もしも江戸時代にSNSがあったら~根岸鎮衛『耳嚢』の魅力~
初めましての方も、そうでない方も、こんにちは。
藤倉楠之と申します。
このほど、なろう公式企画『秋の歴史』に、中編『うなぎの祝言』で参加させていただきました。江戸時代が舞台の恋愛ものです。歴史ジャンルは初挑戦で、めっちゃ緊張しましたー。
さて、この『うなぎの祝言』は、すでにととのっている婚約にトラブルが起きるところから始まります。婚約破棄テンプレともちょっと違うんですが、結婚式の相談をしているところに身ごもった別の女性が現れるという、一昔前のメロドラマなんかによくあった、わりと典型的な泥沼パターン。
こんな展開、当時の感覚として普通なの? と思われるかな、と思うのですが……。
この物語、実はまさに江戸時代後期、ちょうど化政文化のころの随筆作品、根岸鎮衛 著「耳嚢」巻之七に収録されている「女の一心群を出し事」「了簡をもつて悪名を除き幸ひある事」を下敷きにしています。
町人同士の縁談で、祝言を翌日に控えた打ち合わせの席に、妊婦さんが乱入してきて……という前半と、その後日談を描いた後半からなる、伝聞調のエピソードです。
私の作品では、縁談を武家と商家の間に変更した他、細部の設定を変えています。
別件で資料を漁っていたときにこのエピソードに出会い、江戸時代にもこんな泥沼ストーリーを面白がって書き留めた人がいるんだなあ、これってある種の婚約破棄じゃん! と楽しくなって、よし、これを下敷きに自分なりのプロットで書かせていただこう、と思って書いたのが『うなぎの祝言』だったのでした。
この「耳嚢」がめちゃくちゃ面白いんですよ。
私の知る限り、怪談好きの界隈にはかなり知られた作品のようです。
例えば、2000年代には、オムニバス形式で舞台を現代に移した怪談ものとして、『怪談新耳袋』というタイトルのTVドラマシリーズと映画が制作されています。一部拝見しているのですが、今から振り返れば名だたる俳優さんがまだ新進気鋭の若手として多く出演されていて、みなさん演技派で、良いドラマでした。
また、宮部みゆき先生の名作時代小説「霊験お初捕り物控」シリーズには、根岸先生と「耳袋」が超重要なポジションで登場します。
ですが、オリジナルの随筆を実際に手に取ってみると、これ、単なる怪談の枠には収まりきらない、ヌエのような実にとらえどころのない作品なのです。
知り合いから聞いた、ちょっと笑える話。ちょっと不思議な話。感動した話。考えさせられた話。
魚の小骨が喉につかえないようにするおまじない。虫刺されの時にやるといい民間療法。ヘビが寄り付かなくなるおまじない。足のむくみにきく薬のこと。
有名人のエピソード。名所旧跡や名物グルメの由来。煮貝を柔らかく仕上げるコツ。
こんな感じで、種々雑多な話題が、淡々と羅列されているのですね。日記というわけでもなく、エッセイというほどご本人の思い入れがありそうな文章ばかりでもなく、長さもトピックもまちまち。
唯一の共通テーマはおそらく、著者の根岸先生が「お、おもろい」と思った、ということだけ。特に積極的に誰かに見せようと思ったわけでもないようで、三十年ほどかけて書き溜められた著作なのだそうです。
久々に読み返していたんですけど、2023年の今だから思うことがあるんです。
これって、SNS、中でもとりわけ、X(Twitter)じゃない?
気になった話、面白かったこと、覚えておきたいライフハック、自分の備忘録としてとりあえず全部書き込む。ジャンルとか関係ねえ。面白ければよし。
根岸先生は町奉行所にお勤めの旗本なのですが、めちゃくちゃ好奇心が強いのです。ありとあらゆるジャンルに首をつっこんでます。
多分、変な話好きの先生ってことが周囲から認知されてて、面白い話があったら根岸さんに教えてやろう、みたいな感じで奇譚が集まってきてたようです。
ああ、こういうタイプの人がSNS大好きなのって、もう、過去から連綿と続く流れがあったのね……と、深々と納得してしまいました。
当時の生活とか、普通の人のものの考え方とかが行間からうかがえるので、江戸の生活描写とか、怪談未満のショートショート都市伝説みたいなのに興味のある方だったら、かなり楽しめると思います。どこから読んでも、どこでやめてもいい感じの作品です。原文でもわりと平易なので、細部を気にしなければすいすい読めます。
せっかくなので、エピソードをご紹介してみます。
(要約は脚注を参考にしつつ藤倉が独断で行っています。解釈に誤りがあったら申し訳ありません)
たとえば、不思議な話が好きな方に捧げる、こんなお話。
巻の九、「古石の手水鉢怪の事」。
人見幽元という医者の話だ。茶道にも心得がある方なのだが、訪問先のお宅の庭にあった古い手水鉢を気に入ってしまった。しきりにほしがったが、家の主は「長年この庭にあったもので、案外、下のところが深く埋まってしまっているんで」と言う。幽元は、「人足を頼んで掘ってもらうから」と頼み込み、譲ってもらうことになった。実際に後日、人足を頼み、深く埋まってはいたものの難なく掘り出して、幽元宅の庭に運び込んだ。幽元は喜んでこの手水鉢を愛でていたが、その夜から、この手水鉢が「帰らなくては」と言う、というのが家族や使用人の間で噂になった。「石が物を言う訳がない」と幽元は取り合わなかったが、とにかく夜になると、物を言うのが収まらない。恐くなって、元の家に返した、という。
さて、なにか事情があって、怪談にかこつけて返したのか、それとも、本当に石に魂が宿って、こんなことが起こったのか――――。
この、最後の一文がしびれます。
あくまで不思議な話として記述しておきながら、最後の最後に、『この怪談は建前で、なにか大っぴらに言えない事情があったのか、それとも、本当に不思議な話なのか』とどんでん返しを暗示する。
想像しちゃいますよねえ。怪談をでっち上げてまで、さんざん頼み込んで譲ってもらった古い手水鉢を返した理由とは何なのか?
これにきれいな落ちをつけたら、これだけで短編が一本書けますよ。
どなたか、書いてくださいませんか。読みたい!
もうひとつ。たとえば、猫好きの方に捧げる、こんなお話。
巻の四「猫物を言ふ事」。
今でいう新宿辺りにあったお寺で、猫を飼っていた。
猫が庭で遊んでいる鳩を狙っている様子なので、鳩を憐れんだ和尚さんが声をかけ、鳩を逃がしてやると、猫が「残念だ」と言った。和尚さんは驚いて小刀を構え、「動物のくせにしゃべるとは、化け物か。人をたぶらかそうとでもいうのか。正直に言え。言わねば、殺生戒を破ってでもお前を殺す」と怒った。すると、猫の言うことには、「しゃべる猫は自分だけではない。十年ちょっとも生きれば、みんなしゃべり始めるし、それから四、五年も経てば神変の力を身につける。そんな長い年数生きる猫がいないだけだ」と。和尚さんが「お前だって、十歳にはまだならんだろう」と尋ねると、猫は、「狐と猫のハーフの生まれの猫は、十年も掛からずしゃべるようになるのだ」と答えた。「そういうことなら、お前がしゃべったのを聞いたのは私だけだし、もうしばらく飼っていても何の不都合もないだろう。これまで通りここにいなさい」と言うと、猫は丁寧に三度のお辞儀を尽くしてその場を去った。だが、その後は、どこへ行ったものかわからなくなってしまったという。
和尚さん、ちょっとせっかちですが、多分、めっぽう猫好きなんでしょうね。
瞬間湯沸かし器のごとくブチ切れておきながら、猫の説明だけで、納得し、ほだされ、と展開がスピーディ。
そして語られる猫の不思議な力。狐と猫のハーフって、気になりすぎる。そんなやつおるんか。生物学的には難しそうですが、この場合、妖怪ですから何でもありです。
猫も義理堅いし、和尚さんも、戒律に真面目ながら、情にも篤い様子が伺えます。
もうこれだけで、異種交流譚の構想がじわじわ、浮かんできません? 私だけ?
物を書く趣味というのは業が深いもので、こういうエピソードを読むと、さらにつっこんで考えたくなります。
更にもう一段階ギアを上げてみましょうか。
性癖眼鏡装備をオンにしてこのエピソードを見ますと、ある事に気が付きます。あ、ちょっと煮詰めた異種間ヤンデレ話になるので、苦手な方はここから数行、すっ飛ばしてください。
――――――ヤンデレ注意 ここから――――――
注目すべきは「殺生戒を破ってでもお前を手に掛けねばならない」(性癖に基づく意訳)という和尚さんのセリフですよねえ。
出家得度を果たし、仏の教えに邁進しているはずの心優しい和尚さんにとって、『生き物を殺してはならない』というのは何にも代えがたい大事な戒律だと思われます。なにせ、鳩にまで情けをかけるお人柄ですからね。
にもかかわらず、猫が裏切って、化け物となり人類に仇をなすのであれば、和尚さんは、殺してでも(=たとえ戒律を破ったことで己が地獄に落ちようとも)、猫を止める、と言っているのです。お前とともに堕ちようとも、俺はお前を止める――。
これは究極の愛。あるいは、ある種の偏執と言えなくもありません。
それに対して、猫は出生の秘密を打ち明けます。究極の自己開示に対し、和尚さんは、猫が喋ることを秘密にしてでも、共に生きよう、と提案するのです。
普通に考えて、嘘は多分、仏教の徳目には入ってません。それを曲げてでも共に在りたいと願うのは、果たして仏の心に叶う慈愛なのか、仏門修行を妨げる執着なのか。
それに対し、猫は、肯定も否定もせず、作法にのっとった美しい礼で応えます。三顧の礼、恩義を感じた相手にする仕草ですね。
そして猫は、和尚さんに何も告げず、ただそっと身を隠してしまいます。
敬愛する和尚さんにそんなことをさせられない、と思ったのか、はたまた、喋る事や出生の秘密を知られた相手とは共に過ごせない事情があるのか。――――エモっ!
――――――ヤンデレ注意 ここまで――――――
はい、ちょっと行きすぎました。これを外部でやったら、ヲタクは巣に帰れ、と罵倒されるところです。
ですが、こういう、多種多様な方向に想像をついつい広げたくなる魅力が、この短くて素朴なエピソードに詰まっているのですよね。
シンプルな言葉で淡々とつづられるエピソードだからこそ、想像が色々はばたくのです。しかも、エピソードの拾い方のセンス、コメントをつける切り口が唯一無二。
バズる要素、満々な気がします。
根岸先生がXのアカウントを持っていたら、万フォロワーを誇る人気アカウントになっていたかもしれません。
私が持っているのは岩波文庫版です。上中下の三巻に分かれていて、持ち運びも便利。電車の中で読んだりしています。
ご興味のある方、ぜひ一度、探して読んでみられてはいかがでしょうか。
さて、末筆になりますが。
エッセイジャンルではほとんど作品がないので、簡単に自己紹介をさせていただきます。
私、藤倉楠之は、普段は好奇心の赴くままに、色々なジャンルに首を突っ込んで、二万から三万字程度の中編小説を書いています。長編、短編もいくつかあるので、お気が向いた方はページ下部のリンクより、作品にお運びいただければ幸いです。
なお、ひとつだけ。
期待された方に申し訳ないので先にお伝えしておきますが、私はまだ、ヤンデレを作品に書けたことはありません。
素敵に描くのって難しいですよね、ヤンデレ。読み手として、書ける書き手様を大尊敬です。