表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
209/333

第152話 伝説の英雄



ゼンは、即座に理解した。


それは言葉を聞いたからではない。

名前を出されたからでもない。

ましてや、脅しとしての響きを感じ取ったからでもなかった。


――“間”だ。


カシアンがその名を口にするまでに置いた、わずか一拍。

思い出したように装いながら、決して偶然ではないあまりにも正確なタイミング。

その一瞬に込められた計算を、ゼンは逃さなかった。


顔色が、はっきりと変わる。


それは怒りではない。

焦りでもない。

だが、これまで一切崩れなかった均衡が、確かに一段階“深いところ”で切り替わった。


――拾ってしまったのだ。


カシアンという男が、その思惑に沈めた冷徹な思考の輪郭を。

合理性の名の下に、躊躇なく踏み込む判断。

そしてそれを感情ではなく“手順”として実行できる種類の人間であるという事実を。


ゼンは分かっていた。

このタイミング、この距離、この間合い。

ここでその“手札”を切ってくるということが、何を意味するのか。


若い。

だが未熟ではない。


この王子は、対話の中で相手を測り、距離を取り、必要な情報を静かに積み上げる。

視線の置き方、沈黙の挟み方、言葉を選び直す所作――

そのすべてが即興ではなく、戦略の一部として組み上げられている。


対話していれば分かる。

この男は短絡的な感情で話してはいない。

状況を整理し、可能性を分岐させ、最終的に“最も合理的な一手”を選び続ける人間だ。


だからこそゼンは理解してしまった。


今この瞬間、カシアンがどれほどの優位性を“すでに手札として握っているか”を。

どこまで把握し、どこまで踏み込む覚悟があるのかを。


ゼンはゆっくりと息を吸い、吐いた。


そして、あえて口にする。


「……クレアを、どうした?」


声音は低く、抑えられている。

だがそこには、問い以上の意味が含まれていた。


彼女が今どこにいるのか。

無事なのか。

あるいは――すでに、どこまで“利用”されているのか。


ゼンはすべて分かった上で聞いている。

彼女を交渉材料に使うつもりでいる相手の意図を、完全に理解した状態で。


カシアンは、少しも動じなかった。


表情を変えず、声の調子も崩さない。

まるで天気の話でも続けるかのように、穏やかに答える。


「それは――あなたの答え次第ですね」


冷徹だった。

そして、どこまでも合理的だった。


選択権が自分にあることをあえて誇示しない。

だが同時に、主導権が完全にこちらにあるという事実だけを、静かに突きつける言い方。


その言葉が耳に届いた瞬間、ゼンの視線が鋭く跳ね上がる。



初めてだ。



ここまでのやり取りの中で、ゼンが明確に“感情の刃”を向けたのは。


「……その言葉は」


一歩、踏み出す。


音もなく、空気を圧縮するような動き。

だがその存在感は、場の密度を一変させた。


「挑発か?」


それとも――“本気”なのか?」




その瞬間だった。


――“それ”は、戦意だった。


ここまでゼンは一度として戦う意思を示していない。

挑発にも応じず、威圧にも反応せず、ただ淡々と距離を保っていた。


だが今、初めて。

彼は明確に“相手を見る目”を変えた。






空気が、変わった。



それは風向きが変わるような生易しいものではない。

温度でも、音でも、匂いでもない。

だが確実に、“場そのものの前提”が塗り替えられた。


呼吸が、重くなる。

肺に入る空気の質量が増したかのように、吸うたびに胸の奥が軋む。


床、壁、天井――すべてがわずかに沈み込み、空間が内側へ圧縮されていく錯覚。



いや、錯覚ではない。



目に見えない圧が、確かにそこにあった。

ゼン・アルヴァリードという存在を中心に、波紋のように広がる“重さ”。


影兵たちが、同時に反応した。


誰かが命じたわけではない。

合図もない。

だが全員がほぼ同時に一歩、半歩と重心を落としていく。


足裏が床を捉え直し、膝が緩み、間合いを測り直す。

訓練によって染みついた“非常時の身体”が、意思より先に動いた。



恐怖ではない。

混乱でもない。



――異常。



その一語だけが、脊髄を駆け抜けた。


目の前の男は剣を抜いていない。

殺気を放っているわけでもない。

魔力を解放しているわけでもない。


それなのに。


“これ以上近づくな”

“踏み込めば死ぬ”


そう命じられているかのように、身体が拒絶反応を起こす。


ゼン・アルヴァリードが、初めて“こちらを戦場として認識した”。



その「事実」だけで、空間の意味が変わった。



歴戦の兵士であればあるほど理解してしまう。

これは戦闘前の気配ではない。

これは――戦闘が成立するかどうかを、世界そのものに問い直す圧だ。


一人の人間が立っているだけで、

この場が“戦っていい場所なのか”を再定義されてしまう。


だが。


その圧の中心に立つカシアンだけは、動かなかった。


一歩も退かない。

呼吸も乱れない。

肩の力すら抜けたままだ。


むしろ彼はその変化を正面から受け止め、静かに、ほんのわずかに口角を上げた。


理解した者の笑みだった。

恐怖ではなく、確認に近い表情。


――これが、伝説の実像か。





(……なるほど)



(これが、この男が持つ本当の“力”……)



圧倒的。

単なる戦闘力ではない。

存在そのものが、戦場の前提を書き換える種類の威圧。



(帝国の全軍をもってしても、抑え込めるかどうか分からない――)



そう評される理由が、今なら分かる。


恐怖ではない。

畏敬でもない。


ただ、純粋な理解。


(ええ……これは確かに、“敵に回してはいけない存在”ですね)


だからこそ。


カシアンは、笑みを崩さなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ