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09. 埋もれていた才能③

 夜の帳が降りた頃、アリアは一人舞踏場にいた。

 靴裏が床との摩擦で小さな音を立て、汗が音もなく床に落下する。照明が煌めく汗を照らすなか、アリアは無心で踊り続ける。


 ノクトの足運びを思い出しながら頭の中でワルツのメロディーを鳴らす。

 目の前にパートナーがいると想像し、丁寧に体にダンスを叩き込む。

 目の前にいる人は女性。

 練習相手のノクトではない。

 ある程度踊れるようになったダンスレッスン後、ノエルと試しに踊ってみたが筋肉のしなりや肉付きが、男性とはまるで違っていた。

 そもそも女性はコルセットを装着し、ドレスを身に纏う。そのうえヒールの高い靴を履き、髪に宝飾品もつけるだろう。男性と比べると踊りづらい服装になる。

 そういう相手と踊ることを念頭に置き、踊り続ける。

 尤も、アリアはダンス講師のノクトから合格点を貰っているため、根を詰めて練習する必要はない。

 それでも、汗を流して自主練に精を出す。


 関係者には手放しで誉められているアリアだが、当人からすると今まで経験したことのない世界に飛び込むため、いくら練習しても落ち着かなかった。

 彼らから得る褒め言葉を素直に受け取れず、どれもが身内贔屓という印象だ。

 部屋にいると渡された教養の本を無意識に取ってしまうし、食事の時間は作法が間違っていないか常に神経を張り巡らせてしまう。

 息をするだけで休まることがなく、ならばいっそ体を動かしたほうがマシだと思い、舞踏場の鍵をメイソンから借りて一人でダンスの練習に打ち込んでいる。


 何かをしなければ落ち着かない。

 いくら勉強に励んでも足りず、いくら体を動かしても足らない。

 時間も、練習量も、勉強量も、経験値も、貴族としてアリアは足りないものしかない。不安が体を動かし続けた。


 いっそ模造剣を持って素振りや型の練習をして、頭を空っぽにしたいと思いシルヴィオに提案してみたが、一人で練習すると剣術は変な癖がついたり、万が一にも怪我をしてはならないから許しが出なかった。

 だから、アリアはダンスに励む。

 一見するとただの練習だが、根底にあるものは不安の払拭だ。


 とにかく時間がなかった。

 暖冬は緩やかに終焉を迎えつつある。庭先の木々も鮮やかな緑色に変色し始め、至る所で春の匂いが近づいている。春になればいよいよ学園に入学だ。

 平民の中でしか生きたことのないアリアは、貴族の中でどう振る舞えばいいのかわからない。


 使用人たちは「完璧ですよ!」「大丈夫ですよ!」と、声をかけてくるが、彼らの多くはシルヴィオが善意でアリアを入学させると考えている。

 深く追求してはいないが、どうやら家令であるメイソンと専属であるノエル以外には、アリアのことを探していた異母子が見つかったとしか説明していないらしい。

 当然だ。

 いくら公爵家の血筋を持っているとはいえ、ついこの間まで平民として生きてきた人間が、第二王子の護衛兼側近として入学できるとは、誰だって考えない。


 たった一人で行動するのなら、アリアもここまで緊張したりレッスンに励んだりしない。第二王子と関わるから頑張っているだけだ。

 何せ王族だ、国の頂点。

 貴族であっても滅多に関わらない人間と行動しなければならない。入学日が近づくにつれ、胃が捩じ切れてしまいそうだった。


 何も知らない使用人たちは素直にアリアを誉めそやす。

 だからアリアは自分で己を律するしかない。

 褒め言葉や称賛だけでは不安が増す。

 駄目だ。できていない。酷い。そう――言われ続けなければならない。

 


「あつ……」



 ふぅ、と足を止めると額から汗が滑り落ちた。

 滝のように流れる汗により、額に髪の毛がぺたりと張り付く。とめどないそれをシャツで拭う。行儀の悪い行動だが、あたりに人気はない。しんと静まり返った空間で、持ち運んでいた水差しに手を伸ばした。

 火照った体に冷たい水が内臓から冷やしていく。

 喉を鳴らして飲み干した空のグラスに水差しを傾け、二杯目を入れながら無意識のうちに呟きが落ちた。



「――疲れたな」



 万感の思いのこもった言葉。ダンス練習に疲れたのか、それともこの状況に疲れたのか。

 アリアは自分でもわからない疲労の滲む音を発する。用意した水を飲む気力もなく、水面に映る情けない表情をじっと見る。水面に、銀の円環が波紋のように揺れていた。





 アリアがイースノイシュ家で学び始めて、二ヶ月が経過していた。


 あの日からイリスの庭には一度も顔を出せておらず、今、アリアの雇用状況やアパートがどうなっているのかわからない。

 イリスの庭ではまともな人間関係を構築せず、従業員には散々嫌われていたため、アリアを気にする人はいない。アリアも従業員には興味がない。


 ただ。

 幼い頃からヴィヴィを通して知っているイリスは、アリアを気にかけているだろう。


 彼女は今、どうしているだろうか。

 イリスはアリアがシルヴィオに連れ去られる時、不安そうに、心配そうに見つめていた。

 あれ以降、顔を合わせていなければ手紙も出せていない。存外心配性な彼女には悪いことをしているなと、気の毒に思う。

 店はただでさえ従業員が減っているといつのに、属人化していたアリアの作業がどうなっているのかも気がかりだ。イリスが散々危惧していた状況になってしまい、申し訳なく思う。


 シルヴィオからイリスには連絡を入れているらしいが、直接の交流は完全に断ち切られている。

 どこを経由して今回の策がもれるかわからないため、アリアはイースノイシュ家の敷地から出られなくなっていた。

 軟禁状態だが、これに関しては特に何も思わない。思う暇がないほど日々学びで忙しい。



 アリアが今一番気にかかるのは、シルヴィオだ。

 異母兄であるシルヴィオは、どういうわけか殊更アリアに甘い。


 婚外子という存在は、一般的に喜ぶべき存在ではない。

 むしろ、家にとっての汚点だ。

 貴族の間では政略結婚がスタンダードなため、嫡子を産んだら浮気をしてもいいと浮気は黙認される。それでも婚外子の存在は嘲笑の(まと)だ。

 男は種蒔時に我慢ができなかったと嘲られ、女は淫売扱いされる。

 だから婚外子はひそりと野に放たれ、バレないうちに縁を切られる。アリアやレーヴェルシュ男爵令嬢のように、婚外子がそのまま家に入ることは稀だ。

 よほどの思惑があるか、子を産んだ女を愛していたのか。

 どちらにせよ、正妻から見るとはらわたの煮えくりかえる存在であることに違いはない。


 今回、シルヴィオは致し方なくアリアを家に入れた。作戦のため、使える道具が欲しかったからだ。

 そのため、有効な道具のうちは嫌われないだろうと思っていたが、どうにも異母兄は道具以上の感情でアリアに接している節がある。


 シルヴィオは懸命に励むアリアの姿勢を好意的に見ているようで、小汚く生きるしかなかった住環境にも同情的だ。

 そのせいか、学園卒業後もアリアを公爵家の人間として住まわせ続けたいような思いがあるらしい。

 嫌悪されるよりはマシだが、この六年、一人で生きてきたアリアにシルヴィオの距離感は戸惑いしかない。


 そもそも、十五年平民として生活をしているアリアにとって、過分な贅沢は胃を痛めるものであり、面倒な貴族の慣習からは逃げ出したいと思う。

 有体に言えば、関わりたくない。

 けれど、そうも言っていられないのだろう。


 いつか見た公爵令嬢のゴシップ記事を思い出す。

 遠い出来事だと思っていたが、アリアもそのうち間違いなく掲載されることになる。


『イースノイシュ家の婚外子が第二王子の護衛に?!』


 太いゴシック体で発行されるセンセーショナルな見出しを想像するだけで、疲労がどっと蓄積された。




「……はぁ」



 嘆息しながら前髪を払った視界で、アリアは視線を動かす。

 人気がない舞踏場は公爵家の広大な庭園に面し、その先には屋敷を囲うように塀がある。

 二ヶ月も邸で生活すると、一部の塀は外商や通いの使用人のために開け放たれていることに気づく。貴族街は比較的明るいが、平民街にまで行けば暗い通りはいくつもある。

 アリアは信頼されている。

 真面目に勉学に勤しんだ結果だろう。だから、夜陰に乗じて消えることがないと、思われている。



 ――今なら、逃げ出せるかもしれない。



 そう思いながら、水の入ったグラスをゆっくりと眺めた。

 冷たい水面に舞踏場のシャンデリアの明かりが入り込む。美しいそれは二ヶ月前までは見ることのない、見られるはずのない光だった。

 その光を拒絶するようにグラスに口をつける。

 複雑な感情と共に、一気に飲み込んだ。



「休憩中か?」

「――んっ!? の、ノクト様!? ケホっ、っ!」



 不意に声をかけられ、驚きのあまり気管に水が入る。咳込むアリアの背中を気遣うようにノクトが撫でた。

 その行為にさらに咳込むアリアだが、気付かぬ彼はアリアが落ち着くまで背中を撫で続けた。



「悪い、一声かければよかったな。あーあ、服がびちゃびちゃだ。大丈夫か?」

「っ……、いえ。自分がぼうっとしていただけですので」

「タオルを用意させるか?」

「大丈夫です。この後汗を流そうと思っていましたから」

「そうか」



 舞踏場に現れたノクトは「悪かったな」と続けて声をかけ、半立ちのアリアの隣に腰をかけた。

 そのまま隣に座るように彼の手が促す。少しだけ悩んだが、アリアはノクトの隣に座った。


 人、二人分程度の距離がある。

 沈黙が続く。

 ノクトは何も言わず、ただ、隣にいた。


 居心地が悪い。

 どうしてノクトが舞踏場に現れたのか分からない。

 ダンスレッスンをする時間ではなく、何か忘れ物をしたような素振りもない。ただ黙って彼はアリアの隣でぼぅと、シャンデリアを眺めている。


 何か用事があるのだろうか?

 と、思ったが彼から話しかける様子もない。かといって去りもしないため、何がしたいのかわからなかった。


 アリアはノクトと二人きりになったことがないため、どう声をかけるべきか考えあぐねる。

 彼がシルヴィオと楽しげに話している姿はよく見たが、直接話したことはない。ダンスの最中に指導として声をかけられたことはあるが、アリアから貴族らしきノクトに話しかけることはできない。


 下位貴族から上位貴族に話しかけることは不敬だと学んでいる。立場として一応公爵家に属しているが、気持ちはずっと平民のままだ。だからこそ、自分から話しかけていいものか判断しかねた。

 ただ、このまま沈黙し続けていても居心地が悪いため、意を決し視線を左右に彷徨わせた後「あの」と、声をかける。震えた、情けない声音だった。



「……ノクト様はどうしてここに」

「様子見にな」

「はあ……そうですか……」



 ノクトはゆっくりとアリアに視線を合わせた。

 いつもはシルヴィオが間に入りノクトとの仲立ちをするが、ここにはシルヴィオの姿はない。だから、こうして彼と素直に視線を合わせるしかない。

 満月の色を誇る瞳に射抜かれ、アリアはそれを真正面から受け止めた。

 気遣わしげな色がある。

 様子見に来たというのはあながち嘘ではないのだろう。



「なぁ、嫌とか無理とか思わないのか?」

「何がですか?」

「ダンス然り、剣術然り、勉強然り。本来なら短期間で詰めるべきものではないことを、無理やり詰め込んでいる状況だ。貴族であっても泣き言を言うスパルタスケジュールだぞ。文句を言ったり、泣き言を言うのが普通だ」

「はぁ……」

「うっすい反応だなぁ」

「いえ……。その……泣き言を言ってもこの状況は改善しないですよね? なら、励むしかないのでは?」

「簡単に言う。それが、どれほど難しいか」



 ノクトの言葉にアリアは戸惑いを抱く。

 努力しなければならない状況に追い込んでいるのは、シルヴィオだ。もっといえば、その背後にいる人間だ。

 平民の――婚外子のアリアには抵抗のできない立場の人間から命じられている。

 そのような状況でできない、無理、だめと言葉に出して解決するのなら、アリアは声高に叫んだだろう。しかし、それは叶わない。


 子どもの頃に、散々そういう経験をしてきた。

 どうしようもできない状態に追いやられ、妥協しなければならない状況に見舞われた。励まなければどうしようもできない現実を何度も味わった。

 ヴィヴィの関係者に追い込まれ、彼女のように美しくあれと何度も蔑まれた。変態に気に入られないように阿呆を装い四つん這いで歩いたり、利益目的の人間の前で野良犬のように吠えたこともある。

 どれもこれも、生きるために必要だった。


 あの頃と比較すると、今回の努力は努力した分だけ身になるためそういう意味では過去よりマシだ。

 しかし、それをノクトに伝える必要はない。伝えたいとも思わない。

 彼も――楽しくもない話を聞きたいとは思わないだろう。

 ただ、強いて何かを言葉にするのなら。



「これが、自分だけのために必要だったなら、ここまで努力はしなかったかもしれません」

「……」

「自分のような卑賤な生まれの人間が言うのは烏滸がましいですが、第二王子の側近兼護衛という立場に任命されたからこそ、恥ずかしくないように尽力しようと思っています」



 嫌とも無理とも思いながら、何度も何度も逃げようかと考え、昔からの知人であるイリスにも心配をかけていると理解している。

 けれど、もしアリアがここで逃げてしまえば第二王子は一人きりで学園に入ることになる。

 彼の手足も多いだろうが、きっと生粋の貴族だけだ。使い捨てにできるアリアのような駒はいないだろう。

 なら、自分が頑張るしかないか。と、アリアは思う。


 打算も計算も策略もない。

 頼まれたから人のために頑張る、それだけのためにアリアはここで踏ん張っている。


 アリアの言葉に目を瞠り、驚きを見せるノクトを前に、今更ながら失礼なことを言ってしまったかと思い、慌てて「まあ第二王子を知らないので、王子から見れば自分は頼りない人間なのですが」と、から笑いを見せる。



「ノクト様は第二王子と会ったことはありますか? どうにも王族といえば第一王子の醜聞が真っ先に浮かんでしまうので、第二王子もそういう方だったらと思うと少し不安なのです」

「いや〜〜うん、う――――ん」

「ノクト様?」



 ノクトはどういうわけか少し顔を赤く染め、モゴモゴと口を動かしている。

 薄く唇を何度か開閉させ、後頭部をガシガシと乱暴に掻きむしったかと思えば「ゴホン!」と、わざとらしい咳払いを一つ落とし、アリアの真正面で居住まいを正した。



「あー……ちゃんとした自己紹介をしていなかったな」

「……え」


 視線をあちこちに彷徨わせたノクトが、照れ臭そうな表情でアリアを見る。

 ダンスの練習で前髪を上げていたアリアにはその表情が綺麗に映り、そして、何かを察して背筋に冷たい汗が流れる。だが、アリアの緊張を知らない男は満月の瞳を瞬かせ、容赦なく言葉を続ける。



「オレが、ノクラウト・ルートリィ・シメオノフ。まあこの国の――第二王子だ!」

「――……」

「……おい。何か反応がないと照れ臭いんだが」



 ぶぅ、と子どものように頬を膨らませる男を見たアリアは、ゆっくりと後退し、そして。



「数々の無礼、失礼いたしました!!」



 叫びと共に、勢いよく土下座した。

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