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20. 幕間

 フィルディナント・アズノーラはベルンハルト王国の宰相であるアックス・アズノーラの嫡男である。

 第一王子のディーノの一番の側近として、次期宰相候補として貴族令息の中でも特に勉学に励み、周囲から与えられる期待に押しつぶされまいと努力してきた。

 フィルディナント自身、勉強が好きだったため苦にしたことはない。仕えるべき主人のディーノも第二王子と違い温厚で優秀だった。そのため補佐業務に困ることもなく、フィルディナントは人生に戸惑いを生じたことがなかった。

 このまま宰相として父と同じように働くのだろうと思い、彼は今日まで生きている。

 先人の作った轍をそのまま歩く。

 疑問はない。戸惑いはない。


 けれどーーそれで良いのかと、心の裡で誰かが問うた。



『フィルくんは、頑張り屋さんなんだよ。何にでもなれるのに勿体無いね』



 突如として彼の人生に入り込んできた女が言った。

 その言葉はフィルディナントの人生に、新たな価値観を与える言葉だった。


 今までのフィルディナントの人生には王族と近しい高位貴族の人間しかなかった。良くも悪くも周囲の人間は品行方正で振る舞いは優美な方々ばかりだ。

 時折、ノクラウトのようなヤンチャな人間も見るが、彼もなんだかんだ正式な場では弁える姿勢をとる。真実、空気を乱すような人をフィルディナントは見たことがなかった。

 けれど、フィルディナントはある日、運命的な出会いをする。


 ルーラ・レーヴェルシュ。


 彼女はフィルディナントが一人読書をしている裏庭に「猫さんがいるー!」と、流星のような勢いで乱入してきた。

 突然現れた人物にフィルディナントが驚いていると、彼女も人がいることにようやく気づいたのか、恥ずかしそうに葉っぱのついた頭を払い「一緒にここにいてもいいですか?」と、チラチラと猫を見ながら問いかけた。

 そういえば最近こういう人間がディーノ殿下に近づいていたな。と、フィルディナントはルーラを見て気づく。ストロベリーブロンドに、スカイブルーの瞳。あまり見ない外見のため記憶に残りやすい。

 最近台頭してきたレーヴェルシュ男爵家の令嬢にして、引き取られた婚外子。

 学園は身分平等を謳っているが、一歩外を出ると確固とした違いが存在している。それをしっかり把握できていないのか、それとも把握したうえで距離を縮めようとしているのか、彼女はディーノに対し「ディーくん」という愛称で呼びかける変わり者だ。


 関わりたくないと一瞬思ったが、裏庭は静謐な空間で王子の姿もなければ地べたに座って本を読んでいるフィルディナントしかいない。それにーールーラがいようといまいと読書はできる。

「好きにしなさい」

 と、言うと彼女は本当に嬉しそうな表情で猫を構いだした。

 朗らかで裏表のない表情。貴族とは違う、あけすけなのない感情がそこにあった。


 その日から、時々フィルディナントのいる時に彼女は現れるようになった。

 猫のための餌を持ってきていたり、おもちゃを持ってきていたり。いつしか、ルーラは本を片手に現れるようになった。

 フィルディナントが読み終わった本を改めて図書室で借り「フィルくんの読んでいるものが気になっちゃって」と、許可を出していないのに勝手な愛称で呼ぶようになった。

 それが周囲の目のある場所だったら、フィルディナントは注意しただろう。

 しかし裏庭は彼にとって憩いの場所であり、ルーラもその一部になっていた。

 気づけば季節は巡り、時間の経過と共に彼女との距離は近くなる。


 そして彼女が本を読んでいる間、独り言と称してフィルディナントは無意識のうちに悩みを告げた。

 それは、独白のように平坦な声音で始まった。



『私はこのまま、ディーノ殿下の側で決まりきった人生を送るのでしょう』



 宰相の子どもという立場のフィルディナントは、学園に入学後当然のように副会長に就任した。

 ディーノは会長になり、二人三脚で業務につき運営してきた。波風なく、起伏もない。思考を巡らせて最良の結果を出したとしても、それが当然のように受け止められる。

 少し手を抜いても気づかれない。よくできていると教師は褒め、媚びるようにフィルディナントを褒める。

 不足があれば流石に彼らも何かを言うだろう。だが、ディーノとフィルディナントが二人揃って適当な結果を出せば、それで十分なのだ。

 最良は不必要で、妥当が一番。先人と同じクオリティならそれでいい。

 これがーー一生続くのものだとフィルディナントは気づいた。


 山もなく谷もなく、順風満帆の人生。

 人はそれを幸福と呼ぶのだろう。

 けれど年若いフィルディナントは眩暈を覚えた。


 用意された婚約者も温厚で粛々とした女、問題はなく共に過ごして心が乱されることはない。

 立場は親から、女も親から、人から羨ましがられる見目も親から受け継いでいる。悪いことではない。思い悩むことは一切ないはず。けれど不意に考えてしまう。


 ――私の人生に、私の意思はない。



『フィルくんは、フィルくんだよ。自分の意思で何にでもなれるんだよ。宰相様以外にだって、望めば何にでもなれるよ!』



 宰相の令息としてしか見られたことのないフィルディナントにとって、ルーラの言葉は背中を押す言葉だった。

 先人の轍を進むだけだったフィルディナントは少しだけ、寄り道をしたかった。

 もっと自分の力を試せる場所で生きてみたい、もっと自由に暮らしてみたい。

 そう考える彼にとって奔放に振舞うルーラはまさに手本のような存在で、朗らかに歯を見せて笑う彼女を見て心が浮かれた。

 温厚で粛々とした婚約者も、仕事のできるディーノも、期待する両親も、当然のように全てを受け入れている自分も。一度、全てを放り出してみたかった。


 自分でも、何か、別物になれるのではないかと考えた。

 考えた結果ーー今に繋がる。




『オレの護衛に何をした!』




 その瞬間、ノクラウトの怒りは凄まじいものだった。

 怒声を発する彼にフィルディナントは何も言えなかった。


 目の前には紅茶を頭から被った令息がいる。ハニーブロンドのボサボサの頭は紅茶の琥珀に濡れ、前髪は額に張り付いている。顔を庇った右腕にはぐっしょりと紅茶の大半がかかり、布地はじわりじわりと琥珀に染まっていった。

 まずいことをした。と、気づいたときには憤怒の表情を浮かべるノクラウトが目の前にいた。城で会った時には見せたことのない怒りの表情。その表情を自分がさせたのだと気づいた時、背に冷たい汗が流れた。


 アリアはイースノイシュ公爵家の人間だ。

 宰相の子としてフィルディナントにも立場はあるが、ノクラウトを矯正したり、自家を立て直したり、アリアの兄であるシルヴィオは同世代の人間と比較しても優秀だ。今や過去の失敗はすでに失せ、王家からの信用も厚い。

 そのシルヴィオが最近気にかけている人間が、異母弟のアリアということは貴族界ではすでに認知されている。兄弟揃って父親に似ず優秀だと言われ、文武両道という噂だ。

 彼を害したら家に害が及ぶ。

 流石に公爵家の令息を傷つけたとなれば、ディーノから離れなければならないかもしれない。

 そうするとルーラとも必然的に距離を取ることになる。それだけはなんとしても阻止しなければならない。


 何か言わなければ、何かしなければ。

 懸命に考え込むフィルディナントの前にいた人物。渦中の人物であるアリアがーーそっと手を伸ばし、フィルディナントに触れた。


 その手は同性でありながら小さく、頼りなく、文武両道と謳われる令息のものには思えなかった。

 なのに、触れると熱い。

 紅茶を浴びたせいでそうなったのかと思えば、なんてことをしでかしたのだと喉が震えた。


 けれどーー彼は。

 アリアは。



『よかった。痕が残っては大変ですからね』



 内側にじわりと滲むような声音だった。

 泥濘に沈殿していた理性をゆっくりと拾い上げられたような感覚がした。


 痛烈な言葉を投げかけたその人は、熱い紅茶をかけたフィルディナントを当然のように労った。打算もなければ計略もない。ごく自然の仕草で、フィルディナントに手を伸ばした。

 アリアに触れられた瞬間、ひどい後悔に苛まれた。

 入学したばかりの学生は未だ成長期を迎えておらず、小柄な者が多い。

 少し大きい制服を着ている姿を見ると、二年前の自分達もそうだったのだろうかと懐古の思いが宿る。後輩として労わるべき立場でありながら、図星を突かれてとんでもない行為をしてしまった。


 罪悪感と後悔が腹の奥から溢れそうになった。

 今、私はーー何をしているのだろう。



『自分はただ、これ以上レーヴェルシュ嬢との仲を考えるのなら身の振りを考えた方がいいのでは? と、思うだけです。恋情がなければ離れることも容易いでしょう。そもそも全員とレーヴェルシュ嬢が結ばれることは無理ですよね。彼女は一人です。それに、ここにいらっしゃる方々は名のある家の方達だ。後継の子はどうするのです? まさかーーレーヴェルシュ嬢に交代で孕んでもらうのですか?』


『動揺したということはそういうことなのです。恋情自体は崇高で清らかな感情だと思います。でも、そろそろ夢から覚める頃ではないですか?』



 紅茶を浴びせただけではない。

 それ以前から、今まで。一体何をしていたのだろう。

 フィルディナントは決まりきった轍を進む人生に嫌気が差していた。ルーラの言葉に背を押され、彼女に好意を抱き、気ままに恋愛をしてみたかった。進む道とは外れても、己の優秀さを過信し、よりよい場所へ辿り着けるはずだと理由のない根拠を抱いていた。


 だが、今まで私がしていたことは何だ?

 婚約者を放置し、別の女性に尻尾を振っていただけではないのか?

 そこで派生した問題にも着目せず、親の言うことを聞きたくないからと子どものように振る舞っていただけではないのか?


 王子であるディーノがルーラを可愛がり、大事にしているから自分も彼女を大事にしようとフィルディナントは思った。自ら仕える主人も婚約者を放置し、領地に戻っても一言も声をかけていない。だから、従僕である己もそうしなければならないと言い訳をした。

 婚約者にプレゼントもドレスも購入せず、まともな手紙も送ったことはない。

 それどころか、婚約者のために使うべき費用はルーラへ貢ぐようになっていた。


 この程度のことはディーノもしているから。

 ルーラのため、ルーラのため、ルーラのため。

 全て言い訳だ。

 ディーノにではなく自分に振り向いて欲しかったから行動していた。


 ルーラはフィルディナントにとって恋しく愛しい、可愛らしい女性だ。

 だが彼女一人と、領地の架け橋となる婚約者のどちらを大切にしなければならないのか、そんなものは考えずともわかる。無責任な行動で家の名を汚し、先人の功績を泥に汚している現実が見えてくる。

 今までは誰かの作った轍を歩めばいいと単純に考えていた。

 だがその轍はすでに遠く、フィルディナントの外れた道からはどこにたどり着くか皆目見当もつかない。未来が見えないということがこれほどまに恐ろしいことなのだと、彼は初めて気がついた。


 親の用意してくれた未来も、婚約者も、普通の立場なら手に入らない。

 それを放り出そうとしていた。いいや、すでにいくつかは放り出している。


 アリアが触れた瞬間、どういうわけかそのことに気づいた。

 今まで目元を覆っていた暗幕がなくなったかのような感覚だ。爽快な気分と同時に暗澹たる気持ちにもなる。だがそれは、今まで自分が行ってきた行為が跳ね返っているに過ぎない。


 アリアに謝罪した足で、フィルディナントは生徒会室ではなく別の場所に向かう。

 昨日、改めて手紙を送ったところ、夜明け前にその人から返答が届いた。



「フィルディナント様」

「ーーエリアル嬢」

「……こうして会うのは久々ですね」



 表情を変えない温厚な女だと思っていた女性を真正面から見る。

 フィルディナントの婚約者であるエリアル・マーベラはーー悲しげに微笑んでいた。

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