第157話 目覚めは、光の檻の中で
帝都セレスティア
――白光宮
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――夢を見ていた。
土の匂いが、肺の奥にゆっくりと染み込んでくる。湿り気を帯びた冷たい風が頬を撫で、霧を含んだ空気が静かに肌を包み込んでいた。足元は柔らかく、踏みしめるたびに落ち葉と小枝がかすかな音を立てる。その音すらどこか懐かしくて、まるで誰かに手を引かれていた頃の遠い記憶をなぞるような安心感が、そっと頭の片隅に流れていた。
隣にはクレアがいた。
いつもと同じ無駄のない歩幅で、周囲を見渡しながら歩いている。その背中は変わらず凛としていて、けれど山郷の空気のせいか、ほんのわずかだけ肩の力が抜けているようにも見えた。
「今年は霜根茸が多いですね」
淡々とした声なのに不思議と柔らかい。
私は思わず微笑んで、籠の中を覗き込んだ。山菜が折り重なり、乾いた音を立てる。木漏れ日が霧を透かして揺れ、谷全体が薄い光の膜に包まれていた。
「そうだね。たくさん持って帰ろう!」
そう答えながら、心の奥が静かに満たされていくのを感じていた。急ぐ理由も怯える必要もない。ただ歩いて話をして、昼を迎える頃には灰庵亭へ戻り、今日は何を仕込もうかと一緒に考える。それだけで一日が終わる、そんな穏やかな時間がぼんやりと霧の向こうへと続いていた。
――ここは安全だ。
そう、疑うことすらしなかった。
そのはずだった。
その感覚がふっと途切れた瞬間、世界が軋む音を立てて崩れ落ちた。
霧が、急に濃くなる。
風の温度が変わり、空気が重く沈む。皮膚の内側を言葉にできない違和感が這い回った。
影。
霧の奥から、ありえないほど不自然に黒い人影が浮かび上がった。輪郭は曖昧なのに、そこに「いる」という圧だけが異様に強い。理解するより早く、身構えていたはずの身体が凍りついた。
「下がってください、フェルミナ様!」
その声は、今も耳の奥に焼きついている。
拘束。
毒矢。
地面に崩れ落ちるクレア。
――クレア!
喉が裂けるほど叫んだはずの声は、音にならなかった。
ただ胸の奥だけがひどく痛んで息が詰まり、暗闇に引きずり込まれていく感覚だけが残る。
鋭い光が視界を裂き、短く乾いた衝撃音が耳を打った。空気が震え、時間が一拍だけ遅れて届く。
叫んで、駆け寄ろうとして、腕を伸ばして――
その指先が何かに触れる前に、世界が白に塗り潰された。
「クレアっ!」
フェルミナは、自らの声に呼び戻されるようにして目を覚ました。
跳ね起きようとした瞬間、体が思うように動かないことに気づく。背中を支えるのはふんわりとした柔らかい感触。鼻先には清潔すぎるほどに整えられた布の匂いと、微かに漂う香油の甘やかな香りが満ちていた。その香りはあまりにも均一で、まるで“何も起こらない場所”であることを証明するかのような暖かい匂いが、まぶたの裏に残っていた焦燥すら包み込んでいくようだった。
まぶしさに目を細めた瞬間、視界に広がったのは一面の白。
……ここは
喉がひきつれ、息がうまく吸えなかった。
そこに広がっていたのは、本来なら見慣れているはずの光景――なのに、今はなぜかひどく遠く、異質にすら感じられる空間のように感じた。白と金を基調とした天井の装飾。静かに明滅を繰り返す光脈灯。すべてが整いすぎていて、まるで自分だけが場違いであるかのように。
ここは王宮――自分の部屋。
それなのに、どこか知らない場所に来てしまったような気がして。
「目を覚まされましたか、フェルミナ様」
控えめな声が現実に輪郭を与える。
視線を向けると、数人の侍女と使用人たちがベッドの脇に控えていた。誰もが安堵と緊張をないまぜにした表情で、こちらをじっと見つめている。
(……帰って、きた?)
違う。
そんな言葉で片づけられるはずがない。
最後に見たのは、霧。
湿った土の匂い。
クレアの背中。
それから――微かな記憶の向こうにあるものを思い出そうとすると、胸の奥がざわりと嫌な音を立てる。
彼女はかすれた声で、一言だけを絞り出した。
「……クレアは?」
声が思った以上にかすれていた。胸の奥で心臓が慌てたように跳ねる。
説明を待つ余裕なんてなかった。必死に身を起こそうとしてシーツを握り、呼吸だけが不自然に速くなる。
「クレアはどこ? 一緒にいたでしょう、山で……」
言葉が追いつかない。霧、影、倒れる背中。その光景が、何度も何度も頭の中で繰り返される。
「フェルミナ様、どうか落ち着いてください」
侍女が慌てて肩に手を置き、安心させるように声をかけた。
「クレア様でしたら、別の医務室で療養中です。命に別状は――」
その続きを聞く前に、彼女の体が勝手に動いていた。
声よりも先に手が、足が、反応していた。
頭の中ではもう――クレアのことしか考えられなかった。
「会わせて……今すぐ……!」
その瞬間、静かな足音が部屋に響いた。
「今は安静にしていなさい、フェルミナ」
その声は柔らかいのに、どこまでも揺るがなかった。
羽毛のように静かで、同時に逃げ道を与えない重さを持った声。
そこに立っていたのは――
第二王女、アナスタシア・ルクレティア。
淡い金色の髪を肩に流し、光脈灯の白い光を受けて冷たいほど整った横顔をしている。深い黄金色の瞳は静かで、そこには動揺も焦りも浮かんでいなかった。まるでこの状況のすべてを、最初から織り込み済みであったかのように。
「……お姉さま」
その一言を口にした瞬間、胸の奥に溜め込んでいたものが音を立てて溢れ出した。
ほっとした。
戻ってきてしまったことへの後悔が、遅れて胸を締めつけた。
そして自分がただ帰ってくることしかできなかったという事実が、喉の奥を焼く。
どうしようもない悔しさや行き場のない感情が混ざり合って、どれがどの感情なのかはもう分からない。
「クレアが……」
声が震える。
言葉にしようとしただけで、あの瞬間が蘇る。
「クレアが……目の前で、倒れたの……」
霧の中で、前に出た背中。
あまりにも当たり前のように、私を守るために動いた彼女。
「私……何もできなくて……」
情けなくて悔しくて、――息が詰まる。
――全部、私が招いたことだ。
胸の奥で、そう断言してしまえるほどには、私は最初から分かっていた。
この旅が「許されないもの」だということも、この静かな時間が永遠には続かないことも。ガルヴァの山郷で朝を迎えるたび、灰庵亭で湯気の立つ鍋を眺めるたび、胸のどこかで小さく警鐘が鳴っていた。
――いつか、終わる。
――必ず、連れ戻される。
それでも耳を塞いだ。
あまりにも、あの場所が優しかったから。
霧に包まれた谷、土の匂い、風の音。
名前ではなく、役割でもなく、ただ「フェルミナ」として呼ばれる時間。
王女でも、同盟の象徴でもなく、誰かの期待を背負う存在でもなく、ただ不器用に働いて、失敗して、笑われて、それでも夕方には「お疲れ」と言ってもらえる場所。
あれは夢なんかじゃなかった。
確かに私は、あそこで生きていた。
だからこそ、分かっていたのだ。
穏やかであればあるほど、その時間は「借り物」だということを。
私は王女として生まれた。
選んだわけでも、望んだわけでもない。
けれどその瞬間から、私の人生には“立場”という名前の重りが結びついていた。
末姫だから。
象徴として扱いやすいから。
政治的に価値があるから。
そんな理由で、未来は勝手に決められていく。
それが理不尽だと分かっていても、理解できてしまう自分がいる。
国を守るため、均衡を保つため、誰かが犠牲になる必要があるなら――
その「誰か」に私が選ばれる理由も、理屈としては成立してしまう。
だから、逃げた。
逃げたのだ。
勇気なんかじゃない。
選択なんて立派なものでもない。
ただ――
少しだけ、息をしたかった。
ほんの少しでいいから、「私の人生」を生きてみたかった。
ゼン様のいる場所なら、それができる気がした。
戦わず、奪わず、名を背負わず、それでも人として生きている人。
あの人の背中を見ているだけで、「別の生き方」が確かに存在していると信じられた。
ほんの少しでよかったのだ。
永遠なんて望んでいなかった。
王宮に戻る日が来ることも、責務から完全に逃げられないことも、全部分かっていた。
それでも――
せめて、期限付きでもいいから。
少しだけ、あの静けさの中に身を置いていたかった。
でも、その「少し」のために、私は誰かを危険に晒した。
クレア。
何も迷わず、私の前に立った背中。
私を守ることを当然のように選び、躊躇いなく前へ出た、その一瞬。
私はその覚悟の重さを、ちゃんと分かっていたはずなのに。
王女として生まれた以上、
自分の行動が誰かの人生を巻き込むことくらい、分からないほど子供じゃない。
それでも私は、「大丈夫だ」と自分に言い聞かせてしまった。
――クレアなら大丈夫。
――ゼン様のいる場所なら安全だ。
――山郷は、外界とは違う。
全部、希望的観測だった。
優しい場所だからこそ、影は入り込む。
価値があるからこそ、管理される。
特別であればあるほど、放ってはおかれない。
あの霧の中で倒れたクレアの姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
私が一歩でも違う選択をしていれば、
私が「少し」を欲張らなければ、
彼女は傷つかずに済んだのではないか――
そんな考えが、胸の奥を何度も引き裂く。
結局、私は戻ってきた。
王宮の白い天井の下に。
均一な香りと、整えられた空気の中へ。
ここが私の「帰る場所」なのだと、誰もが疑わない場所へ。
そして分かってしまう。
もう、あの谷には戻れない。
たとえ身体が自由でも、
たとえ足が動いても、
あの静けさは、もう「許されない」。
私は王女だから。
世界にとって、役割を持つ存在だから。
ほんの少しだけ、夢を見ただけ。
ほんの少しだけ、人として生きただけ。
それだけのことなのに――
その代償が、あまりにも重い。
胸の奥で、静かに何かが折れる音がした。
アナスタシアは、何も言わずにベッドの脇へと歩み寄り、静かに腰を下ろした。そして、ためらいのない動作で、私の肩にそっと手を置く。
その手は温かく、落ち着いていて、余計に胸が苦しくなった。




