第151話 次の一手
「……俺は、どこにも行かないと言ったはずだ」
ゼンがそう呟いた声は低く、落ち着いている。感情を抑え込む様子すら見せず、荒れてはいない。
だがその平静の奥には、確かな硬さがあった。
鉄が冷え切っていくときに立てる、あの鈍く確実な音に似たものだ。
カシアンは、急がなかった。
命令口調にもならない。威圧もしない。むしろ柔らかい調子で前置きを置いた。
「ええ。あなたなら、そう言うと思っていました」
その言葉には嘲りがない。理解しているという態度だけがある。相手の反発さえ最初から予定表に書き込まれているような、穏やかな口ぶりで。
そして彼は言葉を少しだけ選び直すように間を置き、続ける。
「ですが――あなたのその体の“中”にあるものが、どれほど世界に危険を及ぼすか。あなた自身が、よく分かっているでしょう?」
ゼンの瞳が、わずかに動いた。
怒りではない。
否定でもない。
ただ、反射的に。
魔神族や自らの体に巣食うもの、カシアンの意図したありのままの事実を“知っている”という認識の核心に、無意識に触れられた反応。
カシアンはその揺れを見逃さない。急いで追撃をしようともしない。代わりに声の調子をさらに落とし、語りかけるように話を繋ぐ。
「中央研究室――帝都の管理下にある最深部なら、魔神族の研究も進んでいます。あなたにかけられた“呪い”……それを解消できる可能性が見つかるかもしれない」
それは一見すれば救済の言葉のようにも、希望を提示する言葉のようにも聞こえた。
だがその言い回しがあまりにも滑らかだった。
まるで“拒否する理由”を先回りして削り取るような、整然とした善意。
「国のためにも――そして、あなた自身のためにも。どうか穏便に、ご同行願います」
声は低く、あくまで穏やかだ。
その穏やかさは剣を抜かずに首筋へ刃を当てる行為に似ている。
抵抗の余地を奪いながら、あくまでも鋭利な刃を直接見せようとはしない。
ゼンはカシアンの目を見た。
そこには情がない。しかし、敵意らしい敵意も見当たらない。
目的に対して余計な色を一切混ぜない瞳――人を導く者の目ではなく、物事を支配しようとする者の目だった。
(詭弁だ)
ゼンははっきりと理解していた。
呪いの解消。
国のため。
穏便に。
そのどれもが、言葉としては正しい。
――正しいが、真実ではない。
この王子の狙いが何か、すべては掴めない。
だが一つだけ確かなことがある。
カシアンは“俺を優しく迎え入れよう”などとは思っていない。
迎え入れるつもりなど最初からない。
あるのは枠に入れ、閉じ込めるという判断だけだ。
救う気もない。
あるのは危険を制御し、扱える形で管理するという発想だけ。
そして必要とあらば――
同じ条件を揃え、どんな手を使ってでも“排除する”という選択を躊躇わない。
その底冷えするような考え方は、先ほど行われた白狼の回収とあまりにも自然につながっていた。
あの少年は守られたのではない。
生かされたのでもない。
存在の状態、魔力の位相、反応のすべてを含めたまま、
“条件ごと保存された”のだ。
観測し、解析し、“研究”とやらに利用するために。
――そしてそれは、俺も同じだ。
ただ
そう理解した瞬間、ゼンの胸の奥がかすかに軋んだ。
痛みと呼ぶには淡く、違和感と呼ぶには確かすぎる感触。
そこに――“いる”。
体内のさらに奥、意識の底に沈んだ場所で、あの存在が息をしている気配がした。
笑うでもなく暴れるでもなく、ただ静かに在るという感触。
まるでこちらが言葉を向けるのを待っているかのように、存在そのものが耳を澄ませている。
ゼンは唇を引き結ぶ。
不用意に触れれば、返ってくるものがあると知っているからだ。
(……俺ひとりの問題で、済む話じゃない)
その事実も、彼は誰よりよく理解していた。
自分の内側に宿る魂核は、放置すれば必ず周囲に影響を及ぼす。
それは偶発的な事故ではないし、起こり得るかどうかの話でもない。
時間の問題として、確実に世界を歪めていく性質のものだ。
だが、本当に厄介なのは――
それが「利用できる」と判断される政治的な事情を含んでいるということだった。
誰かが手を伸ばした時点で、危険は一気に跳ね上がる。
そこに善意があろうとなかろうと、関係はない。
触れられ、囲われ、制御可能だと見なされた瞬間、
事態はもはや一個人の手には負えなくなる。
そして帝国は、危険そのものを忌避する組織ではない。
帝国が本当に嫌うのは、「予測できない存在」だけだ。
危険であっても、管理できるなら容認する。
ならば枠を作り、規格を定め、再現性を与える。
そうして“扱える危険”へと変換する。
ゼンはその光景を幾度となく見てきた。
戦場で。研究室で。会議室の裏側で。
だからこそ彼は一度、長く息を吐いた。
静かに、深く、肺の奥が空になるまで。
それは感情を抑えるための呼吸ではない。
恐怖や怒りを押し殺すためでもなかった。
状況を切り分け、
自分が立つべき位置を定めるための呼吸だ。
境界に立つ者の癖。
揺れを削ぎ落とし、余計な感情を沈め、判断に必要な輪郭だけを残すための静かな準備だった。
「……お前の言うことは分かる」
ゼンはゆっくりと言った。
拒絶ではない。理解の宣言だ。理解した上でなお、拒むための言葉。
「俺の中にあるものが俺個人の問題だけでなく、世界にとっても帝国にとっても、脅威になる。……それは否定しない」
カシアンは黙って聞いている。
その沈黙が肯定を促す空白になっている。
ゼンが“自分から首輪を差し出す”のを待つ沈黙。
ただ、ゼンはその空白に従わない。
「だがな」
声が、さらに低くなる。
落ち着いているのに硬い。まるで山肌に埋もれた岩のように強固で、少しも揺るごうとはせず。
「帝国の指示に従えば、呪いが解けるかもしれないと言ったな?」
ゼンはそこで一拍置く。
そして、まっすぐに告げた。
「――俺は、従うつもりはない」
空気が凍るように張り詰めた。
霜が音もなく床板を這い直し、残骸の影がわずかに濃くなる。
カシアンの背後――遠い位置で、ラグナの気配が微かに揃う。
カシアンは表情を変えずにいた。
否定もせず肯定もせず、ただ静かに聞いている。
その態度が、ゼンには何より確かな一つの答えに見えた。
――否定できないのだ。
否定しない方が都合がいいのだ。
それを知ってなお、ゼンは視線を逸らさずにいた。
「……残念です」
カシアンはそう言ってから、ほんのわずかに口角を上げた。
それは失望の表情でも、――まして怒りの表情でもない。
最初からすべて分かっていた者が、予定通りの結果を確認しただけの笑み。
平静でありながらも底に潜む計算を隠しきれない、その微細な変化をゼンは見逃さなかった。
(……ふん)
承諾しないこと。
帝国の命に従わないこと。
それはカシアンにとって“誤算”ではなく、“想定内”――
むしろそれこそが、彼にとって最も都合のいい展開だった。
従順に首輪を受け入れられるくらいなら、拒絶される方がいい。
おとなしく従われるより、抵抗される方がいい。
なぜなら――
抵抗とは、「正当な強制力」を行使するための最も都合のいい理由になるからだ。
カシアンの視線はゼンという存在を“ひとりの人間”として捉えていない。
彼にとってゼンは感情や意思を持つ個人ではなく、
世界の構造の中に生じた例外値、管理と制御を要する異常そのものだった。
救済でも、共存でもない。
必要なのは「秩序」の中に組み込み、制御下に置くこと。
それだけだ。
ただし――
ひとつだけ、問題があるとすれば。
どうやって連行するか。
その一点に尽きていた。
ゼンはかつての全盛期の力を失っている。
それは疑いようのない事実だ。
だが相手は、ゼン・アルヴァリード。
帝国史に名を刻む元英雄。
剣聖セリス=リューウェルをして「最強」と言わしめた男。
真正面から衝突すればどれほどの犠牲が出るか、誰にも予測できない。
それは帝国にとって――
あまりにも非合理的だった。
だからこそ力で押さえつけることは選ばれない。
抵抗させ、正当性を得て、最小の損耗で収容する。
それがカシアンの描く最適解だった。
そしてゼン自身も、その構図を痛いほど理解していた。
今この場にいる戦力で、自分を完全に拘束できる戦力は揃っていない。
ラグナは厄介だが、それはあくまで“条件付き”の話にすぎない。
術式が完成し、周囲の陣形が整ってこそ成立する精密な戦闘機構であり、大規模な戦略単位で〈優位性〉と〈選択肢〉を取れる稀有な存在ではある。
――ただ、それがゼン個人を封じるための“対抗策”になるかと言えば、答えは否だ。
敵として優れていることと、ゼンにとって脅威たりえることはまったく別の尺度である。
それを最も理解しているのが、他ならぬゼン自身だった。
「用件は、もう済んだだろう」
淡々とした声だった。
感情を交えず、距離を保つためだけの言葉。
「俺は、仕事に戻る」
そう言って、ゼンは視線を外そうとする。
その背中が、静かに場を離れようとした――まさに、その瞬間。
「このまま、私たちがみすみす諦めるとでも?」
背後から、カシアンの声が追いついた。
冷静で抑制されていて、しかし確かに退く気配のない響き。
ゼンは歩みを止めない。
けれどその口元が、ほんのわずかに歪んだ。
「……ほう?」
振り向きもせず、短く応じる。
「なら、どうする?」
低く、乾いた声。
そこには明確な挑発が含まれていた。
「力ずくで、俺を連れて帰るか?」
カシアンは即座に首を横に振る。
逡巡も、計算の間もない。
あまりにも即断だった。
「いいえ」
その否定は静かで、確信に満ちている。
「あなたと戦うつもりはありません。最初から、そう申し上げているでしょう」
その言葉に虚飾はなかった。
同時に、譲歩の色もない。
ゼンはここで初めて振り向いた。
カシアンの表情は穏やかだった。
敵意も焦りも見えない。
だがその瞳の奥で――思考が、確かに切り替わったのが分かる。
“次の手”へ。
「戦えば勝てるかどうかではなく、
あなたと戦うこと自体が非合理です」
そう言いながらカシアンは指を一本、軽く立てた。
「ただ――連行する方法は、なにも戦闘だけではありません」
その声色は柔らかくすらあったが、ゼンの足元に一瞬、冷たい風が吹いたような錯覚が走る。
言葉の裏側に置かれた「策」の輪郭が、静かに立ち上がる。
「……そういえば」
カシアンは、思い出したような口調で続ける。
「私の妹と、もう一人いましたね」
一拍。
「彼女と一緒に訪問した、王室の使用人が」
その言葉が放たれた瞬間、ゼンの中で何かがはっきりと“切り替わった”。
力を使わずに封じる方法。
それは言葉の駆け引きでも、交渉でもない。
彼が取ろうとしているのは――ゼン自身を“主語”にしない、第三の手段。
そしてそれが、ゼンにとって“最も避けたい種類の戦術”であることを、カシアンはよく知っていた。




