06. 輝かしい世界の醜い裏側④
シルヴィオが五歳の時、ヴィヴィ・リィルはランドリーメイドとして雇われた。
イースノイシュ家の使用人の大半は他家からの紹介か、昔から仕えている者ばかりだが、当時、定年の者が偶然多く出たため、斡旋業者や知人に依頼して使用人を募集していた。雇われたうちの一人がヴィヴィである。
住み込みで働く者が大半だったが、彼女は遊ぶためか、職場内で寝食をすることを嫌がっていたのか、平民街から通いで勤めていた。
ランドリーメイドは激務だが、よくもまあ遊ぶ時間があるものだと品のない話が邸に広まったが、公爵や公爵夫人と顔を合わせることはなく、ヴィヴィは用意された仕事を過不足なく行っていた。
彼女の日常が壊れたのは、ヴィヴィを気にして公務を放り出した男がリネン室を覗いたせいだ。当主が足を踏み入れてはならない使用人の職場に、男は土足で踏み込み、容赦なく荒らした。
男は一目で彼女を気に入り、その日からヴィヴィはランドリーメイドではなく、公爵の愛妾になった。
公爵にとって、ヴィヴィが初めての浮気相手というわけではない。
政略結婚だった両親は、跡取りであるシルヴィオが産まれると互いに恋人を作った。恋人は定期的に変わり、貴族の遊びだと周囲からも黙認されていた。
だから、公爵がヴィヴィに手を出した時もすぐに捨てるだろうと周囲の者は考えた。使用人に手を出したことに顰蹙を買ったが、彼女の見目により納得され、誰も嗜める者がいなかった。
それがまさか、家を傾ける騒動になると誰も思わなかった。
シルヴィオが六歳の時、ヴィヴィは前触れもなく邸から姿を消した。
勤務時間になっても姿を見せず、通いで来ていた彼女は住んでいたアパートを引き払い、忽然と姿を消した。斡旋業者は潰れて跡形もなく、ヴィヴィの遊び相手と言われていた者たちは誰一人、彼女の居場所を知らなかった。
別の者を新たに恋人にするかと思いきや、父は心を乱し、一心にヴィヴィの行方を追った。その姿は鬼気とし、幼かったシルヴィオの心に根差した。
女を追い、仕事を捨て、家にも寄りつかない男に、母も流石に嗜めたが効果はなかった。それどころか、執念で探し出したヴィヴィの腹に子ができたことを知った男は、嫉妬と怒りに支配され、妻に激情をぶつけるようになり、表面上だけでも家族を気取っていたイースノイシュ家は瓦解した。
彼女はたった一年でイースノイシュ家に消えない爪痕を残し――シルヴィオが七歳の頃に血縁を残した。
公爵はたった一言尋ねればよかったのだ。
「腹の子は、誰だ」
けれど、男にはその勇気がなかった。
ヴィヴィと再会した時、公爵は誰の子なのか彼女に問えなかった。自信がなかったのだろう。
歳若く、見目麗しい女は様々な男と浮名を流していた。某伯爵家嫡男と知人だったり、商人の男と飲み友達だったり、公爵の知らないところで彼女は多くの男と縁を繋いでいた。
遊びの恋しかしたことがない男は、初恋に身を焦がし、焼き尽くされた。
だから恐ろしくて尋ねることができなかった。
ーー腹の子は誰だ、と。
しかし、シルヴィオは孕んだ子が己の血縁ではないかとずっと疑っていた。
確かに彼女は幾人もの男と知人だったが、彼女は己の顔の良さを理解してあくまで遊んでいた。誰かに本気になるような女には見えず、そんな強かな性格の彼女が子を孕むようなミスをするとは想像できなかった。ミスをするとなれば、公爵との関係ぐらいだ。
ヴィヴィにはどことなく計略を練って男を選んでいる節があり、シルヴィオは、子ども心に嫌悪を抱いた記憶があった。
しかし、父は他の男に孕まされたと思い込んでから一切の情報を得ようとしなかった。女を愛し、女を囲い、その感情は日毎に増し、ついには仕事を放り出すほど執着していたはずなのに、逃げた女の膨れた腹を見て男はあっけなく彼女を捨てた。
シルヴィオもそこで、ヴィヴィと子の二人を忘れられていたら良かったのだ。
でも。
消えなかった。
シルヴィオはずっと、アリアを気にして生きていた。
そして、腹が凹んだヴィヴィと腹から出てきた子どもアリアを――父に内緒で見つけだした。
鮮やかな碧眼。
遠目から見てもわかる色。
その奥は見ずともわかる――円環がある、と。
二人は公爵家に近づこうとはせず、質素堅実に生きていた。
奔放と言われているヴィヴィなら、碧眼を見てイースノイシュ家に戻るかもしれないと思っていたが、彼女はアリアと二人、貴族から隠れるように平民街で息を潜めて生きていた。
イースノイシュ家に頼ることもなく、利用することもない。平凡な、普通の平民そのものの生き方。
ただひとつ、アリアが妙に汚されていることを不審に思ってはいた。ヴィヴィは他の平民と変わらぬ衣服を着ているが、アリアは他の子どもより汚い格好をしていた。
当時、アリアはヴィヴィ関係で何度か誘拐をされていたため、誘拐犯にヴィヴィ・リィルの子どもだと分からないように、利用されないように汚く見せているのだろうかと思っていた。
その考えも間違いなくあっただろう。
しかし、何よりヴィヴィが気掛かりだったこと。
今ならわかる。あの顔は――危険だ。
人を魅了し、焦燥を掻き抱かせる。
手に入れたいと、切望させる魔性の美貌。
子どもの頃に見たヴィヴィ・リィル。
その片鱗が、先ほどのアリアにはあった。
風呂に入る前のアリアは、小汚く、ひどいにおいを放っていた。生気のない眼差しが伸びた前髪を通して視界に入り、他者に不快感を抱かせる。遠目で見ていた通り、道端で蹲る浮浪者となんら変わらなかった。
だが、ひとたび洗い流せば生来持っていた輝きを取り戻す。物語に出てくる存在のように麗しく、鮮烈な輝きを放つ人間として。
「見目がどうであるか、本来ならどうでもいいのにな」
シルヴィオも見目の件で面倒は多い。
金色の髪と碧眼と公爵という身分は、貴族の中でも上位ステータスだ。手に入れたいと希う女性や家は多い。
それでも、婚約者の選定時では、良くも悪くも父親が女に狂っていたため煩わしい申込はなかった。伯爵位や侯爵位の人間から、ハズレの公爵家と散々言われていた程だ。
だが、精神を病んだ父から立場を簒奪し、軟禁に近い形で領地に押し留め母親を付き従わせてからというもの、面倒な父母のいない年若い御し易い公爵家当主と認識され、夜会で媚びる女や家と顔を合わせるようになった。
綺麗な金髪、精悍な顔、逞しい体。
当主代理としての仕事ぶりを褒めるわけではなく、ただあるがままを誉められたところで、失笑が浮かぶだけだ。それでも今までの汚名を払拭すべく、シルヴィオはにこやかに微笑むしかない。
それだけでも疲労が蓄積されているというのに、ヴィヴィやアリアの苦労は想像に容易い。
シルヴィオは、徐にデスクの端に寄せていた書類に手を伸ばす。
そこには、今後のために用意したマナー講師一覧表がある。だが、このリストは使えないと書類を伏せた。
見目のせいだけではない。アリアは、すでに必須マナーを最低限学んでいた。
文字の読み書き程度はできると聞いていたが、食事のマナー、立ち居振る舞いに問題が見当たらなかった。
感情的になる時が度々あり、表情や仕草に表す浅はかさや言葉遣いは平民そのものだが、勘も鋭く頭は悪くない。感情的になる原因も今の状況を鑑みれば許容範囲だ。
ーーおそらく、ヴィヴィが教育を施していたのだろう。
シルヴィオの父だけではなく、数多の男を虜にした彼女は美しいだけで恋われていたわけではない。まるでどこかの貴族のように、華やかで、尊大で、姿勢や言葉が美しかったからこそ、欲されていた。
彼女が生きていた時、一時はどこぞの貴族の子か、はたまた王の落胤かと噂されていたが、物好きが確認したところ、該当する女性はいないと結論がでた。
それでも一人でアリアの教育を施した結果を見るに、間違いなくただの平民ではなかったはずだ。
彼女が亡くなった今、何者だったのか知る術はない。
しかし、彼女がいたからアリアに必要な最低限の教育は、大幅に短縮できる。
「――講師の選別が改めて必要だな」
知識だけの教育ではなく上位貴族のマナー、ダンス、最低限の剣術、馬術。できれば現在の貴族名鑑もすべて記憶させたい。
時間がないなら質でカバーするしかないが、あの顔に影響されるような講師は無意味だ。特に、ダンスレッスンは体を近づけるため、否が応でも目にするだろう。魔性と言えるあの顔を。
しかし、選別に時間を割く余裕はない。ただでさえ学園入学まで時間がない。
噂によると、すでに学園では貴族の家格を無視した新興貴族が我が物顔で振る舞い、今までの歴史や伝統を蔑ろにしていると聞く。
爵位など関係ないと平然と謳い、新たな王妃は男爵家から出ると当然のように言い放つ。爵位が関係ないと宣言するなら、貴族や平民という隔たりすら不必要になるというのに。
彼らの通う学園は貴族位か、多額の寄付をした金持ちしか通えない学園だ。
格差がある場所に身を投じながら、格差は必要ないと語る。ダブルスタンダードだ。その思想には己の有利性しか考えていない。
誰より間近に見ている第一王子は何も語らず、その暴挙を眺めている。
シルヴィオは第二王子を入学させたくはなかった。いっそ隣国へ留学すべきだと説得していた。
だが、彼は逃げるべきではないと語り、魔女がいる学園に自ら身を投じることにした。シルヴィオは年齢のせいで学生として入学できない。彼を守ることができない。
だから、苦肉の策として――今まで見て見ぬ振りをしていた、アリアを利用した。
盾にもなり、生贄にもなる人間。
貴族にとって無価値な道具。
アリアの存在がどう転がるかは分からない。
事態は好転するのか、それとも。
「アリア・イースノイシュ……」
不可思議に人を虜にする男爵令嬢と、小汚い服装で扮装する美貌の公爵子息。互いに庶子の二人が関われば一体どうなるのか。それは、誰にもわからない。
すでに賽は投げられた。
ならばあとは、進むだけだ。