表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
206/333

第149話 白狼(ホワイト・ファング)


挿絵(By みてみん)





──────────────────────



――記録映像は、白かった。


帝国深層魔導研究所、禁秘区画第三層。

ここでは光源の色温度すら規定されている。

影は生じない。

陰影が生まれるという事実そのものが、

観測に不要な「意味」を付与するからだ。


壁、床、天井。

すべてが同一の白で統一され、

距離感と時間感覚は意図的に奪われている。


この場所で重要なのは、

人間の感覚ではなく――

数値と構造だけだった。


中央制御卓の前で、カシアンは端末を操作していた。

脳波、心拍、霊素反応。

どの指標にも、感情の揺らぎは現れていない。


彼にとってこれは「期待」ではない。

ましてや希望でもない。


――単なる検証だ。


魔神化という現象が、

果たして「成立し得る構造なのか」。

それを、可能性ではなく必然として確認する作業。


タイプ=ゼロ計画の最深部に置かれた問いは極めて単純で、同時に非常に繊細な問題を取り扱うための重要な科学的実践だった。


人間は、

魔神族の位相に“触れたまま”

壊れずに戻ってこられるのか。


スクリーンに映し出されるのは、

ユノ・グレイアの生体記録。


魔導院在籍時の身体データ。

氷術行使時の霊素波形。

感情変動と魔力出力の相関グラフ。


そして――

《Pseudo-Null Core》を埋め込んだ直後の、

異常なまでの乱高下。


波形は崩れている。

だが、破綻していない。


「……壊れないな」


カシアンはそう呟いた。


それは称賛ではなかった。

ましてや驚きでもない。


「条件」を満たしている。

ただそれだけの確認だ。


魔神族細胞は、負位相に極端に偏る。

零位核は、あまりにも中立すぎる。


負と零。

破壊と無化。


この二つを直結すれば、

どちらかが必ず崩れる。


ならば――

その間に、何を置くべきか。


カシアンの視線が、

数値から一瞬だけ外れた。



人間だ。



感情を持つ。

恐怖を知る。

合理よりも衝動で踏み出す。


不完全で矛盾していて、

それでも生き延びるために前へ進む存在。


人間とは、

位相的に見れば常に“揺らぎ”を内包した存在だ。


その揺らぎこそが、

零位と負位相の間に挟まる

緩衝層として機能し得る。


ここでカシアンはひとつの仮説に行き当たる。


魔神化とは、

力の増幅でも、人格の上書きでもない。


――位相の転移現象だ、と。


人間が自らの最深部に存在する「原初の自己像」と接触したとき、魔神族細胞は初めて“宿主の意味”を得る。


それは外部から与えられる形ではない。

内側から引き出される構造。


人格よりも古く、倫理よりも先に存在する生存のための最小単位。


カシアンは、それを

原相プロト・フェイズ

と名付けた。


重要なのは、

原相に具体的な形を想定しないことだった。


それは獣かもしれない。

無機物かもしれない。

あるいは、概念に近い何かかもしれない。


形は結果であって、前提ではない。


ユノのデータを見て、

後から“それ”が氷を纏う白狼に見えただけだ。


群れを欲し、

孤立を恐れ、

追い詰められた時ほど前へ出る。


だがそれは人間という種が内包する

無数の原相の一例に過ぎない。


カシアンは研究ログに、慎重にこう記した。


《原相仮説:Individual Proto-Phase》


――個体固有原相仮説。


魔神化とは変身ではない。

人格の暴走でもない。


人間が持つ最も深い層――

生きるために削ぎ落とされた

“核”に触れる現象だ。


そして今。


その仮説は実験室ではなく、戦場という最も純粋な環境で検証されようとしている。


人は死と隣り合わせになった時、最も自分らしい姿を晒す。


カシアンは画面を見つめたまま、ほんの僅かに口角を上げた。


結果は、もうすぐ出る。


それが人類にとって

福音か、

それとも破滅か――


その判断は、

この先に委ねられる。




──────────────────────




砕けた石畳の上に、淡い霜が降り始めていた。


冷気ではない。

温度低下とも異なる。


空気そのものが、速度を失っていく。


風は吹いているはずだった。

だが、動いているという実感がない。

音は届くのに、方向が定まらない。


世界がどこかで噛み合わなくなり始めている。


ゼンはその違和感を「皮膚」ではなく、

もっと内側――

長年、境界に立ち続けてきた者だけが持つ“位置感覚”の内側なかで捉えていた。


(……沈んでいる)


沈下だ。

圧迫ではない。

侵食でもない。


世界全体の空間構造が、わずかに基準面を下げている。


魔力の増大では説明できない。

術式の展開でもない。

場の書き換えですらない。


それでも確かに、

ここにある「前提」が静かに組み替えられている。



その中心に、ユノがいた。



少年は立っている。

だが姿勢は、もはや「戦闘準備」のそれではない。


重心が落ちていない。

力も溜めていない。


――代わりに、力を促すための〈逃げ場〉が消えている。


周囲の空間が彼を中心にして“閉じ始めていた”。


呼吸が、止まる。


正確には呼吸という行為が「必要でなくなっていく」。


胸郭は動いているのに、空気の出入りが意味を持たない。


ユノの擬似零位核が、外部への補正を段階的に切断していく。


ゼンはその様子を“見て”いない。


見えているのは、魔力の流れでも霊素の分布でもない。


――接続方向だ。


これまでユノの核は常に外界と照合を行っていた。


場の基準。

ラグナの順序制御。

ゼンの干渉点。


それらに合わせて自分を“最適な形”へ寄せ続けていた。


だが今――

その照合が内側へ折り返されている。


(……向きが、逆だ)


ゼンの喉が無意識に鳴った。


これは暴走ではない。

制御喪失でもない。


むしろ逆だ。


――制御を外す準備。


人が人であるために必要な魔導核との結合、そしてそれに付随する「外界との整合」を、一つずつ解除していく工程。



ユノの背筋が、わずかに反る。


筋肉が膨らむわけではない。

力感も増していない。


だが、骨格の構造とその構成元素の“意味”が変わる。


二足で立つための配置から前方へ落ちるための配列へ。


それは「攻撃姿勢」ではない。



――物質が物質たらしめる、「存在」が「存在」たらしめる“変化”の前段。



髪が揺れる。


風に煽られたわけではない。

身体とその繊維の内側から、霊素を含んだまま「形」を変えようとしている。


白い粒子が、空中に舞う。


氷ではない。

結晶でもない。


“凍る可能性”だけを含んだ、未定義の霊素片。


それらが周囲の水分を凍らせる前に、「凍結した」という結果だけが先に空間へ書き込まれていく。


冷気が、遅れて追いつく。


帳尻合わせのように。

まるで世界の側が、

事後処理をしているかのように。


ゼンの背中を久しく忘れていた感覚が走る。


(……これは)


展開術式ではない。


展開術式は術者の内的世界を“法則として提示”する技だ。


だが、これは違う。


法則を示していない。

世界観も押し付けていない。


ただ、

存在の前提そのものがズレている。


耳鳴りがした。


音ではない。

周囲が静まったわけでもない。


“基準音”が、失われた感覚。


距離感が曖昧になる。

高さも、奥行きも、

数値として把握できなくなる。


代わりに浮かび上がるのは、

単純すぎる判断基準。


――届くか。

――届かないか。


それだけ。


ゼンは、無意識のうちにその“存在”の気配を察知し理解してしまった。


(……魔神…?)


直接その存在に対する意識を言葉にしようとした瞬間、その語が持つ意味の浅さに気づく。


変身ではない。

強化でもない。


これは、

原相への接触。


理性よりも古く、倫理よりも前に存在する生存のための“最小単位”。


それに触れた結果として、たまたま“獣の形”が現れるだけ。


その変化の果てにある「狼」という姿は、単なる象徴でしかない。


ゼンの視線の先でユノの影が揺れる。


影が動いたのではない。

影を成立させていた

「光と物体の関係」が、

わずかに解けた。


――境界が、薄くなっている。


世界と個の間にあった見えない膜が、

今、確実に剥がれ落ちつつあった。


ゼンは、静かに息を吐く。


これは、まだ“始まり”ですらない。


だがこの一線を越えれば、もう人の理では戻れなくなる。


(……なるほど)


あの王子がこの瞬間を観測したがる理由が、ようやく腑に落ちた気がした。




■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■


世界が、一度だけ――

黙った。


■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■




音が消えたわけではない。

振動が止んだわけでもない。


ただ、それまで「世界として成立していた連続性」が、一拍分だけ途切れた。


瞬断。


雷鳴の前でも、

爆発の前でもない。


それは、

定義が切り替わる瞬間にだけ起こる沈黙だった。


ユノの身体から熱が失われる。


冷却ではない。

氷結でもない。


「温度」という概念が、彼の周囲から剥離していく。


空気は冷たいはずなのに、冷たさを感じさせない。


触れれば凍る。

だが、その凍結は「そうなったからそうなっている」だけで、原因と結果の順序がもはや意味を持たない。


ゼンはわずかに目を細めた。



(……空間が、追いついていない)



理解が遅れているのは人間の感覚ではない。


世界そのものだ。


ユノの擬似零位核が完全に外部との照合を断つ。


ラグナの順序制御も、

ゼンの干渉点も、

もはや「参照対象」に入っていない。


核は今、

宿主の内側だけを見ている。


――正確には、

「宿主ですらないもの」を。



ユノの背骨が、静かに鳴った。


音ではない。

骨が擦れたわけでも、

筋肉が引き攣ったわけでもない。


配列が変わった音。


直立を前提とした湾曲がほどけ、前傾を許容する角度へと移行する。


それは進化ではない。

変異でもない。


ただ、“人である必要がなくなった”姿勢。



髪が伸びる。



一本ずつ、

時間差もなく、

意志もなく。


白い霊素を孕みながら、空間を裂くように広がっていく。


鬣。


そう呼ぶしかない形状が、結果として成立する。


だがそれは獣になろうとしたからではない。


――“人ならざるものの姿”である方が、この原相を保持しやすかっただけだ。


耳が持ち上がる。


頭部の側面ではない。

やや後方、捕捉と方向判定に特化した位置。


淡い水色。

内部を走る氷晶の筋は音を“聞く”ためではない。


音になる前の振動を拾うための構造であり、爆発的な膂力を上昇させるための身体変化だ。


剥き出しの魔力を押し込めたような氷の結晶が、まだ幼い少年の指の先から立ち上がる。


黒い結晶として成長したその鋭い「爪」は、皮膚を破ることなく内側から押し出されていく。


それは装甲ではない。

武装でもない。


「掴む」

「裂く」

「止める」


そのどれにも特化していない。


――ただ、

そういう行為を“躊躇なく選べる前提”。



歯列が変わる。


犬歯が伸び、呼気に混じる霊素が白い尾を引く。


笑みは、消えない。


だがそこにあるのは感情ではない。


捕食者の愉悦でも、

闘争本能でもない。


――世界を測るための表情。


ゼンの視界が、歪む。


距離がメートルでも歩数でもなくなる。


「届くか」

「届かないか」


その二択に、

すべてが圧縮される。



――次第に、少年の持っていた“存在”の輪郭が曖昧になった。


皮膚と外気の境界がぼやけ、

肉体という概念が一段薄くなる。


代わりに浮かび上がるのは氷結した質量。


肩から背中にかけて、淡く白い結晶層が生まれる。

それは鎧のように外側を覆うのではなく、筋繊維と骨格の“配置そのもの”に浸透していく。


筋肉が盛り上がることはない。

体積も増えない。


ただ――

密度だけが異常に高まる。


体表を走る氷晶の筋は装飾ではない。

それは冷却経路であり、同時に力を逃がさないための拘束構造だ。


関節部には霜が集まり、

可動域を制限するのではなく、

“動くべき方向”だけを残す。


膝。

足首。

肩。

首。


すべてが、人間の運動学から外れていく。


体毛は生えない。

毛皮も形成されない。


代わりに、皮膚表面に極薄の氷膜が張り付く。


反射しない。

輝かない。


ただ外界の衝撃と温度を“事実として処理する”ための層。


胸郭が、わずかに拡張する。


呼吸のためではない。

魔力循環のためでもない。


心臓の拍動と擬似零位核の周期を、完全に同期させるための空間。


その中心で鼓動がひとつ、――落ちる。


心臓が跳ねる音ではない。

カウントが進む音。


ユノという個体が“いま何であるか”を、世界が探る音。


詠唱はない。


言葉による宣言もない。


代わりに、

存在そのものが――

状態を名乗った。




━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


《魔神化・原相解放》


  ――《白狼位相ハウンド・オブ・フロスト》》


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━



名は、呼ばれない。

だが、世界はそれを受理する。


氷の狼が、そこにいる。


二足ではない。

四足でもない。


“移動という概念”がすでに別の形式へ移行している。


重心は低い。

だが地面に縛られていない。


床を踏んでいるのに、

床に乗っていない。


存在がわずかに“前へ落ちている”。


それだけで空間が一歩、譲る。


氷が軋む音が遅れて響く。

それは結果であって、原因ではない。


原因はすでに――

そこに立っている。


原相が、

物質として定着した。


獣の姿はただの翻訳結果だ。


人の形ではこの位相を保持できなかっただけ。




威嚇もしない。

唸りもしない。




顕現された白狼は前脚に静かに体重を預ける。


それは跳躍の予備動作ではない。



――落下の準備。



次の瞬間、という概念が消える。


動作は分解されず、

連続もせず、

ひとつの確定的な“事象”として成立する。


空間が裂けたのではない。


空間の方が、白狼の存在を通すために道を空けた。


氷が生まれる前に、「氷だった」という結果がすでに配置されている。


原相への接触が、現実側に露出した状態。



それが、魔神化と呼ばれる現象だった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ