第153話 秤
「あなたが本気になれば、この場を制圧することなど造作もないでしょう」
カシアンはそう前置きした。
その言葉には慰めでも称賛でもない、あらゆる可能性を考え尽くした上での冷えた確信だけが込められていた。
「ですが――あなたの動き方次第では、我々はどんな決断を下すことだってできます」
一拍。
その間は短いが、言葉としての意味は重い。
「あなたが「誰」で、“何ができる人間なのか”。それを十分に理解した上で、そう申し上げているのです」
ゼンは答えない。
言葉を発することなく、ただ視線だけを据えたまま微動だにしなかった。
その静止が――場を圧迫する。
空気が、重く沈む。
呼吸が、遅れる。
影兵たちの喉が無意識に鳴った。
誰かの踵が気づかぬうちに半歩だけ後ろへ下がる。
剣は抜かれていない。
魔力の奔流もない。
それでも、はっきりと分かっていた。
目の前の男が、今は動いていないだけだということを。
――もし、この瞬間。
――もし、この男が“動く”という選択をしたなら。
そんな仮定が合図もなく、全員の脳裏に同時に浮かぶ。
そしてその続きを想像できてしまうからこそ、誰も次の動作に移れなかった。
生き残る未来が、見えない。
“戦闘になる”という想像ですら靄がかかったようにボヤけてしまう。
抵抗し、押し合い、倒す――そういった過程が何一つそこに存在しない。
紛れもない事実だけがここにある。
ここにいる全員が殺される。
戦闘ではない。
抵抗でもない。
ただ、行き着くべき一つの“結果”として。
その確信に近い予感が、この場を覆い尽くしていた。
「――どこにいる?」
短い。
削ぎ落とされ、刃だけになった言葉だった。
前置きはない。
威嚇もない。
怒りも焦りも、わずかな感情の起伏すら感じられない。
あるのはただ一つ。
必要だから問う――それだけの声。
淡々としている。
あまりにも静かで平坦でありながら、抑揚がない。
それなのにその一言が、空間そのものに圧を生んだ。
言葉が放たれた瞬間、影兵たちは本能で理解する。
――これは、質問ではない。
――選択肢だ。
答えるか。
それとも、答えないか。
答えなければ何かが起きる。
ただそれが「何」なのかは誰にも分からない。
分からないからこそ、恐ろしい。
この声の主は脅しを必要としない。
条件も交渉も、猶予も――本来は不要なのだ。
それでもなお、問いを投げかけた。
それはつまり、
今この瞬間だけは、踏みとどまっているという合図だった。
次の段階へ進めば、そこにはもう「会話」は存在しない。
骨の奥が、冷えた。
内臓が、重く沈んだ。
彼と相対する全てのものたちはすでに理解していた。
この場に立つ男は、自分たちを見ていない。
その先にいる“何か”だけを、すでに射程に収めているのだと。
カシアンは、ほんのわずかに目を細めた。
優位はこちらにある。
それは事実だ。
だがそれは力によるものではない。
状況と手札と、そして――相手を理解しているという一点において。
彼は知っている。
ゼン・アルヴァリードという人間が、どんな存在であるかを。
この男は無差別に人を殺したりはしない。
単なる感情で無作為に暴れたりはしない。
自分の行動がどれほど多くのものを壊すかを、他の誰よりも理解している。
そして何より。
彼は帝国がどういった国か、自らの行動一つが何を招く可能性があるかを知っている。
もし――ここで選択を誤れば。
その余波がどこまで広がるのかを、ゼンは正確に理解していた。
まず真っ先に危険に晒されるのは、クレアだ。
彼女はすでに自身の“関与者”として認識されている。弟子であり護衛であり、現場に居合わせた人間。帝国の論理において、そこに情状酌量の余地はない。
彼女が直接刃を向けられるかどうかは問題ではない。拘束、尋問、隔離、あるいは「保護」という名目での回収――どの形であれ、彼女の人生はこの瞬間を境に別物になる。
だが、それで終わりではない。
灰庵亭。
ガルヴァの山郷。
ユファをはじめとする、名もない住民たち。
かつて戦場を共にした者たち。
今はただ、彼の作る食事を楽しみに訪れる旅人たち。
ゼンという存在と“接点を持った”というだけで、帝国の視線はそこに及ぶ。
直接的な暴力でなくとも、監視、規制、立ち入り制限、調査という名の圧迫は十分に人を壊す。
静かで合法で、抗議の余地がないやり方で。
それらすべてが、ゼンの胸中では一瞬で展開されていた。
未来予測ではない。
過去に何度も見てきた、現実の延長線だ。
だが――
それらはあくまで「可能性」でしかない。
そして同時に、それらすべては交渉のために並べられた札に過ぎなかった。
帝国の目的は最初から一つしかない。
ゼン・アルヴァリード、その存在そのもの。
彼の体に宿るもの。
彼の在り方。
零位種という、再現不能な特異点。
それ以外は、極論すれば副次的だ。
排除も、保護も、交渉も、威圧も――すべては彼を動かすための工程でしかない。
クレアも山郷も、周囲の人間関係も、
すべては「説得材料」であり、「抑止力」であり、「選択を狭めるための条件」に過ぎない。
言い換えれば――
彼らは“守る対象”であると同時に、交渉の場に並べられた駒でもある。
ゼンが一歩踏み出し、帝国に付き従うという選択をすれば。
この場は穏便に終わるだろう。
誰も死なない。
誰も傷つかない。
灰庵亭も、山郷も、少なくとも表向きは平穏を保つ。
それができることも、ゼンは分かっている。
――もし、従わなければ。
もし「自分の意思」を貫けば。
どれほどの被害が出るのかは誰にも断言できない。
帝国は脅さない。
予告もしない。
ただ、目的達成に必要な手段を淡々と実行することはまず間違いないだろう。
そこに感情はなく、悪意すらない。
あるのは合理性だけだ。
だからこそ厄介で、逃げ場がない。
ゼンは理解している。
今自分に突きつけられているのは「選択」の形をした問いではない。
これは、秤だ。
自分の意思と、他者の安全。
自分の尊厳と、周囲の未来。
どちらが重いのかを測れ、と突きつけられている。
そして冷静に計算すればするほど、結論は一つに収束していく。
自分の“意見”を優先することに、
他者の命運を賭してまで実行すべき合理性があるのか。
その問いに即座に「ある」と言い切れるほど、ゼン・アルヴァリードは身勝手な人間ではなかった。
彼は英雄だった。
だがそれ以上に、自分の選択が誰を傷つけるかをよく知っている男だった。
だからこそ。
選択肢は、初めから多くない。
カシアンはゆっくりと息を吐き、答えた。
「安全な場所に」
言葉は曖昧だった。
そしてそれは決して誤魔化しなどではない。
「帝都の管理下です。少なくとも――今この瞬間、彼女の生命に危険はありません」
“今この瞬間”。
その限定が、あまりにも明確だった。
ゼンの瞳がほんのわずかに細くなる。
それは怒りではなかったが、どこか諦観めいた警戒の色が濃くなったのは確かだった。
「条件付き、というわけか」
「ええ」
カシアンは即座に肯定する。
「あなたがこの場で無理をなさらなければ、彼女に何かが起こる理由はありません」
言外に、はっきりとした意味が含まれている。
無理をすれば――どうなるか。
その答えははっきりしているようで、残酷なほどに想像に委ねられていた。




