断罪の日、王子は「貴様との婚約を破棄する!」と叫んだ。さあ、舞台の幕開けです。
「ベアトリス、貴様との婚約を破棄する!」
紳士淑女が手に手を取って踊り合う舞踏会のホールに突如殿下の声が響き渡った。
踊る姿勢のままで固まった貴族たちの視線は殿下に集中した。
ダンスのための音楽を奏でる演奏者たちも何事が起ったのかと思わず手を止めて殿下を見ていた。
私たちはホールの一番上手にいて一心に衆目を集めていた。
つまり私と、殿下と、彼女とは。
私はいつも通りの取り澄ました顔のまま。高揚した殿下の顔は誇らしげにすら見えた。殿下に腰を抱かれた彼女は小悪魔じみた微笑を浮かべていた。
今日のこの舞台では彼らが主役、私は脇役に過ぎない。いや、悪役か。
主演男優はもちろんエドアルド殿下。
主演女優は彼女、アシュリー・グラハム男爵令嬢。
そして私は助演女優にして悪役令嬢、ベアトリス・キャスパー公爵令嬢だ。
主演女優は勝ち誇った顔で甲高い声を張り上げた。
「エドアルド様──」
男爵令嬢は殿下を名前で呼んだ。公式の場で王族に敬称を用いない思慮のなさ……その思慮のなさの延長で、王妃になったら何もかも好き勝手にできるとでも思っているのだろうか?
野心に満ちているが、その先に何が待っているのかまでは想像できない程度の知能の持ち主──そう見えた。
「これで公爵令嬢様はもうあなたの婚約者ではないのですね?」
「その通りだ」
殿下は満足げにうなずいた。
しかし事はそう簡単には運ばない。私たちの婚約は両家の取り決めによって結ばれたものだ。破棄したいのなら両家の合意を図らなければならない。
まあ、それができないことがわかっているからこそ国王夫妻が視察で不在の時期を狙い、しかし貴族は勢ぞろいしたこの舞台で暴挙に及んだのだろう。強引に既成事実化するつもりなのだ。
一応確認しておかなければならない。
「婚約を解消されたいとのお言葉、お伺いいたしました。しかし、どのようなご理由によるものでしょうか?」
「彼女のためだ」
「まあ、私が彼女にいったい何をしたとおっしゃるのでしょうか。私は彼女をいじめてもおりませんし、無視してもおりませんし、嫌がらせをしてもおりませんし、宮廷から追い出そうともしておりません」
「違う。君は何もしていないし、彼女も何もされていない。ただ愛のためだ。私は真実の愛を見つけたんだ」
「真実の愛……ですか?」
「そうだ。彼女は私に愛を捧げてくれた。しかし君は……私を愛してはいないだろう」
そう言って殿下はわずかに目をそらした。
そんなことはない。私は殿下を愛していた。それが伝わらない愛だったとしても。
しかし実際、殿下の方に愛はなかっただろう。殿下にとって私との婚約は公爵家との結びつきのためのものでしかなかった。婚約が成立して最初の数年間は殿下も私を愛そうと努力してくれてはいたものの、結局は諦めた。
殿下にしてみれば私は恐らく他人行儀の冷たい女だった。
そこへ行くと男爵令嬢は親身で、愛情表現があらわで、男を立てる言動が上手かった。
殿下が男爵令嬢を愛するようになるのに時間は必要なかった。男爵令嬢に迫っているところに居合わせて、何度も邪魔しなければならなかったほどだ。
私個人の感情で言えば婚約解消に異論はない。しかし、やはりもう一度確認しておこう。
「私たちの婚約は王家と当家との合意に基づいてなされたものです。それでも、殿下のご一存にて解消なさりたいと、そうおっしゃいますか?」
「ああ」
言質は取った。私はせいぜい不本意そうな顔を作って、不承不承といった様子でうなずいてみせた。
「……ほかならぬ殿下のおっしゃることです。かしこまりました。婚約の解消に同意いたします」
政府首班のブーフホルツ侯爵が証人として立ち会うこととなった。
手回しよく用意されたテーブルの上に婚約の解消届がこれもまた手回しよく用意されている。
もちろん殿下が手配したものではない。そもそも両家の思惑によって結ばれた婚約だ。当事者とはいえ殿下の一存で解消できるものではない。それが認められるというのはどういうことか……残念ながら殿下には理解できなかったようだ。
届出書には既に国王と私の父公爵のサインがなされていて、殿下と私はその下にサインした。
侯爵が居並ぶ貴族たちを目がけて高らかに宣言した。
「これで両人の婚約は正式に解消された」
「うむ、ご苦労だった」
「殿下、これでお別れです。今までありがとうございました」
私はご満悦の殿下に頭を下げた。こういうことは形式が大切だから。でも殿下は私に一瞥をくれただけですぐ隣の男爵令嬢の腰を抱きよせて、にこやかに笑いかけた。
「これで君は私の妻だ」
「ええ、エドアルド様──」
そして、くるりと回って殿下の手を外した男爵令嬢はその勢いのままくるくる回って殿下から離れた。アンドゥダン、綺麗なピケターンだ。
「エドアルド様、エドアルド様、これで私はあなたの妻、この国の王妃になるのです──」
彼女は突然踊りながら歌いだした。
頭がおかしくなった──わけではない。ガタガタと椅子を持って駆け寄ってきた楽団が彼女の歌に合わせて演奏を始めた。
ミュージカルだ。
「お父様!」
彼女の呼び声に応えて貴族の列の中から抜け出してきたグラハム男爵が、やはり歌う調子で答えた。
「おお、アシュリーよ!」
綺麗なソプラノに応える男爵の歌声は朗々たるものだった。
「これで私は女としての地位を極めるのですわ!」
「何もかも上手く行くと思っているのかね?」
会場の隅々まで響き渡るテノールだ。本当にいいお声……、貴族なんかにしておくのは惜しい逸材だ。いっそ役者にでもなればよろしいのに。
「何もかも上手く行くのです! だって殿下は私の言うことなら何でもお聞きになってくださるのですもの!」
「今はそうだろう、しかしいつまでもそうとは限るまい! 分を超えた行いには必ず反動が起こるのだ!」
「それでも想いを貫くのは、」
「あー♪」
「いー♪」
「しかしそれは、」
「つー♪」
「みー♪」
二人は両手を広げたお揃いのポーズでピタリと動きを止めた。
「ブラボー!」
歓声、そして万雷の拍手がホールを揺るがした。
「な……な……」
鳴りやまぬ拍手の中、殿下は口をパクパクさせて立ち尽くしていた。状況が理解できないようだ。
「殿下、お別れです」
そして彼女は殿下に向けて淑女のものよりも深い礼を取った。踊り出す前とまったく違う、落ち着いた声で。それが本来の彼女だ。
「ま、待て、どういうことだ……?」
殿下は混乱している。
「閉幕の時が来たのです、殿下。私は男爵家の娘ではございません」
「な……?」
殿下一人が混乱している。彼女も、私も、貴族たちの誰もが知っていた。
そう、彼女は男爵令嬢などではない。本名はシェリー、家名など持たない。貴族でも何でもない、庶民として生まれて町に育った女優の卵だ。
私たちはグラハム男爵家の名前を借りて彼女に娘と偽らせて、殿下に近寄らせたのだ。
今回彼女は女優として、わがままいっぱいに育てられた貴族の馬鹿娘、尻軽で強欲で思慮が足りず、自分の体を武器に身の程を超えた高い地位を狙う野心家──そういう役柄を完璧に演じ切った。
この断罪劇のすべてが貴族一同の仕込みによる喜劇だ。
シェリーは私と殿下の婚約を解消させるために送り込まれた刺客であり、今日のこの舞台を整えるために状況をコントロールし続けたコーディネーターだった。
「もちろん殿下を愛してもおりません。お別れです、殿下」
「そんな……馬鹿な!」
衝撃にわなわなと震える殿下を貴族たちはにやにやと眺めていた。私はそんな彼らを見て胸を弾ませていた。
元々殿下は貴族からの人気がなかった。今回の騒動を見てもわかるように思慮の浅い軽薄な行動が目立つ。将来の国を背負って立つべき身分の方がこれでは……、と憂慮されていた。
それでも殿下は迷惑をかけても人を損なうことはなかった。親と違って。
殿下の両親、つまり国王夫妻というのは、これはもうまごうことなき暗君だった。その場の感情で部下を罰し、思い付きで政策を変えた。施策はずっと右往左往していたし、無秩序な造営をはじめとする放漫経営で財政は破綻寸前だった。そのため増税はたび重なった。
そしてこの度国王はあろうことか隣国、友好国への侵攻を計画した。大義なき侵略だ。国王としては国内の不満を国外へと逸らし、略奪で財政を潤す一挙両得の妙案だったのだろうけれど。
開戦の準備を言いつけられた貴族たちはついに一致団結、この際王と王統とを取り換えてしまおうと実力行使に出た。
国王夫妻が視察のため不在というのは実のところ地方に連行されたのだ。既に辺境の孤城に厳重な監視を付けて幽閉されている。いわゆる主君押し込めだ。
そして暗君の息子でありまた暗愚でもある殿下にも退場してもらうこととなり、今日を迎えたのだ。
ちなみにこの日の断罪劇を企画したのは私だ。「殿下には散々迷惑をかけられたのです。最後に少しだけ仕返ししたいのですわ」などとしおらしく言って。殿下の好みそうな女の子を用意して、誘惑させて、躍らせたのだ。
この時ホールの上手に一人の男性が現れた。その眼光凛々しく背の高い男性は、自信に溢れた大股で私たちの王の位置に立った。国王の年の離れた弟殿下だ。
侯爵が王弟殿下の前に跪き、貴族を代表して宣言した。
「殿下、我々は殿下を新しく王と擁き、忠誠を誓います!」
「忠誠を誓います!」
一同侯爵に倣って宣言し、跪いた。
王弟殿下は代わりの王として用意された方だ。少なくとも暗君でも暗愚でもないとされている。
明日にも「国王は心神耗弱状態で政務遂行不可能となった。退位して静養に努める」と発表される。同時に王弟殿下が立太子され、来月には即位式が予定されている。周辺諸国にも今月のうちには国王の退位と王弟殿下への譲位の報告が届いているはずだ。
祝典から一人取り残された殿下が叫んだ。
「貴様ら、これは王国の乗っ取りだぞ! 反逆だ!」
「……」
皆無反応だった。このイベントはこの場の貴族全員、もちろん政府も全員一致で挙行したのだから。
こういうのを何て言ったかしら? 確か、上からの革命? 決してクーデターではない。
「貴様らぁ!」
激昂して詰め寄ろうとした殿下は駆け寄った警備兵たちに後ろ手に拘束された。
「んー! んー!」
ついでに猿ぐつわもかまされている。
「おめでとう」
一同の見守る前で侯爵がシェリーにトロフィーを授与した。主演女優賞だ。
受け取ったシェリーはトロフィーを掲げ、観衆に向けて声を張り上げた。
「このような重要な役を頂いたことも、またこのような名誉ある賞を頂いたのも初めてで、高貴な皆様への恐縮と感謝の気持ちで胸が張り裂けそうです。アシュリー・グラハムという女性を演じることを私に託してくださった公爵令嬢様には心より感謝いたします」
彼女の声はホールの隅までよく通った。アシュリー・グラハムのヒステリックな叫び声とは違う、落ち着きのある、理性によってコントロールされた声だ。
「本質的に自分自身と異なる役を作るのは大変でしたが、やりがいのある仕事でしたし、何より貴重な体験となりました。私自身演技に深みが生まれたと自負しています。
ここに至る道のりは長く、また決して平坦なものではありませんでした。予想もしないハプニングに見舞われたことも多く、特に主演男優の性欲の強さには辟易としました。貞操の危機を迎えたことも一度や二度ではありません。そんな時必ず助けてくださいました公爵令嬢様にはやはり心より感謝いたします。
そして今日、シナリオを目指すところに……いえ、理想以上の地点に着地させることができたのは私一人の力ではなく、皆様のご尽力、またグラハム男爵様の名演、何より公爵令嬢様のお力によるものです。
今日この栄誉に浴したことは私にとって終生忘れ得ぬ感動となるでしょう。その感謝のしるしとして、僭越ながら私もまた皆様を祝福させていただきたいと思います。おめでとうございます、そして本当にありがとうございました」
名優は深々と頭を下げた。
素晴らしいスピーチだった。
「ブラボー!」
貴族の誰かがまた叫んだ。満場の拍手、そして喝采が会場を揺るがした。
侯爵は彼女の肩を抱き、大きな身振りでもう一人の主役を示した。
「そして主演男優に大きな拍手を!」
またも満場の拍手、そして喝采。相手はもちろん殿下だ。今度の歓声は笑いを含んでいた。嘲笑だ。
「~~~~~~ッッ!」
パン、パン、パン、パン、手拍子の鳴り響く中、殿下は警備兵たちに連れられて退場した。ジタバタ暴れて、みっともございませんわ。ああ、素敵。
──こうして私たちの舞台は成功の裡に幕を閉じた。
さて、この滑稽芝居を貴族だけで独占したのでは吝嗇のそしりは免れ得ない。私たち貴族連合は一連の経緯を平民にも教えてあげることにした。
「さあさあ皆様、右も左も東も西もとくとご清聴あれ! 王子様がいかにしてお城を追い出されることになったか、一切の事情はかくの如し──」
ここに至る顛末と今日の出来事は街角で弁士が講じたし演劇にもなった。今では国中の誰もが知っているドタバタ喜劇だ。
その後アシュリー・グラハムことシェリーは一躍大人気の女優となった。平民層での知名度はもちろんのこと、新国王を始めとした貴族たちがスポンサーとなっている。彼女の主演となればこの国最大の劇場でも連日満員御礼だ。
大いに面目を施してご満悦のグラハム男爵は実際に彼女を養子にしてしまったので、今の彼女はシェリー・グラハム男爵令嬢だ。貴族の作法、しきたりを完璧に身に着け、何より貴族たちの手厚いバックアップを受けた彼女なら貴族社会でもやっていけることだろう。
私は新国王の婚約者にそのままスライドした。正規のお妃教育を受けている高位貴族の女性は同世代では私しかいないのだから。近々輿入れの予定だ。
それから、殿下はというと……
「よっ、王子様!」
「あれやってくれよ、『婚約を破棄する』ってやつ!」
街を歩く殿下に掛け声が飛んだ。顔を険しくしながらも立ち去ろうとする殿下に、さらに子供たちが声を揃えて叫んだ。
「王子さまは追放だー!」
「……貴様らぁ!」
殿下はとうとう顔を赤くして襲い掛かろうとしたが周りの人たちにたちまち取り囲まれてしまった。
「まあまあ」
「そう怒らないで王子様?」
「離せっ……!」
労働で鍛えられた屈強な男たちが笑いながら殿下をあやした。殿下は何もできない。
庶民の一人が袋を持って歩くと周りの庶民たちが次々と小銭を投げ込んだ。
「はい、今日の分です」
「…………!」
庶民が袋を手渡すと殿下は顔を赤くしながらも受け取った。
王宮にいる私に直接確認することはできないが、報告によればこのような状況であるらしい。
殿下は身分を平民に落とされて城下へと放逐された。貴族連合も殿下の命までは取ろうとしなかったのだ。冬は極寒夏は酷暑の獄舎に押し込められて粗衣粗食に震える前国王夫妻よりは良い待遇ではないかと思う。
そしてご覧の通り、殿下は人気の道化として庶民から愛されているそうだ。
殿下が町に繰り出せばたちまち笑いが起こり、おひねりが投げつけられる。
屈辱だろうけど、おかげで生活はできている。食堂で食事もとれるし服のクリーニングもできる。夜は宿にも泊まれる。
殿下は今日もプライドをお金に換えて生きている。
……そのことを思うだけで、私の体は熱く火照る。
仮にも公爵令嬢たる身でこんなことを口に出すことはできないが、実は私は屈辱を与えられるのが好きだ。
人前で侮辱され貶められたとき、私が感じるのは悔しさではなく体の芯を貫く甘い痺れだった。
そして愛する人が屈辱や悲哀に打ちひしがれている姿を見るのはもっと好きだ。
初めは子供の頃に飼っていた犬だった。
大きな肉の塊を前にした犬の笑顔が、さっと肉を取り上げるとみるみる悲しみに沈んでゆくをの見るとき、興奮と愉悦で私の脳はとろけた。それで私は自分の本性に気づいた。
エドアルド殿下、少しお知恵が足りなくて、言動が軽はずみで、いつも騒動ばかり起こしている王子様。私は殿下のこの足りないところを深く愛していた。愛しすぎてどう振る舞ったらいいかわからなくて、殿下の前ではつい無愛想になってしまうほどに。
殿下が軽挙の振る舞いをしてしまい、陰で貴族たちが軽蔑しているところを見ると胸が躍った。人から侮られているのを聞くと心がときめいた。
そしてそれだけでは満足できなくなった私は殿下にもっと辛い目にあって欲しいと願うようになった。
願うだけでもまた満足できなくなり、国王が無謀な外征に乗り出そうという状況に乗って怪文書と偽手紙で貴族たちの不満を煽り、噂で人心をコントロールして、ついにあの断罪劇を迎えたのだ。
あの時の殿下のご様子は最高だった……。
さらに殿下は今も市井で惨めな思いをしていらっしゃる。
ああ殿下、私は新しい王のことをちっとも愛していないけれど、愛しの貴方が屈辱に身を焦がしながら眠れぬ夜を過ごしていると想うだけで、きっと笑顔の仮面を被って王妃を演じることができるのです……。