第156話 地下へ――
帝都セレスティアの地下構造は、まるで光そのものが階層化された建築のようだった。
陽光があふれる地上の神殿都市とは対照的に、地の底へと潜るにつれ、すべては沈黙と規律に塗り替えられていく。
そこに“闇”と呼ぶべきものはない。
無秩序もなければ、混沌もない。
あるのはただ静かに濾過され、精製され、秩序のみに還元された“管理”という名の空間だった。
その純化の果てに在るものが、今まさにゼン・アルヴァリードの歩を待っていた。
彼は神聖魔導兵団の兵士二人に挟まれながら、無言のまま地下通路を進んでいた。
拘束具はつけられていない。
だがその背筋は、まるで鉄の枷を背負っているかのように真っ直ぐだった。
歩調は一定。
急がされているわけではない。
だが、それがかえって心を鈍く叩いた。
この移送には怒りも、哀れみも、正義も存在しない。
ただ“定められた手順”として粛々と進められているだけだった。
壁面は帝都独自の白石で構成されていたが、表層にはほとんどの装飾が削ぎ落とされている。
装飾を排したことでただの「石の壁」となったそれは、却って威圧的ですらあった。
そして何より――
この空間には「余計な光」が存在しない。
照明は埋め込み型の光脈灯が等間隔に点在するだけで、その輝きは最低限に調整されている。
まるで「視えること」すら制御の対象とされているかのようだった。
天井は低く、反響が強い。
歩く者の足音が石の床に吸われ、そして反射して戻ってくる。
一歩ごとに増幅されるその音は、まるで帝国の千年にわたる決断と責任の残響だった。
「……ここから先は」
先導していた白影兵のひとりが、抑えた声で告げる。
「アストラ監獄――その管轄区域です」
名を聞いたところで、
ゼンの心は動かない。
彼にとって、ここが監獄であるか研究施設であるかは問題ではなかった。
(結局……閉じ込めるってだけだ)
(形が違うだけで)
その一言の響きに、空気の密度がわずかに変わった気がした。
ゼンは表情を変えない。ただ一歩、また一歩と足を運ぶ。
通路は徐々に下り坂となり、階段へと姿を変える。
段差は緩やかで、どこまでも均一に整備されていた。
不自然なほど直線的な構造。それが自然とは無縁の領域に入ったことを告げていた。
地下第五層、さらにその下――第六層以降は、すでに通常の地図には記されていない。
“記録されない空間”。
“存在しないとされた階層”。
その最奥に、アストラ監獄はある。
階段を降りる。
一段。
また一段。
そのたびに、地上の感覚が少しずつ遠のいていく。
時計の針も陽の角度も、ここには届かない。
時間そのものが希釈され、物理的な流れさえ曖昧になっていくようだった。
石段は古い白石で組まれ、縁には祈祷文の断片が刻まれていた。
古ルミナ語。今では正確に読める者も少ない。
文字は擦れ、意味の輪郭を失っていた。
(……この地下も、かつては神に近い場所と信じられていたのか)
ゼンは降りながらぼんやりと思う。
地の底へ潜ることは、かつて“神の声を求める行為”だった。
だが今は違う。
神は沈黙し、祈りは制度に組み込まれた。
“信仰”は“管理”という別の名で再定義され――
ここは、祈りではなく記録と制御のための空間になった。
古の言葉は今や儀式的な装飾にすぎず、この石の道を降る者に信仰を抱かせることもない。
彼らが階段を折れた先――
一段と冷気が強まり、石壁に密やかな結界の光が浮かび始めた通路の先に、一人の人影が立っていた。
その姿は、まるでこの先を誰よりも早く知っていたかのように静かで、揺るぎなかった。
リシェル・ヴァーレン。
赤を帯びたローブのその姿は、この重厚な空間においてすら異物だった。
本来ならこの階層に足を踏み入れることなど許されない立場だ。
だが彼女の職務権限は、一部の神聖魔導兵団の命令すらも上回る特例措置下にあった。
「身分照合確認済み。行動目的は“個別通告”……よろしい、通過を許可する」
白影兵の一人が、魔導環の認証を経て小さく頷く。
通常であれば、移送対象との接触は一切禁じられるが――
リシェルの“個人的な通告”であること、そして事前に提出されていた介入許可申請の存在が、このわずかな時間だけを保障していた。
彼女の目が、まっすぐにゼンを捉える。
「……来てしまったのね」
その声は凜としていたが、どこかに痛みがあった。
ゼンは立ち止まり、数歩だけ彼女に近づく。
「おまえがここにいるとは、少し驚いたよ」
「驚かないでほしいわ。最初から、こうなることはわかってた」
リシェルの瞳は、どこか遠くを見ていた。
この階層の奥に待つ“何か”を、すでに知っている者のまなざしだった。
「研究が進むほど、帝国があなたを野放しにしておくはずがないってことくらい、ね。
魂核を持ったまま正気を保ち続けている人間……いいえ、研究が進んだ今では、あなたの持つ“特性”や“呪い”は国家から見れば危険な因子でしかない」
「……わかっている」
ゼンの答えは淡々としていた。
反発も怒りもない。
ただ“予想された終着点”を確認するような声音だった。
リシェルは、ゼンの視線からほんのわずか目を逸らし――そして口を開く。
「あなたの呪いについては、こちらでも研究を続けているわ。この前も言ったけど、呪いが解消される可能性がゼロじゃない限り、私は諦めない」
「その気持ちはありがたい。……でも正直なところ、もう俺の時間はそんなに残っていないと思ってる」
「…それでも、生きて」
ふと、リシェルの声が一段低くなる。
その言葉には諜報員としての客観も、帝国職員としての冷静さもなかった。
ただ、かつて同じ戦場をくぐり抜けた仲間としてのひとりの人間の想いがにじんでいた。
「この先、世界は大きく動く。
帝国も、空域も、連盟も、全部が“表と裏”を再編しようとしてる。
……そんな時代に、あなただけが“閉じ込められたまま”でいいとは思えないの」
ゼンは何も答えなかった。
だが否定もしなかった。
言葉よりも早く、彼はただ前を向いた。
結界の先に、自らの居場所を見出すかのように。
リシェルはその背中をじっと見つめながら、最後に小さく囁く。
「……ゼン。あなたはまだ、終わってない」
その言葉には祈りのような、命令のような響きがあった。
白影兵が一歩、進み出た。
「時間です」
それ以上の会話は許されない。
彼女は名残惜しそうに一礼し、沈黙の通路を去っていった。
ゼンは再び歩き出す。
もう振り返ることはない。
だが心のどこかに、あの声だけが微かに残っていた。
“生きて”――
その言葉が、空気に残響として漂っていた。
扉がひとつ、またひとつと開いていく。
結界。
霊位認証。
魔導照合。
位相干渉値のチェック。
そのすべてが、過剰なまでに整備されている。
人の手による確認や判断が入り込む余地はどこにも見当たらない。その丁寧さには奇妙な冷たさがあった。
それは「人間のための手続き」ではない。
あらかじめ設計された“事象対応プロトコル”が粛々と自動で動いているに過ぎなかった。
「対象、零位種。識別コードZ-001……存在同一性、確認」
「生体反応――安定。魔力変動、許容範囲内」
「魂核干渉率、臨界以下。監視条件、継続適用可能」
担当官の声は感情の温度を欠き、ただ“ゼンという存在”をデータとして読み上げていく。
その言葉は彼の命を指し示しているのに、その人間性には一切触れていない。
英雄だったことも、
剣を置いて山の食堂で静かに生きていたことも、
仲間を守るために命をかけた日々も――
この階層に足を踏み入れた瞬間、
すべてが“不要情報”として切り捨てられていた。
最深部へ。
空間が開けた。
現れたのは、巨大な円筒状の空間だった。
幅、およそ二十メルト。
だが天井は見えない。上空は薄い霧に包まれ、光脈灯も届かない。
足元には柵も床もなく、ただ終わりのない深淵――視界を呑み込む黒の縦穴が広がっている。
まるで天地が入れ替わったかのような構造だった。
上下の感覚が曖昧になり、空間全体が巨大な“縦の宇宙”として存在しているように思えた。
空気は冷たいが、それは温度のせいではない。
感覚そのものが圧縮され、全身を内側から締めつけてくる。
音が、匂いが、重力が、少しずつ希釈されていく。
その中心を、一本だけ通路が貫いていた。
魔導合金と霊性繊維を組み合わせた“浮橋”――
空中に固定されているはずのその足場は、明確な支持構造を持たず、まるで空間そのものに“存在を許可された”かのように浮かんでいた。
ゼンは、その橋を渡る。
歩を進めるたび、靴の裏に響く音が微かに共鳴する。
それもまたこの空間が“音を返している”のではなく、“記録している”だけのように思えた。
そして。
浮橋の終点には――半透明の結界球体が静かに浮かんでいた。
それは光でも魔力でも、物質でもない。
だが確かにそこに“在る”。
直径はおよそ四メルト。
人ひとりが立ち、眠り、思考し、死ぬまでを完結させられる最小限の空間。
その内部には何もない。設備も家具も照明も――ただ、空気と、沈黙だけ。
《存在維持型拘束領域》
帝国が開発した、最も静かな“檻”。
拘束とは、本来「止める」ことを目的とする。
だがこれは違う。
殺さず、破壊せず、変化させず――“そのままの存在として維持する”ことを目的として設計された結界だ。
魔力による干渉遮断。
時間概念の希釈。
外界との波動遮蔽。
霊位座標の断絶。
すべてが、「存在そのものを固定する」ために最適化されている。
そこに収容された者は、朽ちることなく癒えることもなく、ただ“今のまま”を永遠に保ち続ける。
帝国にとってこれは処刑でも投獄でもない。
保存であり、封印であり――そして、“管理”の最終形だった。
ゼンは、結界の前で立ち止まる。
「……質問は?」
付き添いの官吏が形式的に尋ねる。
しばし沈黙が流れたあと、ゼンは一言だけを口にした。
「……クレアは?」
静寂の空間に、その名が小さく落ちる。
波紋のように、結界の表面に揺らぎが走ったように見えた。
だが、それも一瞬で消える。
「王室管理下にあります」
官吏は淡々と答えた。
「安全は保証されています。……貴殿が“現状を維持”する限りにおいて」
そこに脅しの響きはなかった。
それと同時に選択肢もなかった。
それは拒絶も肯定も含まない、ただの執行命令であり“制度”の声だった。
ゼンは頷きもせず前へ出る。
何かを諦めたわけでも、受け入れたわけでもない。
ただ、選べる道が他になかったのだ。
結界が起動する。
音はない。風もない。
ただ“空気の密度”が一段階深くなる。
空間が、ゆっくりと閉じていく。
ゼンの周囲に見えない膜が形成されていく。
それは球体という形に意味があるのではない。
内と外を最も効率的に分断できる構造が、“球”だったというだけのことだ。
魔力の流れが絶たれる。
空気の振動が止まる。
重力さえも、わずかに変化した。
外界とのすべての“接続”が、切断される感覚。
(……これが、“管理される”ということか)
ゼンは思う。
戦場で何度も捕らわれ、拘束され、絶望を味わった。
けれどもこれは、――そのどの境遇とも異なる。
力で押さえつけられるのでも、意志をねじ伏せられるのでもない。
ただ無言のまま、制度の中に“置かれる”。
透明な檻の中に。
世界から切り離された“静寂”の中に。
やがて、結界が完全に閉じる。
球体の表面が僅かに煌めき、次の瞬間にはそれがそこに“ある”という事実すら薄れていった。
白影兵たちは、無言で立ち去る。
見送りはない。
拍手もない。
讃辞も、哀悼もない。
ここは“終わり”ではないからだ。
そして“始まり”でもない。
帝国という名の秩序が、ひとつの存在を“保管”した。
それだけのこと。
ゼン・アルヴァリードはその静けさの中でひとり、目を閉じた。
まるでもうこの世界に言葉など必要ないとでもいうように。
わかっていたことだ。
ずっと前から――自分の余命は長くないと。
ヴァル・ゼルグの魂核が、じわじわと、けれど確実に自分の身体を蝕んでいるのを感じていた。
最初はそれが“痛み”だった。
やがてそれは“違和感”となり、“共鳴”に変わり、今はもう――自分という存在の輪郭そのものにまで滲み始めている。
本来ならば、あの戦いの果てに自分も他の仲間たちと同じように土に還るはずだった。
そうあるべきだったと、今でも思う。
時代は動いている。
終焉戦役が終わって、まだ十年も経っていない。
それでも世界は少しずつ、“次”へと歩み出している。
帝国の目的ももう見えている。
俺をこうして“保存”するのは、危険だからという理由だけじゃない。
いずれまた来るであろう“異変”のために、ゼン・アルヴァリード――零位種という存在を、いつでも取り出せる場所に閉じ込めておくためだ。
リシェルも、そう言っていた。
「あなたの存在を、帝国は永久に利用しようとするつもりよ」と。
警告だった。
だがその声音には怒りよりも、哀しみのほうが強く滲んでいた。
俺の体に埋め込まれた魂核は、魔神族の残滓でありヤツらの存在そのものを封じ込めるための檻だ。
ただの兵器でも、呪いでもない。
それ自体が、一種の“意思”のようなものを持っている。
それを抱えた俺は、もう純粋な人間ではない。
――“零位種”などという新たな分類で呼ばれながら、俺はただの異物として分類された。
本当は、あの瞬間に終わっていたんだ。
ヴァル・ゼルグの魂核を封じ込めたあの戦場で。
世界を護るため、誰かの未来のために、自分の全てを犠牲にするつもりだった。
その覚悟で、俺は剣を取った。
だが、死ななかった。
なぜか生き延びてしまった。
英雄として称えられ、一度は“役目を終えた人間”として山奥で静かに生きる道を選んだ。
小さな鍋を買って、
薪を割って、
焚き火で肉を焼いて、
誰とも戦わない日々を過ごしていた。
……だがそれは、ほんの束の間の幻だったのかもしれない。
結局俺の中に“それ”がある限り、世界は俺を自由にしてはくれなかった。
たとえ誰も傷つけていなくても。
たとえ望んで力を振るったわけではなくても。
俺の存在が、この世界に落ちる“あらゆる秩序や制度にとって例外”である限り――その場に居場所はなかった。
リシェルが教えてくれた。
呪いを解く方法はまだ見つかっていないが、帝国でも、魔導連盟でも、いくつかの手がかりが研究対象として進められている、と。
けれどそれが解かれたからといって、俺が人間に戻れるわけではない。
今やこの身は、世界が積み重ねてきた秩序と恐怖、そのすべてを内包した“箱”に過ぎない。
だからこそ、彼女は言ったのだ。
「どうか、生きることを諦めないで」
たったそれだけの言葉が、どうしてこんなにも重たく胸に残るのだろう。
たぶん――
あの最後の戦いに臨む前に、俺たちが願っていた未来がまだどこかにあると信じているからだ。
戦争が終わって、平和が訪れて、
子どもたちが笑って、
誰もが恐れずに夜を越せるような日々が当たり前になる。
それが、俺たちの目指していた道であり“答え”だった。
だけどその答えを手にした代償として、誰かが記憶から外され、制度の底に閉じ込められるなら――それもまた、この国の“形”なのだろう。
はじめから、こうするべきだったのかもしれない。
あの瞬間に、俺は自分の存在すべてを閉じ込めるべきだった。
魂核とともに、肉体も、名前も、意志も、ここに封じてしまうべきだった。
……山に籠もり、食堂など開くべきじゃなかった。
他人の優しさに触れたり、
料理を通して誰かの心を温めたりするなんて、
そんな“人間らしい営み”にすがった自分が――今となっては滑稽にすら思える。
それでも。
たった一度でも。
あの静かな朝、湯気の立つスープの向こうに笑顔があったことだけは――
忘れたくない。
俺が、まだ“考える存在”である限りは。
ゼンは、ひとりになった。
立ったまま、何もせず。
剣もない。
鍋もない。
焚き火の匂いも、仲間の声もない。
あるのは、内側に沈んだ“異物”――
ヴァル・ゼルグの魂核。
それは今も彼の中で、微かに脈を打っていた。
(……お前も、管理対象か)
返答はない。
そしてあるいはそれこそが、この沈黙の中での最も深い“了解”だった。
遥か地上では今日も光が満ちている。
子どもたちは遊び商人は声を張り、帝都は完璧な秩序を保ったまま回っている。
そのために、ひとりの男が地下に降ろされた。
声を発することなく。
抵抗もせず。
ゼン・アルヴァリードは目を閉じた。
それは眠りのためでも、祈りのためでもない。
ただ、“自分がまだこの世界に属する存在である”ことを手放さないために。
この静けさが、帝国という国が選んだ平和の形だった。
そしてゼンは、なおもそこに在り続ける。
語られず、記録されず。
この光の国の陰に潜む、――“核心”として。




