04. 輝かしい世界の醜い裏側②
「今日は泊まっていきなさい。君も、色々と思うところがあるだろう」
シルヴィオはそう言い、メイソンに部屋を案内させた。
外で常識外れの会話を聞いていたはずの家令は何も言わず、用意している部屋へにこやかにアリアを案内する。
普通なら、主人が婚外子を連れてきて王族の護衛に任命する! と、なったらいち早く家令が止めただろう。しかし、彼は何も言わない。
ここに案内される前から、一から十まで計画されていた今回の話。
確定路線のそれから逃げ出すことができないと、老齢の男にまで語られている気分だった。
案内された部屋は、アリアの小さな自室がすっぽり入ってもまだまだ余る広さだった。
壁に飾られた絵はアネモネを描き、部屋の隅には出入口とは別の扉がある。勝手に開けた先に何があるか分からないため、放置した。そもそも室内の装飾など目に入らず、ただただアリアは先ほど聞かされた話を考えていた。
眩い西陽が差し込む瀟洒な室内で、天蓋付きのベッドに背を預ける。冷たく柔らかなシルクのシーツが体を受け止め、その冷たさはアリアの思考をクリアにした。
午前中は普段と同じようにイリスの庭で働いていた。
ジャガイモの皮を剥き、今夜はシチューかポトフが食べたいと呑気に考えていた。
それがまさか、数時間後に公爵家の客室で転がっていようとは誰にも予想できるはずがない。
食む空気ですら高価な気がして、息することも重苦しい。そんな人間が公爵家の血を引いていると誰が思うのだろう。自分でさえ信じられない。
けれど碧眼と銀色の円環が、イースノイシュ家の血族だと知らしめる。
そっと、瞼の上から瞳に触れる。
複雑な心境が乗った手指は瞼から緩やかに離れ、ばたりとベッドシーツに埋もれていった。
はらはらと散らばった髪の合間から覗く天井の光を見つめながら、ゆっくりとアリアは身を起こす。
――これから、どうなるのだろう。
ヴィヴィが亡くなってしばらくは、様々な問題ごとがそれはもう頻繁に起きていた。
ヴィヴィの子どもということでアリアを尋ねてくる者、家を探す者、ヴィヴィの墓を暴こうとする者、アリアを見てあからさまにがっかりする者。嫌な人間はこんなにいるのだな、とアリアは思ったものだ。
しかし、彼女が亡くなってすでに六年。
彼女を知る者は身近にイリスしかなく、突然の来訪者はいなくなり、すっかり落ち着いた日常を謳歌していたというのに、まさか公爵家と関わるとは想像していなかった。
シルヴィオはゆっくり休めと言っていたが、今後を思えば胃が痛い。
彼は丁寧な言葉で側近兼護衛だと言っていたが、言葉の裏にある真意はていのいいサンドバッグを求めているというものだ。
第二王子を得体の知れない魔性の女から守り、彼女に籠絡された第一王子達からも庇い、新興貴族からも守らなければならない。
そのような条件を飲んで仕事を行うのは、所詮どうでもいい人間だけだ。
貴族の令息に頼もうものなら弱みとなって頼れない。見知らぬ平民は信用できない。
血の繋がりがあり、逃げられない存在。
利用価値の高い人間は誰より自分だと、アリアは痛感した。
ただ、教育を受けられることはアリアにとって大きなメリットだった。この仕事が終わった後、就職の折に公爵家の後ろ盾を得られる可能性も条件としてはうまい。
期限も一年。
学ぶ期間は三年まで延ばして良いと言われた。
問題があるのは第一王子達や男爵令嬢のため、彼らが卒業したらアリアはお役御免だ。
つまり、アリアにとって利も確約されてはいる。
だが、貴族同士の苛烈で下劣な足の引っ張りあいを思えば、自然とため息が溢れてしまった。
これならイリスの店で陰口を叩かれながら働いている方がマシかもしれない。
日がな一日ジャガイモの皮を剥き、ニンジンの皮を剥き、荷物運びに没頭する。頭を働かせずに済む仕事だ。
それだけに集中していたら、一日は容易く過ぎていく。
「逃げたい……」
ぼそ、と無意識に逃避の言葉が落ちた瞬間、トントンと、壮麗な扉の向こう側から控えめなノックの音がした。
あまりのタイミングの良さに、逃がさないと、暗に告げられているように感じた。
「……はい」
「アリア様、入室してもよろしいでしょうか」
「はい。大丈夫です」
「失礼します」
自身のだらしない姿勢に気付き、慌ててベッドから体を離すと、開いた扉から一人のメイドが現れた。
彼女は姿勢を正し、頭を垂らす。アリアも慌てて会釈するが、頭の上がった彼女の表情には使用人としての笑みが張り付くだけだった。
現れたメイドは榛色の髪を持ち、深緑の瞳を持つ清廉な空気を持つ人だった。年齢は二十代前半ぐらいだ。
彼女は音もなく一歩を踏み出し、廊下から聞こえた声と同じ音が耳をうつ。
「今日からアリア様の専属メイドとなります、ノエル・ラングレーと申します」
「よ、よろしくお願いします……というか、せ、専属とは……?」
ノエルと名乗った彼女は先ほどよりわずかに口角を上げ「はい」と、言葉を続ける。
「専属とは、言葉の通りアリア様の身の回りのお世話をする専任の者です」
「お世話」
「学園に入学するので期間は短いですが、こちらにいる間の食事、着替えのお世話等々何なりとお申し出ください」
「食事、着替え」
「もうすぐお食事の時間ですが、その前に一度、体を清めましょう」
「体を清める」
まるで何かしらの玩具のように言葉を繰り返すアリアを見て、ノエルはにこりと笑った。
「では、衣服をお預かりします」
◇ ◆ ◇
ノエルはバスルームまでついこようとしていた。
もちろん、断った。
平民は基本的に大衆浴場だ。
一軒家なら風呂が一応ついているが、貴族以外の平民は大体大衆浴場で汗を流す。
湯を沸かすための燃料の薪が、王都では伐採できないからだ。
以前は郊外から薪売りが運んできていたが、この一年で王都付近の山はすっかり刈り取られ、代わりに宝石や衣類の加工場が乱立している。
大衆浴場は国営施設だ。
ここでは薪で湯を沸かすのではなく、隣国から購入した火の魔石を使い湯を沸かしている。
基本的に魔石は大きさに合わせて使用回数がある。
けれど大衆浴場の魔石は巨大なため、半永久的に湯を沸かせる仕様だ。
ベルンハルト王国では魔法は使えないが、隣国は魔法大国だ。
そこでは魔力を含んだ石「魔石」が採掘される。魔石は魔力のない人間や、魔法の使えない土地でも魔法が使える石だ。
はるか昔、友好国の証として巨大な魔石が送られ、王国はそれを公衆衛星向上のために利用し、大衆浴場を建築した。
魔石は小さくとも高価なため、平民が簡単に購入できるものではない。そのため、民間の湯船には基本的に薪が利用されている。
アリアは集合住宅に住んでおり、小さなトイレとミニキッチンが併設された小ぢんまりとした部屋で暮らしている。当然、風呂はない。
そんな暮らしをしてきた人間がいきなり「体を清めましょう」と、言われても恐縮するしかなく、案内されたバスルームの広さを見て言葉を失い、小型の魔石が利用されている仕組みを見つけて目眩を起こす。
このような状態でお世話されながら風呂に入れるわけがない。
さらに固まる自信がある。
そのあたりの平民の脆い心情が考慮されたのか、それともアリアに触れたくないのか分からないが「一人で入ります!」と、勢いよく伝えると洗面器具の使い方や洗剤等の説明をして、ノエルはアリアをバスルームに残し、出て行った。
一人になったアリアは閉じた扉を確認してその場にしゃがみこむ。
その扉は先ほどいた部屋につながっていた。アリアが無視していた扉は、バスルームの扉だった。
客室にバスルームがある邸、とんでもないなと思いながらアリアは脱衣室で服をのろのろ脱ぐ。いっそ入らないという選択肢もあったが、流石にいつまでも汚い服装で邸内を歩き回る度量はない。
今日は朝一で畑に向かい、店で使う野菜を用意していたため服のあちこちに土がついてる。
今更だが、この状態でベッドに飛び込んでいたことを思い出して青ざめる。普段なら絶対にそんなことはしないのに、思った以上に追い込まれているんだなと項垂れた。
「はあああ……」
初めて入る個人用湯船を汚してしまうことが恐ろしく、入る前にアリアはゴシゴシと体を洗う。とんでもなく良い香りのする洗髪料を用い、ありえないほど泡立つ石鹸で体を洗う。
茶色の汚水が透明になるまで何度も繰り返し、漸く湯船に身を投じた。久しぶりの風呂は心地良かった。
大衆浴場はお世辞にも綺麗な水ではなく、知らない人間と裸で肩を並べる気まずさもある。それと比べると、個人用の湯船は居心地が良く、人の煩わしさもない。
高くとも個人宅に浴室をつける人の気持ちが、なんとなくわかってしまった。
もっとも、洗剤の甘い香りとたっぷりの湯を使う贅沢は個人宅でもなかなか体験できないだろう。貴族でなければ、あり得ない。アリアは一人「金持ちってすげー」と、言葉を吐く。
バスルームで反響した感想は程度の低いものだ。
そんな感想しか出てこない人間が、公爵家の人間として第二王子の護衛に任命されてしまった。
明らかに無茶無理無謀だ。
「断れないかな……」
「アリア様」
「うわっ、え?!」
ばしゃん! と、湯のはねる音が盛大に響く。
脱衣室から先ほどのメイドの声がした。彼女の影が扉越しに揺らめくさまを視認し、無意識に湯船の中で後ずさる。
「失礼しました。着替えもお一人でなさいますか?」
「だ、大丈夫です! 一人でできます!」
「承知いたしました。もし難しいようでしたら、呼鈴でお呼びください」
静々と消えるシルエットを眺めながら、行儀悪く湯の中でぶくぶくと息を吐いた。愚痴すら吐き出しづらい環境に、腹底へ疲労が蓄積されていくようだった。
(ここで落ち着ける場所はなさそう……)
重い空気を双肩に乗せ、アリアはノエルの消えた脱衣所に体を移した。埃や土で汚れていた服は姿を消し、彼女が用意した着替えがそこにある。
先ほど来た理由は着替えの回収だったようだ。
深緑の生真面目そうな瞳を思い返し、仕事とはいえ、汚い服を渡すような形になって申し訳ないと反省する。
だが、その感情は置いてあった新たな着衣により少しだけ薄れた。新品の白いシャツに紺色のトラウザーズがラタンの籠に用意されていたからだ。
「……」
平民が普段着として買うような服ではない。
手触りの良い生地だ。普通に生きている平民なら、いざという時に奮発して買うものだろう。けれど、シルヴィオが着るのかと問われると首を傾げるシンプルさだ。
それが当然のように用意され、そのうえサイズもぴったり。出会って早々服のサイズは普通わからないだろう。つまり、これが今日買ってきたばかりのものではないことを悟る。
もはや呼吸全てがため息になってしまったかのように、アリアは息を吐き、仕方がないと用意されたものを身に纏った。
するりと滑る肌触りを不思議に思いながら、あ、と気づく。服だけが綺麗になったのではなく、湯船に浸かり汗を流し、たっぷりと高い洗剤を用いて何回も体を洗ったことで、アリア自身もすっかり生来の白さを取り戻していた。
垢のこびりついていた浅黒い皮膚は白雪を連想するような白になり、陶器のようにつるりとした滑らかさを誇る。普段香る汗や泥の香りも消失し、代わりに清潔感のある洗剤の香りが漂っていた。
タオルの乗った頭には藁のような色ではなく、明るいハニーイエローの髪が雫を纏っている。額に張り付くそれを煩わしそうに指で払いながら、アリアはパチンと、服の金具を留めた。
着古されたボロボロの衣類は姿を消し、シンプルな衣服がアリアを包む。その姿を見た者は、十人中十人がまるで別人だと明言しただろう。それほどまでに、変化していた。
アリアも別に風呂は嫌いではない。
むしろ好きな部類だ。
けれど、ヴィヴィの小汚くしていれば他者は厭うて近づいてこない。という言葉を憶えており、あまり風呂には入らなかった。
それでも以前は度々大衆浴場を利用していたのだが、この冬から大衆浴場で働く清掃員が減ったため、アリアのような見目のものは入場自体を禁じられていた。
どうやら経費削減の名目の元、大幅な事業改革があったらしい。
大衆浴場は公共事業のため、国が低価格で運営していたが方針が変わったのだろう。一定の利用料を取るようになった。
公衆衛生を守るべきだと住民からクレームが来たが、低価格で薪を売るようになり、自宅に風呂がある者たちからはクレームがおさまった。
そして自宅に風呂がなく、金もない者は浮浪者のように小汚い姿で過ごすようになる。
アリアといえば、普通に働いているため利用料を払えるが、どうも見目から浮浪者だと判断されたらしく、入場の案内係に毎度止められていた。
そのため仕方なく、自室で体を拭うようになった。
冬場だから耐えられたものの、さすがにこのまま続けば、アリアもイリスの家に押しかけ風呂を借りようと思っていたところだ。
だから、こうして久々に全身の汚れを落とせたのは気持ちよかった。
「ふぃー、疲れた」
肩にタオルをかけ、ばたばたと手で顔を仰ぐ。
冷たい水を飲むために、先ほどの部屋へ戻るための扉を開ける。
「お疲れさまです、アリア様」
「うおっ?! あ、いや、お疲れ様でした……」
まさかノエルがまだいるとは思わず、アリアはずいぶんな間抜け声を出す。けれど、アリアよりも驚いた表情をしていたのは目の前のノエルだった。
「……」
深緑の瞳で食い入るようにアリアを見る。
何か変なことでもしたか? と、びくびくするアリアに、ゆらり、ゆらりと幽鬼のように足を踏み出したノエルはガシッとアリアの体を掴んだ。
「ひ」
「アリア様」
「は、はいっ!」
「ひとまずお髪から、整えましょう」
爛々と目を光らせた彼女に否と言えるわけもなく、アリアは何度も首肯を繰り返した。