第145話 固定された座標
──────────────────────
帝国において「神聖魔導兵団」という名は、
軍事組織である以前に――政治的な禁句だった。
その名を軽々しく口にすることは、
国家の力学そのものに触れることを意味する。
帝国魔導師団が「国家の剣」だとすれば、
神聖魔導兵団は「王権の影」である。
公文書に記される任務は、
神殿の護衛、宗教儀礼の警備、異端の鎮圧。
だが、それは建前に過ぎない。
実態は、
王宮と神殿が“自らの権力を守るためだけに保持する軍事・諜報装置”。
行政院にも、枢機院にも属さない。
帝国法の外側にあり、宗教法によってのみ行動を正当化される異質な存在。
つまり――
三権分立という国家の枠組みから逸脱した、例外の武力。
その存在自体がルミナスという国家が内包する歪みを象徴していた。
神聖魔導兵団は、七つの影に分かれている。
光、火、水、風、雷、闇、そして封印。
彼らはそれぞれ属性の名を冠しているが、実態は単なる属性部隊ではない。
それぞれが、ひとつの戦術思想そのものを体現する独立軍団だ。
彼らは連携する。
だが、決して混ざらない。
共闘はするが、思想は共有しない。
それぞれが異なる「勝利の定義」を持ち、異なる「戦争の終わらせ方」を選ぶ。
白影は秩序を名乗る。
それは正義ではない。
合法性という名の免罪符を振りかざし、王権の意思を「神の裁定」として実行する存在だ。
赤影は威圧を示す。
圧倒的な破壊力によって敵意そのものを挫き、
抵抗という選択肢を消し去る。
青影は救済を装う。
守るために戦い、
癒すために焼き、
結果として、最も多くの「従属」を生み出す。
緑影は空を掌握する。
高所、速度、視界。
戦場の“上”を取ることで、
地上の戦いを無意味にする。
黄影は技術を握る。
魔導核、人工魔導兵、零位種、神性干渉体。
世界の「次」を作る研究は、すべて彼らの管轄下にある。
黒影は影に溶ける。
彼らは人を消さない。
消すのは、因果だ。
記録、記憶、痕跡――
存在したという事実そのものを、世界から剥ぎ取る。
紫影は沈黙する。
語らず、主張せず、名乗らない。
ただ、世界に生じた綻びを、音もなく封じる。
これら七影は、
帝国魔導師団の戦力評価基準では測れない。
なぜなら彼らは、
「勝つために戦う」存在ではないからだ。
神聖魔導兵団の戦闘思想は、一貫している。
――結果を、先に確定させる。
敵を倒すのではない。
敵が「倒されるべき存在である」という結論を、
政治的に、宗教的に、戦術的に先に置く。
その上で、
現実をそこへ辿り着かせる。
だから彼らの戦いは、往々にして戦闘とは呼ばれない。
反乱は「鎮圧された」のではなく、
「存在しなかったこと」になる。
異端は「排除された」のではなく、
「最初から異端であった」と記録される。
この兵団が恐れられる理由は、単純な戦闘力の高さではない。
彼らは戦場を、政治と宗教の延長線上に配置する。
敵対者は剣を抜く前に敗北している。
なぜならその戦いは、すでに「勝敗が決まった儀式」として設計されているからだ。
特に白影と黒影は異質だった。
白影は、合法的な暴力を担う。
異端認定という名の裁定を下し、
国家の意思を“神の声”として執行する。
黒影は、痕跡を消す。
人ではない。
因果と記憶と歴史を、静かに抹消する。
そして――黄影。
彼らは戦わない。
だが、最も多くの戦争を生み出す。
世界に新しい力を与え、
それを制御できる者と、できない者を分ける。
争いが起きる前に、
争いの条件を用意する存在。
神聖魔導兵団が戦場に現れるとき、それは単なる武力衝突ではない。
そこには必ず、
国家の意思があり、
宗教の正義があり、
政治的な決着が伴う。
だから帝国魔導師団は、彼らを真正面から敵に回すことを避ける。
勝てないからではない。
勝っても、何も残らないからだ。
そして――
その神聖魔導兵団の中でも、
ひときわ異様な存在感を放つ者がいる。
七影のいずれにも属しながら、
同時に、七影の外側に立つ者。
戦場で剣を振るわず、
それでいて戦局を決定づける存在。
力で押さえ込むのではない。
配置と順序で、世界を組み替える者。
場を操作し、
因果を整え、
結果を“当然のもの”として落とし込む。
神聖魔導兵団が
「結果を先に置く組織」だとするなら――
その中で彼は、
結果へ至る順序そのものを管理する者だった。
彼の術式は派手ではない。
光も雷も纏わない。
だが、彼が動いた瞬間、
戦場は「戦い」ではなく、
解くべき問題として再定義される。
力の優劣ではない。
配置の正しさで、勝敗が決まる。
その名を知る者は、
口を揃えてこう言う。
――彼が来た時点で、
戦いはもう始まっていない。
それはすでに、
解かれるべき数式になっているのだ、と。
そして今。
この場にもその「順序を組む気配」が、静かに降りてきていた。
──────────────────────
空間は、まだ壊れてはいなかった。
瓦礫も霜も、床も梁も、確かにそこに在る。
物理的な破壊は最小限で、視界に映るものだけを見ればこれはただの乱戦の痕跡に過ぎない。
だが――
場は、すでに戦場ではなかった。
ゼンの足元で霜が音もなく溶けきる。
水になるでもなく、蒸気になるでもなく、
ただ「氷として振る舞う理由」を失って床に吸い込まれていく。
冷気はまだある。
魔力も、確かに漂っている。
それでも、もはや何も主張していない。
力がそこに在るのに、意味が追いついていない。
ユノは動けずにいた。
身体が止まっているのではない。
思考が凍っているわけでもない。
ただ――
次の一手が、どこへ繋がるのか分からなくなっていた。
踏み出せば、何が起きる?
殴れば、どうなる?
避ければ、結果は?
その「対応表」が、丸ごと白紙に戻されている。
世界が彼に答えなくなっていた。
ゼンはその中心に立っていた。
構えもなく、威圧もなく、敵意すら見せず。
ただ、「境界」として存在している。
魔力が生まれ、
意味を与えられ、
結果として現象になる――
その「手前」に。
だからこの場では、行動は結果を約束しない。
攻撃は成功も失敗もせず、
防御は意味を持たず、
距離は遠くも近くもない。
すべてが「未確定」のまま、宙吊りになっている。
――本来なら。
この時点で、戦いは終わっていたはずだった。
一方が完全に主導権を握り、
もう一方が理解不能に沈み、
結果だけが静かに落ちる。
だが。
空気の奥で、別の歯車が噛み合い始めた。
それは衝撃ではない。
圧力でもない。
魔力濃度の上昇ですらない。
もっと冷たい。
もっと無機質な感触。
例えるなら――
散らばっていた数式の項が誰かの手で静かに揃えられていく感覚。
順序が、整えられる。
結果が、再び先に置かれようとする。
空間の“揺らぎ”が減っていく。
未確定だった可能性がひとつずつ折り畳まれ、
「起こり得ること」と「起こらないこと」が選別されていく。
(……固定が始まっている)
空気が、均されていく。
破壊された壁の隙間を抜けていた冷気が止まり、霜と水と土埃があるべき位置に静かに収まり始めた。
戻ったわけではない。
むしろ逆だ。
動きすぎていたものが抑え込まれた。
ゼンの足裏に伝わる感触が変わる。
これまで彼が感じていたのは、
場が常に「選択肢を開いたまま」揺れている状態だった。
踏み込めば、通る。
通せば、流れる。
流れれば、結果は後から追いつく。
だが今――
踏み込めるが、通らない。
床は確かにそこにある。
重量も、摩擦も、物理法則も失われていない。
それでも、「次の動作へ繋がる感触」だけが妙に薄い。
ゼンは即座に理解した。
力を止めるための固定ではない。
魔力を遮断するための結界でもない。
順序を縛るための固定。
原因と結果の距離を、これ以上伸ばさせないための処置。
視界の端で瓦礫の影が微かに揺れた。
影が伸びたわけではない。
光源が変わったわけでもない。
ただ、影が「動く余地」を失っている。
霊素の流れはまだある。
氷属性も灰式の通路も、消えてはいない。
だがそれらは今、
“予定された範囲”から外へ出られなくなっている。
これは個人の術式ではない。
一人の魔導士が即興で組める規模ではない。
場そのものに、事前に打ち込まれた前提条件が浮かび上がってきている。
地面の奥。
建屋の基礎。
空間の重なり。
複数の“点”が、すでに存在していたかのように呼応し始める。
魔力が集まる前に。
意思が動く前に。
結果が決まるよりも前に。
――座標が、確定し始めている。
空間が、止まった。
正確には――
止まる準備を終えた。
音が消えたわけではない。
風も、霊素も、重力も存在している。
ただそれらが「これ以上の自由を持たない状態」に揃えられた。
地面の奥で、低い抵抗音が走る。
岩盤が軋む音ではない。
術式が展開される際に生じる、あの誇張された共鳴とも違う。
それは、位置が確定する音だった。
空間の数点で、微かな違和感が同時に立ち上がる。
建屋の基礎。
砕けた壁の残骸。
地表に残った霜の縁。
それぞれが偶然の配置に見えて、
すでに「杭を打ち込まれる前提の点」として存在していたかのように――
わずかに沈む。
空間が揃った――
その“揃い方”が、あまりにも異常だった。
霧はまだ漂っている。
霜も、瓦礫も、砕けた梁も、風に運ばれる土埃も、すべてが「そこにある」。
何ひとつ消えていない。
何ひとつ壊されてもいない。
それなのに、それらすべてが――
一枚の図面に押し広げられたように“同じ規則”で扱われ始めていた。
高低差も、歪みも、偶然の偏りも、
すべてが「測定可能な値」として並べ替えられていく。
余白ですら、余白として固定される。
ゼンは皮膚で理解した。
――これは“圧”ではない。
――秩序だ。
ゼンは境界に立ったまま動かない。
いや、正確には――
動けないわけではない。
足は動く。
呼吸もできる。
魔力も、確かに流れている。
だが“動いた結果”が、わずかずつ変質していく。
行動が結果に繋がるまでの経路が一本ずつ削られ、
選択肢が「消える」のではなく“折り畳まれて”いく。
ユノが半歩、後退する。
確かに引いた。確かに距離を取った。
だが、距離は増えなかった。
増えないのではない。
距離という値そのものの“自由度”が削られている。
遠くなれる余地が、世界から取り除かれていく。
ユノの背中を言語化できない寒気が撫でた。
その中心に、
暗赤色の外套を纏った男が立っていた。
彼は呼吸を整えない。
構えも取らない。
視線を鋭くすることすらしない。
戦場に立つ者が無意識に行う、あらゆる“準備動作”を彼はしない。
ただ、腰のあたりへ静かに手をやり――
一本、位相固定杭を引き抜いた。
金属音は、しなかった。
代わりに、地面の奥底で
「カチ」
と、乾いた応答が返る。
刺さったのではない。
“刺さったことにされた”。
彼は次の杭を抜く。
三本目。五本目。
配置は無造作に見える。
だが、それでいい。
杭は“点”を打つものではない。
点と点の関係性を、地面に書き込むための道具だ。
角度。
距離。
相互干渉。
それらを、世界の側に記憶させる。
――そして、最後の一本。
彼はそれを掌中で一度転がし、
確かめるように指を離した。
杭は落下しない。
宙で止まり、わずかに沈み、
空間の裏側へと――定着する。
その瞬間だった。
ゼンの足裏が、いきなり重くなる。
重力が増したわけではない。
地面が硬化したわけでもない。
「そこに立つ」という状態が、一つの確定条件として固定された。
逃げ場がなくなったのではない。
逃げることも動くことも、依然として可能だ。
だが――
逃げた場合に起きるべき「結果」が、先に処理されてしまう。
結果が先に置かれ、そこへ至る経路だけが許可される。
彼が、短く言う。
「――連結」
それは号令ですらなかった。
命令というより、確認に近い。
その一言で、赤影兵団の気配が一斉に揃う。
詠唱はない。
陣名を叫ぶ声もない。
ただ杭に内蔵されていた“陣の起点”が同時に応答し、
地面の下で線が走った。
見えない線だ。
だが、霜がそれを裏切らない。
床に張り付いていた霜が、円弧を描くように薄く割れ、瓦礫の影が一瞬だけ同じ方向へ倒れ、舞っていた火の粉の軌道が途中で不自然に折れ曲がる。
円弧。
交差。
閉環。
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
“空間が固定される”
■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■
世界が、
図形になっていく。
座標が与えられ、
範囲が定義され、
許容値が設定される。
術式を発動させた男はゼンを見ない。
見ているのは、
ゼン・アルヴァリードという存在が成立させ得る
すべての可能性の束だ。
その上で、彼は掌をわずかに下げた。
合図にもならない、小さな動作。
「交差せよ、静止の軌――」
────────────────────────
【展開術式】
《位相固定陣》
────────────────────────
地面が、鳴いた。
ドン、ではない。
ズン、でもない。
それは――
沈黙が落ちる音だった。
空間の流動が、鈍る。
魔力は消えていない。
霊素も確かにそこにある。
だがそれらは今、
“決められた流れ方”しかできなくなっている。
ゼンの内側で灰式が反応しかける。
いつもなら接触点を作り、通し、流し、意味をずらす。
だが今は違う。
接触点が作られるその“前段階”で、
接触の形そのものが固定されている。
灰式は無効化されていない。
否定も遮断もされていない。
――ただ。
最大効率で、通せない。
“通した先”が先に定義され、先に閉じられていく。
ゼンは、初めて理解する。
これは妨害ではない。
対抗でもない。
管理だ。
世界を壊さず、
現象を否定せず、
ただ――順序を縛る。
外套の男、――ラグナ・ヴェルクハイトは、
ゼンを倒しに来たのではない。
彼はゼンが“境界であり続ける時間”を終わらせに来たのだ。
そして今戦場は静かに、
「次の段階」へと押し込まれていく。
ゼンはゆっくりと息を吐いた。
――境界の先。
――“場”そのものと向き合う地点へ。




