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第144話 Shatterpoint(5)



ゼンは、拳を構えなかった。

腰を落とすことも視線を鋭くすることもなく、平然とそこに佇んでいる。


その立ち方は休息のそれではなかった。

両足の裏が床に触れる接地面積は最小限に抑えられ、踵と母趾球の間で重心が静かに循環している。

力を溜めているわけではない。

逃がしているのでもない。

身体の内側で、重さと位置だけが絶えず更新され続けていた。


呼吸は深く、遅い。

吸う息と吐く息の境目が曖昧で、どちらが主導なのか判別できない。

肺が空気を取り込んでいるのではなく、空気が自然と肺の形に収まっていくような感覚。

呼吸が「行為」ではなく、「状態」になっている。


ユノが動いた。

踏み込みの初動。

筋肉が収縮し、氷属性魔力が反応し、床の霜が再び結晶化を始める。


そのすべてを、ゼンは“見ていない”。


視線はユノに向いているが、意識はそこにない。

彼が見ているのはユノの身体でも、魔力でもない。

それらが「そうである」と定義される、ほんの直前の層――

行動が行動になる前の、未確定の揺らぎだ。


ユノの足が床を離れる。

踏み込みの力点が前方へ移動し、重心が攻撃の軌道へと投げ出される。

その瞬間ゼンは半歩、――横へ移動した。


速くはない。

回避とも呼べない。

ただ、そこに居なくなるだけの“最小”のステップ。


攻撃の軌道がズレたのではない。

攻撃が成立するための「対象」が、先に消えた。


拳が振り抜かれる。

空を切る音。

狙いが外れたように見えるが、それは失敗ではない。

ユノの動きは正確で、速度も十分だった。


問題は、ゼンが“そこにいなかった”ことではない。

ゼンが“その位置に存在する理由を持っていなかった”ことだ。


ゼンの身体は攻撃が通過する空間と“同じ速度と同じ意味のなさ”で、そこに在った。

衝撃がぶつかるべき「境界」が存在しない。

だから衝突は起きない。


ゼンの軸が傾いだ。


次元の綻びを縫うように“解像度を変えながら”揺れる身体。


踏み込みの意志がないにもかかわらず、体重が抜けたその瞬間に重心は自然と前方へ滑り落ちていく。

膝が折れ、足裏が吸いつくように苔を捉える。

わずかな沈み込みの反作用が、脊椎を伝って肩甲骨へと波打つ。


動作は直線的ではなかった。

軌道はわずかに右へ旋回し、身体はユノの死角に沿って斜めに移動する。

空間を切り裂くのではなく、“巻き取る”ような進行。

まるで前方の空気が彼を引き寄せているかのように。


足は踏むのではなく、“落ちる”。

脚は運ぶのではなく、“導かれる”。

すべてが線で繋がり、面として展開し、ゼンの身体が空間に深度を持って“沈む”。


そこに音はなかった。

動きそのものが、空間の厚みを滑らせるようだった。


ユノの視界が一瞬、揺れる。

距離が縮まったのではない。

縮まったと“認識する理由”が消えた。


ゼンの肩がわずかに動く。

腕は振られない。

拳も出ない。


だが、ユノの身体が軋む。


衝突はない。

それでも内側から押し上げるような圧が掛かる。


皮膚の下、筋繊維の一本一本が逆方向へ引き伸ばされていく。

関節が噛み合わず、骨と骨の間に僅かな“遊び”が生まれる。

踏み締めているはずの床との接点が急に信用できなくなる、――一拍。


体内を巡っていた魔力が、流れを失った。

前へ出るために集めたはずの力がゼンの立つ位置を避けるように湾曲し、行き場を探して内部で渦を巻く。


押し返されているわけではない。

止められてもいない。


ただ、進もうとした運動が途中で“意味を失う”。


それはゼンが触れたからではない。

力を加えたからでもない。


ゼンが“そこに在る”という事実そのものが、ユノの身体に設定されていた運動の続きを成立させなかった。


魔力は意味を持つ前に“通り道”を探す。

ゼンはその通り道そのものになっている。

だから魔力は彼を避けることも、押し退けることもできない。


通るしかない。


だが通った先に「結果」がない。


ユノの身体が半歩、よろめく。

踏ん張りが効かない。

床が滑るわけではない。

力が抜けたわけでもない。


ただ、自分の動作が“次の結果”へ繋がっていかない。


ゼンはなおも動かない。

ただ、ごくわずかに重心が下がっただけだった。

足裏が床を捉え直し、指の関節が微かに締まる。


それは攻撃の準備ではない。

“受け”ですらない。


ただその場に在りながら、空間の張力を保ち直すような立ち位置だった。


しかし、それで十分だった。

ユノの動きは時間の流れとともに確実に“削がれて”いく。

打ち出そうとした力の伝達経路が、ゼンの身体を前にすると微細に揺らぎ、分断される。

筋出力が収束せず、拳に集まるはずの質量が拡散する。

氷の収束点がぶれ、打撃として結実するはずの圧が宙で失速する。


戦っているのはゼンではない。

戦場そのものが、彼を中心に組み替えられている。


ゼンは理解している。

この状態は長く続かない。

自分が境界であり続ける限り、必ず次の干渉が来る。


だが今は、それでいい。


次に通すべき流れは、もう定まっている。

次に触れるべき発火点も、はっきりと見えている。


だからゼンは、“あえて”動かない。


境界として、

――ただ、そこに在り続けることで。



ユノが理解できなかったのは、自分の攻撃が通らなくなった理由ではない。


「通る・通らない」を判断する段階そのものが、もう終わっていた

――その事実だった。


彼が踏み込む前に。

拳を振るう前に。

氷が冷却を始めるよりも前に。


この場ではすでに、


「どの行動が、どの結果へ至るか」


という対応表が丸ごと書き換えられていた。


ユノの足が、わずかに止まった。


止まった、というより――

止めざるを得なかった。


身体が次の動作を要求している。

前へ出ろ。

距離を詰めろ。

押し切れ。


頭の中ではそう叫んでいるのに、思うように脚が動かない。


筋力が尽きたわけではない。

疲労もない。

氷属性魔力の残量も十分にある。


それなのに、次の一歩が「選べない」。


選択肢がないのではない。

選ぼうとした瞬間、その選択が“どこへ繋がるのか”が見えなくなる。



――前に出たら、何が起きる?



答えが返ってこない。


ユノは歯を食いしばった。


「……クソ……」


吐き捨てるような声。

先ほどまでの余裕は、すでに失われていた。


ゼンの視線は変わらず、姿勢も一切揺らいでいない。

けれど、その“変わらなさ”こそが、ユノにとっては異常だった。


距離は三歩もない。

殴れる距離だ。

何度も、何度も、敵を叩き潰してきた間合い。


それにもかかわらず――


ゼンの立つ位置が、まるで別の世界の座標のように感じられる。


近い。

なのに、触れられない。


手を伸ばせば届くはずなのに、「そこに至る経路」がどうしても見つからない。


ユノは本能的に悟り始めていた。


――これは、技じゃない。

――力でもない。

――絶対的な“境界”だ。


ゼンは攻撃していない。

防御もしていない。

ただ、そこに存在している。


それだけで、自分の攻撃が意味を持たなくなっている。


(……何だよ、それ……)


怒りがこみ上げる。

理解できないというだけで、胸が焼けるほどの焦燥に変わる。


ついにユノは、最も原始的な選択に出た。


考えるのをやめる。


魔力をさらに引き上げる。

氷属性を限界まで圧縮し、擬似零位核に強制的な負荷を掛ける。

制御が崩壊することは、最初から織り込み済みだった。


押し切る。

結果を先に叩きつける。

意味など、あとから無理やり追いつかせればいい。



床が、鳴った。



氷が一斉に立ち上がる。

霜が刃のように逆立ち、ユノの足元から放射状に広がる。


「――ッ!!」


雄叫びとともに、ユノが踏み込んだ。


今度は迷いがない。

速度も、質量も、魔力も、すべて最大。


右拳。

氷晶が分厚く纏わりつき、形を持った凶器として完成する。

冷却と固定を同時に確定させる、強引な構成。


結果を先に決める。


ゼンは、その攻撃を“見て”いた。


だが、やはり見ているのは拳ではない。

氷でもない。


――その動作が「そうなる」と決まる、さらに手前。


ユノが踏み込んだ瞬間、ゼンは一歩前に出た。


逃げるのではない。

距離を詰めるのでもない。


それは踏み出しではない。

脚を運ぶ意識もない。

重心だけが、空間の低い方へ自然落下する。


前へ。

いや、前方に生じた“空白”へ。


ユノの突進が描く運動線とゼンの重心線が交差する。

互いにぶつかるのではない。

二本の線が、同じ「点」を通過する。


その刹那、空間の座標が重なる。


二人の立つ位置が厚みを失い、同一平面へと押し潰される。



時間が、幅を失う。



そこで――

ユノの内部で構造が破綻した。


踏み込みで生まれた反力が床へ返らない。

重心が“受け止められる場所”を失い、力は宙に逃げる。

拳へ収束するはずだった質量が経路を失って散逸する。


氷晶が悲鳴を上げる。

結晶の配列が揺らぎ、刃として成立していた意味が崩れていく。

冷却も固定も、結果を保てない。


――当たる前に、終わっていた。



体勢が崩れる。







――違う。


崩されたのではない。


成立する前に、“置き換えられた”のだ。


ユノの感覚が、僅かに遅れて追いつく。

ゼンは何もしていない。

本当に何一つ――彼は動いていない。


ただユノが攻撃を成立させるために必要だった“位置”に、ゼンが先に立っていた。


拳が空を裂き、ゼンの肩口をかすめる。


確かに衝撃はある。

だが、ダメージを与えるにはほど遠い。

手応えがない。氷の質量も、温度も乗っていない。


冷却も起きなければ拘束もない。

魔力によって構築された氷晶は手応えを得る前に音もなく霧散し、ただの冷たい魔力の粒子となって空気に溶けていく。


ユノの身体が前方に崩れるように流れた。


これは“失敗”なのか?

否。完全な失敗ではない。

軌道は合っていた。間合いも、悪くはなかった。


悪くはないが、決して“成功”とは呼べない。


――中途半端。


それが、何よりも危険だった。


ゼンは容赦なくその瞬間を捉える。


肩がわずかに沈む。

それは拳を振るうためでも、攻撃の構えでもない。

むしろ“踏み出さないため”の制止の所作だった。


体幹が絞られ、重心が静かに地へと沈む。


腕は動かない。拳も握られない。

特別な所作や挙動が無い中で、空間が明らかに変化する。


ゼンの足裏が床を捉えた瞬間――

空間の張力がまるで逆流するように“反転”した。


それは魔力の流れではない。

物理法則の操作でもない。

ただ、“空間”に満ちた空気そのものが裏返った。


ユノの身体が支えを失ったかのように一瞬よろめく。


膝が折れかけ、意識が遅れてそれを支えようと踏み出す。


――しかし、踏み込んだ先に脚を支えるための“確かさ”がない。


床はある。現実も、変わらずそこにある。


けれど、「踏みとどまる」という“結果”だけが返ってこない。


まるで意志と行動のあいだにあるはずの接続が、見えない誰かに断ち切られたかのように。


ゼンがようやく視線を落とす。


見下ろすのではない。

威圧でも、優越でもない。


次の選択に移行するまでの“確認”。



この少年はもう逃げられない。



ゼンが、ほんの一歩だけ前に出た。


それだけでユノの身体は条件反射のように半歩、後退する。


それは意識の判断ではなかった。

肉体が、感覚が、理解してしまったのだ。


――この距離は危険だ。


この男が近づくほど、ユノの世界は“意味”を失う。


攻撃は目的を果たさない。

防御は理由を失う。

足元さえ、信用できなくなる。


追い詰められているのは肉体ではない。


――選択肢そのものだった。


戦うことが“選べなく”なる。

逃げることも、“できなく”なる。

思考すらまともに“機能しなく”なる。


選択の枝が一本ずつ折られていくように、ユノの中から取るべき選択とそのプロセスが、静かに“剥がれ落ちて”いく。


「……な、んだよ……これ……」


ようやく漏れたユノの声は、もはや怒りではなかった。


そこにあったのは、戸惑い――

そして薄い皮膜を帯びた「恐怖」に似たもの。


ゼンは、何も答えない。


答える必要がない。

答えるべき“問い”ですらなかった。


この状況そのものが、すでに答えだったのだ。


ゼン・アルヴァリードという“現象”の、本質として。







その時。


空気の“質”が、変わった。


温度でも、圧力でもない。

魔力濃度の変化でもない。


もっと静かな、しかし決定的な違和感。


場の奥底で何かが組み上がる気配。


規則正しく。

無駄なく。

感情を一切排した、冷たい設計図の気配。


空間が、わずかに「揃う」。


因果の並びが整えられ、

結果が、再び先に置かれようとする。


ゼンはそれを即座に感じ取った。


(……来たな)


境界に立つ者として。

場の歪みを知る者として。


これはユノの力ではない。

擬似零位核の暴走でもない。


誰かがこの戦場そのものを“再定義”し始めている。


遠くもない。

近すぎもしない。


だが、確実に――

この場を“管理する意志”が、姿を現し始めていた。



ラグナ・ヴェルクハイト。



まだ姿は見えない。

術式も、完全には展開していない。


それでも。


因果の順序が、再び組み替えられようとしている。


ゼンは静かに息を吐いた。


境界である時間はもう終わりに近い。


次は――

「場」そのものと、向き合う番だ。

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