08. 埋もれていた才能②
地獄の剣術特訓をなんとか終え、客室のバスルームで汗と泥を流し、唯一のご褒美である昼食にがっつき、昼休憩を挟んだのちにアリアが案内された場所は舞踏室だった。
初めて案内された場所に、アリアの足が止まる。
平民時代には見たことも、入る必要性もなかった舞踏室。扉を開いた先に待っている「特訓」に辟易し、なかなか手がドアハンドルを掴もうとしない。
昔はよかったな、と一ヶ月前を思う。
それほど昔ではないのだが、多忙な日々にすっかり疲労が滲んでいた。
イースノイシュ家に案内されて一週間目、その頃のアリアは比較的穏やかに過ごすことができた。
マナー講師の選別が終わらず、貴族名鑑を覚えるだけの日々。
合間に邸の案内をされた時は相応の新鮮なリアクションが取れていた。
重要古書が収められた図書室、大きな絵画が飾られた重厚な応接室、アリアの纏う衣服一生分がありそうな衣装室などなど。
他の貴族をアリアは知らないが、おそらくイースノイシュ家は貴族の中でも格が違う。芸術品や美術品が当たり前のように鎮座し、貴重な物が当たり前のようにある邸に、当初のアリアは口が開きっぱなしだった。
なにせ案内されたコレクションルームで、昔、美術館で見たことのある絵が飾られているなと思った時「これは数年前、企画展に必要だと言われ貸与した」と、あっさり認められ「あ、ここはもう国営美術館みたいなものか」と、考えれば邸の規模にも納得できた。
それ以降調度品を見ると、美術館で用いられている立ち入り禁止の札がアリアの目に幻覚として映るようになってしまった。
触れるな危険、主にこちらの懐が。
もっとも、当主代理であるシルヴィオはアリアが触れても気にしないだろう。それどころか、間違って壊してもあっさり赦してしまいそうだった。
彼は、なぜかアリアに同情的だ。
シルヴィオから剣術の師事を受け、共に食事をとるようになって気づいたが、彼は不意に、痛ましそうにアリアを見る。
貴族としてとり繕ろう気がないのか、またはあえて見せてアリアの良心に訴えているのか定かではないが、シルヴィオは本気でアリアのことを血族として捉えている節がある。
そのことが、アリアにとって意外だった。
貴族は横柄で、悪辣で、己のことしか考えていない。
さすがに偏りすぎた考えだと思うが、すくなくともアリアと関わったことのある貴族はそういう人間ばかりだ。
だからこそ自衛に励んでいたが、シルヴィオは婚外子という会ったこともない人間を、どういうわけか己の懐に潜り込まそうとしている。
強引に攫ってきたアリアに罪悪感があるのか、それとも第二王子の護衛の任を悪いと思っているのか。
顔に影響された可能性も考えたが、シルヴィオ自身の顔が良いことと、熱を孕んだ眼差しではなく、同情的なーー憐憫の色が孕んだ眼差しで見られることが多いため、それはないなとアリアは思う。
シルヴィオがどう思っているのか知らないが、今回の護衛の任についてアリアはすでに諦めて納得済みだ。
第二王子とシルヴィオが言った時点で、これは王家が絡んでいることだと悟ることができる。シルヴィオですら逃げられない「王命」だ。
そのため無理だ無謀だと思いつつ、己の感情は放置して、将来的に仕事に必要なスキルを身につけるつもりで努力している。
剣術や馬術はいざとなったら護身術として活用でき、貴族名鑑で名物や災害の有無を勉強できたので、王都から離れた場合に住みやすい地もリサーチ済みだ。
なので、シルヴィオが気に止む必要はないとアリアは思っている。
己が婚外子であることも、ヴィヴィが死んでから一人で生きていたことも、アリアにとっては特筆すべきことはない、遠き過去でしかない。
だが、シルヴィオはそこに「家族」としての、甘さを孕もうとしている。
アリアにとってシルヴィオは上司のような存在だ。
今更異母兄と言われたところで、そうですか。としか、考えられない。何せーー家族の熱を最初から知らずに育ったのだ。憧憬を抱くことができない。
今更だ。
全部、終わっている。
そんな家族間の感情より、アリアにとって重要な課題は剣術と今から行われるダンスレッスンだ。
いわずもがな、平民はダンスを学ばない。収穫祭の祭りでどんちゃん騒ぎをするぐらいだ。アリアは見目の影響もあり参加したことがなく、唯一見たダンスはそれだけだ。
皆が笑って、酒を浴びて、音楽を喧しく鳴らしながら歌って踊る。
まず間違いなく、そのようなダンスではないだろう。
人生初のダンスレッスン。
せめて剣術の前にすべきではないかと思うが、上司の意向に逆らわない従順なアリアは、疲労と特訓でできたアザの痛みを堪えながら、ゆっくりとホールの扉を開く。
練習専門の舞踏室は思っていたよりも狭いが、なにより他の部屋とは趣が明らかに違っていた。
天井と床を繋ぐような大きな窓、その窓を彩るベルベットのカーテンがすとんと床に落ちている。床材はのっぺりとした素材でできており、木板を貼りめぐらせている他の部屋と違っていた。
天井には小ぶりのシャンデリアがあり、キラキラと窓から差し込む日差しに照らされている。
その部屋の中心に、見慣れぬ人がいた。
涼しい顔をした異母兄、彼の隣に。
「よっ、初めまして」
「初めまして……」
射干玉を思わせる髪と、満月を連想させる黄金の瞳を持つ青年がいた。
一人で、夜を体現しているような人だった。
彼はアリアを見てひらひらと手を振る。まるで平民のような仕草だ。衣服もシルヴィオのようにかっちりとしたものではなく、ラフな黒い服を纏っている。
ーーこの人は一体誰なのだろう。
シルヴィオと親しげに話をし、お仕着せを着ていない時点でここの使用人ではないとわかる。かといって、今までアリアにつけられた講師陣と比較すると若い。アリアの講師は基本的に年嵩の増した者たちだ。
だが彼は、アリアと同年代の青年に見えた。
「いつまでぼーっとしてるんだよ」
「ーーっ!」
入り口で青年を観察していたアリアに、彼は猫のようにしなやかな動きであっという間に距離を詰めた。
鼻先がくっつきそうなほど顔を近づけた彼は、断りもなくアリアの前髪を勝手に持ち上げる。戸惑う間も無く、あまりの俊敏さに思わず固まる。
平民貴族関係なく失礼な行動だが、逃げる暇さえなかった。
「なるほど」
ハニーイエローの前髪が塞いでいた視界に、何より近い黄金の瞳がすぅと眇められる。
遠目で見ていた彼は活発な青年という印象だったが、眇められた眼差しの強さにギシ、と体が固まる。
妙な威圧感のある人だった。
無意識に一歩後退するが、前髪を掴んだ手がそれを許さない。
されるがままのアリアの真正面、満月の瞳に銀の円環が映り込んだ。
「碧眼のなかに円環がある。確かにイースノイシュの直系だな。ん? 多少形が歪か?」
「はぁ」
「ノクト!」
「はいはい悪うございました」
「謝る相手が違う。すまないな、アリア。彼は対人距離が狂っているんだ」
「ナチュラルな悪口」
だははと口を開いて笑うノクトと呼ばれた青年は、やはり貴族というより平民のような親しみやすさがあった。
けれど、彼も間違いなく貴族の一人だろう。
「ノクト」と、シルヴィオが名を呼んだ。
使用人でもない人間を、家名ではなく名前で。当主代理の彼が名を呼ぶのなら、平民ではない。
男爵や子爵階級の次男や三男には度々こういう人がいた。
彼らは家を出ることが産まれた時から決まっているため、騎士や文官を目指す人が多く、イリスの庭にはそういう人たちも時折食事をしに来ていた。
だからこそ、公爵家のシルヴィオと軽口の応酬をしているさまが不思議だった。
ノクトの仕草は貴族というより平民だ。だからこそ下位貴族の人間だと思うのが、こうしてシルヴィオと気さくに談笑できる関係なら上位貴族の末子か、知人の紹介で親しくなった間柄なのだろうかとアリアは思う。
「に、しても……急に呼び出すから何かと思えば、これは確かに講師を呼びづらい顔だな」
未だアリアの前髪を掴みながらニヤニヤと揶揄うように嗤う男は、晒された顔をじぃと見る。人の視線に晒されることが多いアリアだが、さすがに至近距離で見られることはあまりない。
異母兄であるシルヴィオでさえ、すぐに視線を逸らしていた。
どういう意図で見つめているのだろう。
不思議に思いながら、真正面にある彼の顔をじぃっと眺めていると、パチンと瞬く男の瞼の向こう側、月に似た瞳に星のような形が見えた。
瞳のなかに星がある。
不思議なそれを食い入るようにアリアが眺めていると、視線を絡ませた彼は一歩引き、そのタイミングでシルヴィオが彼に声をかける。
「頼めますか」
「ああ、納得できたしな」
二人で話し合いを始め、アリアは放置される。
高貴な身分の二人を前にすると、平民のアリアでは介入できない。手持ち無沙汰のままぼんやりと彼らを眺めていると、ふとこちらを見たシルヴィオと目が合った。
「すまない、話し込んでしまった」
「いえ。大丈夫です」
「気軽に声かけてくれたらいいのに」
「それは……」
無理だ。
彼らがアリアのことを「アリア・イースノイシュ」という公爵家に連なる者として扱ったところで「アリア・リィル」として十五年生きている。そう簡単に人間の価値観は変わらない。
かといって、正直に言うことも不敬になりそうなためアリアは言い淀むしかできない。シルヴィオはその様に何か言いかけたが、口を開閉するだけで音にならない。
二人の空気を眺めていた男が嘆息し、トンとシルヴィオの脇を小突いた。半眼がシルヴィオを見る。
「で、いつオレのことを紹介するんだよ」
「あ、あぁ……そうだったな。ーーアリア、彼はノクト。ダンスの講師として来てもらった」
「よろしくな。それなりにダンスはできるぜ。もっとも、オレも普段と違うパートだからそんなに巧くないけど」
「大丈夫でしょう。基本的に学園でダンス行事は見送る計画です。それにアリアは優秀ですから」
「いえ、別にそんなことはないです……」
恐縮するアリアと褒めるシルヴィオ。
どこか辿々しい二人を眺め、ノクトは苦笑を浮かべながらアリアの前に立つ。先ほどの遠慮の欠片もない仕草が嘘のように、洗練された動きだった。
「じゃ、まずは動きの確認から始めるか。ーーお手をどうぞ、アリア殿」
◇ ◆ ◇
タンっ。
軽やかに足が動く。二人だけが踊るホールに衣擦れの音とわずかな呼気が響いていた。
華やかなホールだが踊る二人は簡素な服を纏い、片方は真剣な顔をしながら、片方は緩く微笑みながら踊っていた。
「視線が下がってる、少し上を向くつもりで意識して。足を見ると背中が曲がってみっともない」
「はい」
ステップは難なく覚えたが、リズムを取ることが難しく、なかなか思うように動けないアリアに「じゃあ、一回踊ってみるか」と、早々にノクトは判断した。
今のままでは足を踏んでしまうとアリアは伝えたが、やってみなければ分からないと強引に詰め寄られ、ホールの真ん中へとエスコートされてしまった。
「ほらまた見てる。足下は見ない、視線はまっすぐ、背筋も伸ばせ」
「はい」
リズム感はいまいちなアリアだが、物覚えはいい。
あらかじめシルヴィオから情報を得ていたのだろう。頭で考えるよりも、体に叩き込んで学ばせる方針のようだ。
最初は足をもたつかせていたアリアだが、ノクトは教えることが巧く、またダンスも巧い。初めて踊るアリアでも、彼に身を委ねれば楽だと分かる。
だからといって、貴族の足を踏む可能性のあるダンスは、慣れるものではなかった。
「そんなにガチガチにならなくても、ある程度踊れている。踊りが下手な貴族に比べたら初めてとは思えない」
「必死、です」
「ははっ、あとはそれが顔に出ないようにしないとな。必死な顔して踊ってるやつなんて滑稽だぞー」
そうは言っても、初対面の人間と初めてダンスをするとなれば緊張してしまう。足を踏まないように意識しすぎるとリズムが崩れ、かといってリズムを意識すると動きが固くなる。
表情の固いアリアにノクトはニッと口角を上げ、リードのために繋いでいた手を引き離した。ふわ、と二人の体がすこしだけ離れた。
「え」
「こうやるんだよ!」
空にあった手を再び絡め取られ、ノクトの腰に当てていた手がいつの間にか外される。逆に彼の手がアリアの腰を掴み、ぐっと身を寄せてきた。
「ノクト!」
「だーってこいつ緊張しすぎなんだよ!」
ケラケラ笑って外野のシルヴィオと軽口を交わすが、ノクトの動きはスマートだ。アリアとあまり変わらない身長でありながら、体幹が安定しており、腕もしっかりアリアの体を支えている。
リードする側の動きでダンスの難易度は変化する。
先ほどの自分の体の硬さを思い出し、ノクトの緊張しすぎという発言にアリアはなるほど。と、思う。
リードする側が緊張でガチガチだと、リードされる側にも緊張が伝わって体が硬くなってしまう。
ダンスとは軽やかでスムーズな動きが美しく見える。
柔らかな動きで踊る集団のなかに、硬い動きでおこなわれるダンスはさぞ滑稽な動きに見えるだろう。自分だけではなく、相手がいるからこそスムーズな動きが必要になる。
アリアは真似が得意だ。
ノクトの足運び、息遣いを意識する。そうすると、固まっていたアリアの体が緩やかに弛緩していく。のびのびとした動きは、今教わったばかりとは思えない。
凄まじい速さで対応してくるアリアの動きにノクトは口角を上げた。
「リードはちゃんとしろよ。体は密着させるが厭らしさを感じさせるな。必死さは初々しいが、身分の高い令嬢は嫌がる者が多い」
「はいっ」
「と、いうわけでもうちょい体を寄せてみろ。まだすこし距離がある。足は踏んでも良い。そもそも初心者だからこちらも覚悟の上だ」
「はい!」
足を踏むかもしれない恐怖が根底にあり、そのため半歩後ろに下がっていたアリアの体がぐっとノクトに近づいた。息すら届きそうな距離だが、これが適正な距離だと教わる。
間近にある月を連想する瞳がアリアを見る。その眼差しも適正な位置なのだろうかと思いながら、アリアとノクトはゆっくりとダンスの終焉を迎えた。
「……シルの言った通りだな。めちゃくちゃ優秀だ。これなら入学までに間に合う。本当にダンスの経験がないのか?」
「ないです」
「はー。才能ってやつだな。兄貴以外にもそんな奴がいるのか」
汗をかいたノクトとアリアにシルヴィオがタオルを渡す。表情は明るく、満足げだった。
アリアは剣術で体を酷使している。耐えきれずへろへろとその場でしゃがみ込んでしまうと、いつの間にかいたノエルが冷たい紅茶をアリアに差し出す。喉を鳴らしながら飲んでいると、頭上でシルヴィオとノクトが笑い混じりで話していた。
「嬉しい誤算です。剣術と馬術に打ち込めるので」
「そりゃそうだけど、武術はそこまで極めなくてもいいだろ」
「ですがスジが良くて素直なんですよね。伸び代があります。一度見てみますか?」
「まあ興味はある。さっきのダンスの動きも見ていたし」
「でしょう?」
とんでもなく恐ろしいことを言われているなとアリアは思っているが、一度座り込むと疲労のため言葉も出ない。ゆっくりと呼吸を落ち着かせ、のろのろ立ち上がるアリアにノクトが手を伸ばす。
「さ、とりあえず感覚は掴めたな? 練習練習!」
「あい……」
ケラケラ笑う男の手を取り疲労に満ちる体を叱咤する。体は限界だが、時間がないためタイトスケジュールでこなさなければならない。
へとへとの身に鞭を打ち、重ねた手の先ある青年を見る。
黒髪、満月のような瞳、人懐っこそうな表情。
アリアと同年代と思われる青年。
不意に、思い出した。
貴族名鑑に――ノクトの名も、彼の写真も見当たらなかった、と。