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第150話 デモンストレーション




世界が、完全に追いつく前だった。


視覚も音も、思考すらも現象に遅れ、ただ“結果”だけが先に存在しているような歪な瞬間。


白狼――

否、人の形を脱ぎ捨て、原相を纏ったユノが低く身を沈めた。


背骨がうねり、重心が一段下がる。

四肢の配置はもはや人間の運動学を参照していない。

肩の可動域は拡張され、関節の角度は獣そのものだ。


前脚――そう呼ぶしかない形状が、床を覆う霜を砕く。

爪先が触れた瞬間、凍結した表面が微細な結晶となって弾け、音もなく粉雪のように舞い上がる。


後脚に集約された魔力が、密度を持って渦を巻く。

空間そのものがそこだけ〈歪んで〉見えた。


爆発的な出力。

だが、それは制御ではない。

解放ですらない。


存在そのものが、

次に存在する位置を選び取ろうとしている。



――移動。



ゼンの足裏に、圧が走った。


床を通して伝わるわずかな違和感。

空気が押し縮められ、逃げ場を失った力が地面へと押し込まれていく兆候。


(……来るか)


思考が言葉になるよりも早く、理解が先に走る。


これは攻撃ではない。

迎撃でも、突進でもない。


白狼の身体が示しているのは、移動という行為そのものの暴力性だった。


前脚が床を叩く――否、引き裂く。

爪が霜を削り取り、床材の表層を抉りながら後脚へと張力が走る。

背骨が鞭のようにしなり、筋繊維が一斉に収縮する。

溜めではない。

予備でもない。

全身が同時に、前方へ噛みつく準備を完了させている。


後脚が“蹴る”のではない。

床を後方へ叩き落とす。

反作用として生じた力が骨盤を押し上げ、脊椎を貫きながら頭部まで一気に駆け抜ける。


その瞬間、白狼の身体は「走る」という形を失う。

跳躍でも滑空でもない。

四肢の連動が生む推進力だけが、空間を削り取る。


距離を詰めるのではない。

距離を踏み越えるのでもない。


白狼はただ、存在可能な次の地点へ肉体ごと叩き込まれる。



視線の集中と空間の収束へ、


踏み出す――




――否。



踏み出そうとした、その瞬間だった。


低く、重い振動が走る。

床下のさらに深く、基礎石の向こうで、何かが噛み合うような感触。


世界がわずかに“止まった”。


ラグナ・ヴェルクハイトが、掌を下げていた。


動作は静かで、あまりにも自然。

詠唱はない。

言葉もない。


ただ、彼の領域内に打ち込まれていた位相固定杭が、

一斉に応答を開始する。


点が光る。

床、壁、空間の節点。

見えないはずの基準点が、淡い輝きとして浮かび上がる。


線が結ばれる。

幾何学的で、冷徹な配置。

空間の“解釈”そのものが再定義されていく。


そして、「面」が確定する。


原相の動きが止まったわけではない。

魔力が奪われたわけでもない。


――切り離されたのは、意識だった。


白狼の瞳から“焦点”が消える。


吠え声はない。

威嚇も、怒りもない。


ただ、前へ落ちようとしていた“意思”が唐突に空白へと沈んだ。


原相は、そこに存在している。

筋肉も、骨格も、魔力循環も健在だ。


だがそれを選び取る主体が、もうそこにはない。


白狼の巨体は、霜の上で静止する。


倒れない。

崩れない。


まるで、そこに置かれた彫像のように――

“保たれている”。


その異質な静けさが空間を覆った、次の瞬間。


空気が、裂けた。


――否。

裂けたように“見えただけ”だ。


実際には空間が押し退けられ、そこに別の位相が滑り込んだに過ぎない。


現れたのは、人影。


黒衣。

紫紋。

沈黙を重ね着したような装束。


紫影兵団――

封印と隔離を専門とする兵団、その副官。


男か女かは判然としない。

だが、姿を現した瞬間から、無駄という概念が存在しなかった。


足取りは静か。

しかし、床との接触が異様に薄い。


踏みしめているはずなのに、

重さが伝わらない。


彼――あるいは彼女の周囲だけ、重力の向きが曖昧だった。


まるで世界がその存在を「確定させかねている」かのように。


静止した白狼。

位相を縫い止める術者。

そして、遅れて到着した封印の専門家。


すべてが揃った瞬間、

この場がもはや偶発的な衝突ではなく、

“管理された事象”であることが、誰の目にも明らかになっていた。



「……対象、確保可能」



声は低く、抑揚がない。

そこに感情の色は存在せず、判断だけが端的に切り出される。


黒衣の副官がゆっくりと片手を差し出した。


指先の動きに合わせ、空間が軋む。

視界の前で淡い光の輪が幾重にも折り畳まれ、重なり合っていく。


円環構造。

だがそれは単一の図形ではない。

位相の異なる環が同時に存在し、互いに干渉せず、しかし確実に連結している。


ただの転移陣ではない。

封印術でもない。


これは――

存在そのものを“保管”するための空間。


隔離でも消去でもない。

時間と位置と観測から切り離し、「そこに在る」ことだけを許された収容領域。


名を与えるなら、

隔絶回廊セグメント・ネスト》。


白狼の足元に、影が落ちた。


影は広がらない。

床に染みることもない。


ただ、底が見えないほどに深くなる。


それは闇を包み込むための穴ではなく、座標そのものを失わせるための“受け皿”だった。


白狼――原相を纏ったユノの巨体が、ゆっくりと沈み始める。


抵抗はない。

吠えも、足掻きもない。


原相は眠っている。

意識を断たれたまま、存在だけが正確に保存されている。


霜と氷の結晶が、

床を覆っていた白の痕跡が、

音もなく空間の内側へと引き込まれていく。


魔力の流れが最後に一度だけ脈打ち、それも静かに消えた。


最後に見えたのはゲートが閉じる直前、――わずかに揺れた白い鬣。



《隔絶回廊》が、完全に閉じる。



光が収束し、

歪んでいた位相が正され、

空間は何事もなかったかのように元へ戻る。


冷気だけが残る。

霜が床を覆い、確かに“何かがここに存在していた”痕跡はある。





――ズッ




もう、そこに「白狼」はいなかった。



ゼンはただそれを見ていた。


介入しない。

止めもしない。


――止める理由がどこにもなかった。


ここで争えば守るべきものは守れず、壊すべきでない均衡が壊れる。


それを彼は嫌というほど知っている。


背後で、靴音がした。


乾いた音。

均一で無駄のない歩調。


振り向かなくても誰だか分かった。


 

――カシアンだ。



白衣の王子はゼンの隣に立つ。

近すぎず、遠すぎない距離で。


それは対話の距離であり、同時に牽制の距離でもある。


彼の視線は荒れ果てた戦場を見ていない。

すでに“次”を見ている。


「――ご尽力いただき、ありがとうございました」


声は丁寧だった。

儀礼的で誠実で、“品位”の欠落がない。


しかしその言葉は単なる感謝ではない。


“あなたの存在は、計画に組み込まれていた”

そう告げる響きを含んでいるかのような、捉え所のない思惑を漂わせていた。


ゼンは視線を外さない。


「……ずいぶん回りくどい言い方だな」


皮肉とも、拒絶とも取れる声音。


カシアンは微笑まない。

否定もしない。


「必要な接触でした」


それだけを告げる。


本物の零位核。

擬似的に再現された零位模倣核。


二つが、境界で触れた。


それだけで位相は揺らぐ。

均衡を保っていた構造が歪み、原相への扉が“自然に”開かれた。


ラグナの術式はその補助に過ぎない。

紫影兵団の回収も“変異したユノという少年――価値のある実験体の処理”に過ぎない。


彼の目的はすでに終わっている。


ただその「目的」は、この場に於いて彼自身のみが確かな事情と“成果”として理解していた。


ゼンは、短く息を吐いた。


「……あの少年は?」


問いは短い。

言葉として出たのは単なる「問い」としての形式と抑制が含まれていたが、その裏に含まれる意味は重い。


カシアンは即答する。


「保護します」


迷いはない。


「彼は、我々の研究に於いて重要な「試験体」です」


その言葉に嘘はない。

少なくとも、今は。


だが同時にすべてを語っていないことも、はっきりと分かった。



ゼンは、わずかに眉をひそめた。


感情の揺れというほど大きなものではない。

だがカシアンの口から発せられた「試験体」という単語が、彼の内部で確実に引っかかっていた。


「……試験体、だと?」


声は低く、荒れてはいない。

しかしそこには、単なる確認以上の重みがあった。


ゼンの視線はすでに閉じた《隔絶回廊》のあった地点へと向けられている。

そこには霜と冷気だけが残り、白狼だったものの気配は完全に“結界”の中へと転送されていた。


――あの少年。


人としての輪郭を保っていた時間は、あまりにも短かった。

ただその奥底から立ち上ってきたものは、ゼンにとって決して見過ごせる類の現象ではない。


魔神。


そう呼ばれる存在の気配。

それも、単なる模倣や歪んだ残滓ではない。

“触れてはいけない層”に確かに接続していた。


(……実験という軽い言葉で済む話じゃない)


ゼンは自分の胸の奥で、別の存在が微かにざわめくのを感じていた。

それは感情ではない。

恐怖でも、怒りでもない。


――警告だ。


自らの体内に巣食う、“あの存在”。

魔神ヴァル・ゼルグの魂核。


それがまるで同族の痕跡を嗅ぎ取ったかのように、静かに意識の縁を叩いている。


魔神族が世界に何をもたらすか。

それを、ゼンは誰よりも知っている。


奴らは世界の因果をねじ曲げ、意味を剥ぎ取り、悲惨な結果だけを残す。

それが人々や社会にとってどれほど害をなし恐ろしい存在であるかを、身をもって理解している。


「……お前の言う“研究”とやらが、どこまで踏み込んでいるのかは知らん」


ゼンはゆっくりと言葉を選ぶ。


「だが、あの少年の中にあったものは、日常の延長で扱える類じゃない。

軽々しく“試す”なんて言葉を使っていいものでもない」


カシアンはその言葉を遮らない。

むしろ、少しだけ声を落として応じた。


「ええ。ですから――そう身構えないでください」


囁くような声音だった。

説得でも命令でもない。

相手の警戒を刺激しない、計算された距離感。


「あなたが想像しているような、魔神族の復活や解放を狙っているわけではありません」


ゼンが視線を向けると、カシアンは静かに続ける。


「今回の件は、あくまでデモンストレーションです」


その言葉に、ゼンの目がわずかに細まった。


「……デモンストレーション?」


「ええ。

本物の零位核を持つあなたと、擬似的に再現された零位模倣核。

その二つが同一の“境界条件”で接触した場合、位相がどこまで揺らぐのか」


カシアンはまるで既知の理論を説明するかのように、淡々と言う。


「結果は、ご覧の通りです。

原相は引き出され、しかも完全な崩壊には至らなかった」


彼の視線が、閉じた空間の残滓へと戻る。


「これは非常に重要な成果です。

魔神化が、単なる不可逆の変質ではなく――管理可能な“状態遷移”である可能性を示した」


ゼンの中で、何かが冷たく沈んだ。


(……管理、だと)


魔神を。

人の内側から引きずり出された、あの原相を。


管理できると、彼は言った。


「……正気か?」


ゼンの声には、はっきりとした苛立ちが混じった。


「それがどれだけ危険な橋か、お前が分からないはずがない。

魔神族は、制御できる存在じゃない」


その瞬間だった。


カシアンが、ほんのわずかに口元を緩めた。


笑みと呼ぶには薄く、だが確かに“不敵”と呼ぶしかない表情。


「だからこそ、です」


彼は一歩、ゼンに近づく。

侵入ではない。

だが、意図的に距離を詰めた。


「あなたの本当の“役割”は、これからなのです」


その言葉に、ゼンの意識が鋭く反応した。


「……役割?」


「ええ」


カシアンの声は穏やかなままだ。

だが、その内側にある確信は揺るぎがない。


「あなたは、すでに答えを持っている。

魔神の魂核を内包しながら、それでも“崩れなかった”唯一の事例」


ゼンの胸の奥で、何かが重く鳴った。


「封じられた存在。

同時に、再現不能とされてきた“成功例”」


ゼンは無意識のうちに拳を握っていた。


「……ずいぶん勝手な評価だ」


低く唸るような声。


「俺は誰かの実験のために生き延びてきたわけじゃない」


「承知しています」


カシアンは即座に頷いた。


「だからこそ、あなたには“選択”を与えるべきだと考えていました」


その言葉に、ゼンはわずかに違和感を覚える。


――選択?


「ですが」


カシアンは、次の言葉をあまりにも静かに告げた。


「あなたに選択肢がないと言ったのは、帝国がすでにあなたを“捕縛対象”として正式に認定し、部隊の派遣を要請しているからです」


空気が、はっきりと変わった。


冷気でも圧でもない。

ただ、世界の“前提”が切り替わった感触。


ゼンの呼吸が、ほんの一拍遅れる。


「……捕縛、だと?」


問い返しながらも、驚きはなかった。

むしろどこかで予感していた答えだ。


カシアンは頷く。


「はい。

生かしたまま、隔離する。

それが、枢機院と元老院が下した結論です」


淡々とした口調。

そこに悪意は感じられない。


だからこそ、なおさら冷酷だった。


「ですから、先ほどの対話は交渉ではありません。

確認です」


ゼンの脳裏に、いくつもの断片が一気に繋がる。


灰庵亭への訪問。

ラグナの配置。

紫影兵団の待機。


――すべて、最初から決まっていた。


「……なるほどな」


ゼンは、乾いた笑いを漏らした。


「俺がどう答えようが、結論は変わらなかったってわけか」


「ええ」


カシアンは否定しない。


「ただし」


彼は、わずかに言葉を切る。


「“どう従うか”は、あなた次第です」


ゼンは、ゆっくりと視線を上げた。


目の前に立つ王子は、敵ではない。

味方でもない。


帝国の影を束ねる1人の為政者であり、権力者だ。


世界を、――そして人を「構造」として扱う存在。


「……ずいぶんと、歪んだ親切心だな」


ゼンの声は静かだった。

だがその奥には、確かな決意が芽生え始めていた。


カシアンは、再び微笑まない。


ただ、静かにこう告げる。


「歪んでいなければ、世界は変えられません」


その言葉を境に、

ゼンは理解した。


この場で戦う意味はない。

逃げる意味も、まだない。


だが――

帝国が“管理しようとしている世界”に、従う気もない。


境界に立つ者として。

通す者として。


ゼン・アルヴァリードは、次に選ぶべき“問いの答え”を静かに探し始めていた。

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