は“崩れきらない”。
でも同時に――彼が存在する限り、歪みはそこに在り続ける」
フェルミナは山郷で見た穏やかな景色を思い出していた。
湯気の立つ食卓。
静かな火の音。
人として生きている、ただそれだけの時間。
「あの場所で見た彼は……
そんなものを背負っているようには……」
かすれる声に、アナスタシアは目を伏せた。
「見せなかったのでしょう。
それが、彼の選んだ生き方だったから」
一瞬の沈黙。
その静けさの中で、フェルミナはようやく理解し始めていた。
自分が出会った“穏やかな彼”は、世界の歪みの上に奇跡のように立っていた存在だったのだと。
「……そんなものを、一人で……」
無意識のうちにこぼれた言葉に、アナスタシアは否定もしなければ、即座に肯定もしなかった。ただ、わずかに目を伏せる。
「強すぎる光は、必ず影を生む。
そしてこの帝国は、“光の国”であることを何よりも重んじている」
彼女の声音には、王族として、そして帝国の内部を知る者としての確信があった。
「だからこそ、強すぎる影を放置することはしない。
どれほどの功績があろうと、どれほど民に慕われていようと……
制御できない存在は、いずれ“整理”される」
それは脅しではなかった。
予言でも感情論でもない。
帝国という巨大な機構が、これまで幾度となく繰り返してきた単なる“運用”の話だった。
「ゼン・アルヴァリードは、あまりにも多くを背負いすぎた。
魔神族との最終局面。
零位核の問題。
彼が“生きている”という事実そのものが、帝国にとっては常にリスクであり続けている」
フェルミナは、思わず膝の上で拳を握りしめた。
そんな話を、彼女は一度も聞いたことがなかった。
英雄は英雄のまま、過去の栄光として語られるものだと、どこかで信じていた。
「それは……最初から、決まっていたことなんですか?」
震える問いに、アナスタシアは静かに頷いた。
「遅かれ早かれ、そうなる運命だった。
私は、そう思っているわ」
その言葉は、あまりにも冷静で、あまりにも救いがなかった。
「だからクレアは、あなたと一緒に山郷へ向かったのよ」
フェルミナは顔を上げる。
「……どうして」
アナスタシアは、ほんの一瞬だけ迷うように視線を揺らし、それからはっきりと言った。
「彼に、伝えたいことがあったから」
それが何だったのか。
警告なのか、忠告なのか、それとも――
その答えを、アナスタシアは語らない。
ただ一つ、確かなことだけを告げる。
「クレアは、あなたを守るためだけに動いたんじゃない。
彼女は、彼自身のためにも、あの場所へ行ったの」
フェルミナは、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。
理解したくなかった、と言った方が正しい。
彼女は知らなかったのだ。
ゼン・アルヴァリードを地下へ幽閉すべきだという議論が、すでに帝国内部で何度も交わされていたことも。
英雄という肩書きが、いつの間にか“例外処理対象”へと書き換えられつつあったことも。
王女として生きてきたフェルミナの世界は、あまりにも遠いところで、それらの現実から切り離されていた。
だから彼女は、ただ黙って話を聞くことしかできなかった。
静かな病室に、光脈灯の微かな音だけが響く。
その中でフェルミナは、ようやく理解し始めていた。
自分が山郷で見た穏やかな時間は、奇跡だったのだと。
そしてその奇跡は、すでに世界の都合によって、過去形にされつつあるのだと。
彼女はまだ知らない。
この先、自分自身もまた、その「清算」の流れの中に組み込まれていくことを。




