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第154話 世界の歪みの中心



ゼンは、わずかに肩の力を抜いた。


剣を抜くでもなく、構えを解くでもない。

ただ――それまで全身を満たしていた張り詰めた緊張が、音もなく一段階ほど落ちていく。

弦を張り切ったままではなく切ったわけでもない。

必要なところまで、ただ緩めただけだ。


それは降伏ではなかった。

諦めとも違う。


もっと静かで、もっと重い。

逃げ場のない理解に、ようやく辿り着いたという感覚だった。


(……分かっている)


頭では、ずっと前から分かっていたことだ。


ここで刃を向けることがどれほど無意味で、“悪手”となり得るか。

この場を力ずくで突破できたとして、それがもはや「解決」にはなり得ないということ――


逃げようと思えばいつでも逃げられる。

それは疑いようのない事実だ。


カシアンの手を振り払い、配置された人員を抜け、帝国の追跡網を撹乱することもできる。

山へ戻ることも、さらに奥へ消えることもできる。

世界から完全に身を隠す術も、彼ならよく知っている。


だが――それは、“選択肢”にはなり得ない。


それはただの先延ばしであり、責任の放棄に他ならない。

問題を解決する行為ではなく、目の前の現実を時間の向こうへ押しやるだけの行為。


そしてその先に待っているのは、追い続けてくる“代償”と、必ず訪れる“より悪い局面”だけだった。


自分が消えれば事態が静まるわけではない。

むしろ逆だ。


管理できない異常はより強い力で、より乱暴な形で扱われるようになる。

帝国は危険因子を放置したりはしない。

制御できないものを見逃すことなどない。



だから――

ここで剣を振るうことは、自分のためにすらならない。


ゼンはあの時の空を思い出していた。


燃え落ちる雲。

砕ける光。

七属性が衝突し、世界そのものが悲鳴を上げていた――あの最終局面。


あのとき、彼は死ぬつもりだった。

正確に言えば、生き延びるという「選択肢」を最初から持ち運んではいなかった。


すべてを賭けて、すべてを終わらせる。

それが自分に課された役割だと疑いもしなかった。


英雄であるとか、責務であるとか、使命であるとか――

そうした言葉は後から付けられた言葉や装飾でしかない。


あの瞬間、彼を突き動かしていたのはもっと単純な感情だった。



――ヤツらを、倒す。



その一心だけだった。


結果としては生き残ったが、それは勝利でもなければ、逃れ得た救済でもなかった。


ただの偶然であり、運の残滓であり、世界が選び損ねた余白だった。


だからこそ戦いが終わった後、ゼンが選んだ場所は山郷だった。

人里から遠く、地図にも名が残らないような静かな土地。

英雄として讃えられる舞台でもなければ、権力が渦巻く中枢でもない。

再び剣を握る理由が生まれる戦場からも、できる限り距離を置いた場所だった。


彼が求めたのは、ただ静かな時間が流れる空間だった。


朝の冷たい空気が肺を満たし、火打石を鳴らす乾いた音が小屋に響く。

炎が立ち上がり、鍋に水を張り、湯が沸くまでのわずかな待ち時間。

包丁がまな板に触れる音、刻まれる野菜の匂い。

誰かのために料理を作る、その単純で確かな行為。


言葉少なにそれを口にし、腹を満たした客の背中を見送る時間。

賞賛も評価も、感想もいらない。

ただ食べ、満ち足り、静かに去っていく。その姿や日常があれば十分だった。


それはこれまでの人生で一度も手にしたことのない日々だった。

何も起こらないという、途方もなく贅沢な時間。


その静けさがどれほど続くのかは分からなかった。

体の奥に眠るものがいつ牙を剥くのかも分からない。


それでも――それでも、彼は願っていた。


残された日々を、穏やかに過ごしたいと。


誰かを守るためでもない。

世界を救うためでもない。

ただ、自分に許されたわずかな余白の中に、身を潜めるために。


肩の力を抜いたゼンの背中には、戦士としての覚悟も、英雄としての矜持もなかった。

そこにあるのは、すべてを知った上で、それでも逃げないと決めた意志が沈殿した静かな重さだけだった。


(……世界に背を向けてまで、貫くほどの価値はない)


その思いは声になることもなく、感情を荒立てることもなく、ただ確かな事実として胸の奥へと沈んでいった。


自分がどう生きたいか。

それが大切であることに疑いはない。


それと同時に、ゼンは理解していた。

自分という存在が、どれほど多くのものに影響を与えてしまうのかを。


この体を蝕む呪いがなければ。

この血に刻まれた因果がなければ。


――もしそうであったなら。


一度でも世界の歪みの中心に立ってしまった者は、

「自分のためだけに生きる」という選択を無邪気には取れない。


自分の命はもう自分だけのものではない。


その事実を完全に受け入れてしまった瞬間、選択肢は驚くほど少なくなった。


ゼンはゆっくりと息を吐いた。

深く、長く、体の奥に残っていた余分な力を外へ流すように。


その呼吸に呼応するかのように、周囲の緊張がわずかに揺らぐ。

影兵たちの気配が、一瞬だけ曖昧になる。


それが「緩んだ」のか、それとも「次の段階へ移った」のか。

その判断は誰にもつかなかった。


カシアンは動かない。

一歩も前に出ず、言葉も重ねない。


命令でも、催促でもない。

結論が出るまで沈黙する――それこそが、最も圧の強い待ち方だった。


急かさない代わりに、逃げ道も与えない。

それがこの白衣の王子のやり方だった。


ゼンはゆっくりと視線を上げる。


そこにいるのは敵ではない。

味方でもない。


ただ、帝国という巨大な構造の意思をこの場に最も合理的な形で顕現させた男。


「……ひとつだけ、聞かせろ」


低い声だった。

そこにはやはり荒れも濁りもなく、それでいて場の全てを射抜くような集中があった。


「俺が大人しく従えば――

クレアには手を出さないと、約束できるか」


その瞬間、空気が張り詰める。


影兵たちが息を詰めた。

それは条件提示であり、同時に――

ゼンが差し出した、最後の境界線だった。


カシアンは、即答しない。


ほんのわずか、しかし確かに思考のための時間を置いてから口を開く。


「約束、という言葉は使いません」


静かな声だった。

下手な誤魔化しも、回避もない。


「ですが――

あなたが協力的である限り、

彼女たちが不利益を被る理由は帝国側にはありません」


完全な肯定ではない。

明確な否定でもない。


そしてそれがこの男の誠実さであり、同時に彼が超えない“一線”だった。


ゼンはゆっくりと目を閉じる。


ほんの短い時間だったが、その内側で彼はすべてを計算し、整理し、余計な思考を切り捨てていた。


感情を削ぎ、願いを削り、

それでも残ったものだけを受け入れる。


そして――

再び目を開いたとき、そこに迷いはなかった。



「……分かった」


その短い一言が放たれた瞬間、場の空気が目に見えぬ形で静かに組み替えられた。


安堵ではない。

勝利でもない。


ただ、ひとつの局面が終わった――

それだけの感触が、冷えた水のように空間へと広がっていく。


ゼンはゆっくりと両手を下ろした。


拘束を受け入れるための仕草ではない。

武器を捨てる動作でもない。


それは境界に立ち続けてきた者が選ぶ、

最小限にして最大限に計算された譲歩だった。


「俺は、抵抗しない」


その言葉は淡々としているが、決して軽くはない。


積み重ねてきた戦いと選択の重みが、静かな声の底に沈んでいた。


「だが、覚えておけ」


ゼンの視線がまっすぐにカシアンを射抜く。

そこには怒りも嘲りもない。

あるのはただ事実を突きつけるための、硬質な光だった。


「俺は、お前たちに“従った”わけじゃない。

ただ――今は、それが一番マシだと判断しただけだ」


選ばれたのは屈服ではない。

虚勢でも、逃避でもない。


状況を見極めた末の、冷静な判断。

より悪い未来を切り捨て、より可能性の残る道を踏んだだけだ。


カシアンはその言葉を遮らない。

否定も評価もしない。


――わずかに、頷くだけだった。


「十分です」


その声音には勝ち誇る響きはなかった。

かといって、交渉の成否に対する安堵があるわけでもない。


ただ予定されていた工程が一つ完了した――

たったそれだけの、事務的で揺るぎない“確信”があった。


ゼンは、内心で静かに呟く。


(……さて、これからどうするか)


これは敗北ではない。

だが、自由でもない。


自ら選んだ一歩は光と影の交錯する宙域へと続く道であり、

同時に次の問いを投げるための立ち位置でもあった。


境界に立つ者は決して物事の核心からは逃げない。

巨大な力にも流れにも飲み込まれはしない。


ゼン・アルヴァリードは、帝国の影の内側へとあくまで一歩だけ踏み入れる。


それは服従ではない。


次に向き合うべき“世界の構造”を見極めるための、

冷静で、静かな――

そして決して後戻りしない、一歩だった。

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