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第158話 王女としての責務



「……たくさんの人に、迷惑をかけてしまいました」


ぽつりと、声がこぼれた。


「山郷の人たちにも……ゼン様にも……クレアにも……」


一人で決めて、一人で走って、結果として一番大切な人を危険に晒した。


自分勝手だった。

無謀だった。

王女として、してはいけない選択だった。


頭では、全部わかっている。


それなのに……




胸の奥にはどうしても消えない感覚が残っていた。


土にまみれた手の感触。

鍬を振るって、息が切れて、それでも笑っていた時間。

灰花草の丘で、役割も肩書きも忘れて、ただ風に包まれていた夕暮れ。


あの時間は、偽物じゃなかった。


「……それでも」


私は俯いたまま、言葉を探す。


「自由に、生きてみたいって……思えたんです」


それは言い訳ではなかった。

誰かを責める言葉でもない。


ただ、心の奥から浮かび上がった正直な想いだった。


懺悔のようで、

祈りのようで、

同時に初めて口にする「自分の本音」でもあった。


お姉様はすぐには答えなかった。


責めることも叱ることも、慰めることもしない。私の言葉が消えるまで、ただ静かに耳を傾けてくれているようで。


その沈黙の中で、私は気づいていた。


この人は、最初から分かっていたのだ。

私がゼン様のもとへ向かって、そしてその先に待つ結末を。


それでも止めなかった。



――出発の前夜、王宮は不思議なほど静かだった。


灯火は落とされ、回廊を渡る風の音だけが白い壁に沿って低く流れていた。いつもなら聞こえてくるはずの足音も、金属の触れ合う音も、その夜だけは意図的に遠ざけられていた。まるで城そのものが、私の決断を知って息を潜めているかのように。



あの夜、私の部屋を訪ねてきたのはお姉様だけだった。


控えの侍女も、近衛もいない。

廊下に立つはずの警備兵の気配すらなく、扉が閉まる音だけが、やけに大きく響いたのを覚えている。


お姉様はいつものように整った礼服ではなく、淡い色の室内着を身に纏っていた。光脈灯を最小限に落とした部屋の中で、その姿は王女というよりただ静かに夜を歩いてきた一人の女性に見えた。


「……この時間に、どうなさったのですか?」


問いかけた声は、思ったよりも震えていた。

私はすでに心のどこかで理解していたのだ。

この訪問が、偶然ではないことを。


お姉様は答えず、ゆっくりと部屋を見渡した。

机の上に広げられた旅装の一部。

まだ畳まれていない外套。

視線がそれらに触れた瞬間、彼女は小さく息を吐いた。


「……準備は、すでに整っているようね」


責める調子ではなかった。

確認するでもない。

ただ、事実を受け取るような声だった。


胸の奥が、きゅっと締め付けられる。


「……お姉さまは、最初からご存じだったのですか?」


問いかけると、アナスタシアは一瞬だけ目を伏せた。


「すべてを、というわけではないわ」


そう前置きしてから、彼女は続けた。


「でも……あなたが、どこかへ向かおうとしていることは分かっていた。

正確には……ここに留まり続けることが、限界に近いということを」


その言葉は剣よりも鋭く、同時にひどく優しかった。


私は何も言えず、ただ唇を噛みしめた。

否定できなかった。

誰よりも自分自身が、それを分かっていたから。


「……お止めになる、おつもりは……?」


ようやく絞り出した言葉は、ひどく弱々しかった。


お姉様は、すぐには答えなかった。

窓辺に歩み寄り、白いカーテンの隙間から夜の王宮を見下ろす。

光を落とした回廊。

静まり返った中庭。

千年の秩序が眠る城。


「止めること自体は、容易いわ」


彼女は静かに言った。


「命令すればいい。

理由を並べればいい。

あなたが背負う“立場”を一つずつ示して、選択肢を消してしまえばいい」


振り返ったその瞳は冷静で、少しも揺れていなかった。


「でも、それをしたら――あなたは、きっとここで笑顔をなくしてしまう」


その一言に、胸の奥が震えた。


「……ミナ。あなたが逃げようとしているのが責務からではないことくらい、分かっているわ。

あなたはただ……“外”の世界を見てみたいのでしょう?」


視線が絡む。

逃げ場がないほど、まっすぐな目だった。


「王宮のそばに降る光の下に立つことよりも、世界はずっと確かな光の揺らぎと温もりを持っている」


私は何も言えなかった。

喉の奥が詰まり、言葉が溶けて消えていく。


「その下に立ちたいと思う気持ちを、私は罪だとは思わない」


お姉様ははっきりと言った。


「少なくとも、姉としては」


その瞬間、堪えていたものが崩れそうになった。


ああ、この人は本当に――姉であり、王女なのだ。

私のわがままを理解しながら、それでも国の未来からは目を背けない。

それがどれほど苦しい選択であるかをお姉様は知っている。


言葉が胸に沁みるたびに、同時にどこかが締めつけられるような感覚があった。

優しさに包まれるほど、自分の未熟さとその選択の重みを思い知らされる。

お姉様のようにはなれないと思った。

それでも、少しでも近づきたいと思ってしまった。


「ただし――」


その声は、再び王宮の人間のものになる。


「あなたがいなくなれば、帝国は動く。

光も影も、均衡も。

あなたが想像している以上に、大きな波紋が広がるわ」


私は、俯いた。

分かっている。

分かっているからこそ、苦しかった。


「……それでも、行くの?」


その問いに、迷いはなかった。

答えは、最初から決まっていた。


「……はい。行きます」


声は震えていたけれど、後悔はなかった。


お姉様は、しばらく黙って私を見つめていた。

まるで最後に何かを確かめるように。


そして、静かに頷いた。


「そう。なら――私は、見なかったことにする」


「……え?」


「明日の朝、あなたがこの部屋を出ることも。

裏門が開いていることも。

誰が、どこへ向かったのかも」


その言葉に、息を呑む。


「ですが、覚えておきなさい」


彼女は一歩近づき、私の肩にそっと手を置いた。


「あなたは逃げたのではない。

選んだのよ」


その手は、驚くほど温かかった。


「そして、選んだ以上――

いつか、その選択の“続き”を引き受ける日が来る」


それが祝福なのか、警告なのかは分からなかった。


ただ一つ確かなのは、

あの夜、私は確かに理解されていたということだ。


だから私は、城を出た。


誰にも見送られず、

誰にも止められず、

それでも――独りではなく。


あの静かな王宮の夜が、

今も胸の奥で、かすかな灯りとして残っている。




「……少しは」


わずかに、ほんのわずかにお姉様は微笑んだ。


「少しは、良い時間を過ごせた?」


その問いは、裁きではなかった。

確認でもない。


私が「人として生きた時間」が、確かに存在したかどうかを、そっと確かめる問いだった。


私は、はっと顔を上げる。


答えは驚くほど簡単だった。

けれどその一言に辿り着くまでに、あまりにも多くの感情が絡みついていた。


「……うん」


声は小さかったけれど、嘘はなかった。


「とても」


その言葉を聞いて、お姉様は何も言わなかった。

ただ静かに目を伏せ、その感情を胸の奥に仕舞い込む。


王宮の光は、相変わらず眩しい。

白と金の世界は、何一つ変わっていない。


けれど、私の胸の奥にはもう、

あの山郷の静けさと、確かに生きた時間が残っていた。


――たとえ、檻の中に戻されたとしても。

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