02.プロローグ②
昨今、貴族に対し平民が抱く感情は二分している。と、いっても好悪の二択ではない。
そこにあるのは無関心か、嫌悪だ。
辺境住まいや王都とは別都市に住んでいる人には無関心が多く、王都に住んでいる人ほど貴族に対し嫌悪が多い。
無関心の人間は王都で起きた問題を知らないか、さして迷惑を被っていない人たちだろう。
しかし王都住まいは良くも悪くも貴族の話題が事欠かず、好悪が時勢によって容易く変動する。
現在は貴族間の派閥争いの煽りを受け、城下はここ一年ですっかり商売がしづらくなった。
そのため、城下の人間は貴族に対し嫌悪の感情が優っている。
第一王子が新興貴族の令嬢に誑かされ、元々婚約者だった公爵令嬢と婚約破棄寸前まで話がこじれているという話は周知の事実だ。三流記事ではすっかり婚約破棄前提で話が進んでいるが、貴族の婚姻関係は容易く破棄できるものではない。辛うじて二人の関係は続いているという話だ。
だが、周囲の人間もどうやらゴシップの三流記事と同様らしく、婚約破棄は卒業後だと既に噂が蔓延している。
古格貴族は新たに婚約者を用意するか、今の婚約を維持するか、いっそ第二王子を祭り上げるかと争っているようだが、新興貴族は男爵令嬢を婚約者にする動きで意見を統一している。
新興貴族は爵位を金で買った商人や、騎士が武勲をあげ叙爵された者が大半だ。彼らは契機を逃さず、自らの立場が古格貴族を上回る瞬間があれば容赦なく牙を剥く。
次期王妃が新興貴族から選ばれるかもしれないと考えた者は、今後は領地経営、土地管理、税収等を古格貴族より優遇されると考えた。甘い考えだが、その理屈が現在罷り通っている。
彼らがまず手を付けたものは、経営の立ち行かなくなった古格貴族の土地を購入することだった。
かつては才知ある者が領地運営に励んでいたが、時代の流れと共に様々な者が領主に治る。
そのなかには、壊滅的に領地運営に向いていない人間も当然いた。
新しい農具も買えず、子牛や子羊を買う金もなく、作物の苗を手に入れることもできない。今あるもので細々と食い繋ぐだけになった土地は存外多い。新興貴族はそういった土地を言い値で購入し、衣服のデザイン工房や貴金属の加工場に建て替えていった。
当然、これは違法行為だ。
王の権限なく、土地の売買は禁止されている。
しかし、繁栄している上位貴族は衰退する家を嘲笑ったり、下位貴族の動向を気にしたりすることはない。噂話の一つとして捉える程度だ。
今は男爵令嬢と第一王子たちの動向を彼らは注視している。その動きひとつで時流が変わる。第一王子につくべきか、第二王子につくべきか。利のある方を見逃さない。
動きを注視するだけの古格貴族を、新興貴族は嘲笑う。
止まっているだけでは意味がない、と件の令嬢が名を連ねる男爵家には同じ新興貴族から多くの逸品が送られた。
レースやフリルがたっぷりとつけられたドレス、大ぶりのダイヤやルビーが嵌め込まれた装飾品、小ぶりの宝石がいくつもついた輝く靴、つければ肌が白くなると言われる化粧品。
およそ、男爵家には不釣り合いな装飾具や化粧品だ。
だがそれを、男爵家は断ることなく全て受け入れた。
男爵令嬢は宝石やドレスを好み、その中でも派手で煌びやかなものを好いていた。大きな宝石は若い女性が身につけるには不釣合いだが、サイズの大きなものこそ己に相応しいと言わんばかりに彼女は高価なものを求める。与えられれば与えられるほど、彼女は素直に喜んだ。
貢ぐ人間は何人もいたが、第一王子は使える私財が限られているため彼女に貢ぐことはしなかった。第一王子に与えられた裁量では国庫に手がつけられないと彼は微笑みながら彼女に語った。
代わりに、彼の周りの宰相候補や辺境伯の子息があれよあれよと買い与えた。高級ラウンジで食事がしたいと彼女が言えば連れて行き、ウィンドウショッピングに行きたいと願えば御用達の店に案内した。
国庫を利用できない王子に恋愛ごとで負けぬためにも、今利用できる家の金を使うのだと言わんばかりに、彼らは男爵令嬢に貢ぐ存在と化していた。
その様を目の当たりにした学園に通う令嬢たちの多くは、男爵令嬢や取り巻きの男を下品と誹った。
だが男爵家の彼女よりも高価なドレスや宝石を身に付けなければ名家の名折れと言わんばかりに、親や婚約者にドレスをねだり、宝石を欲した。
買い手が増えると売り手も増える。
王都にはこの一年でドレスショップや装飾品店が近年類を見ないほどに出店した。不出来な需要と供給の完成である。
新興貴族は商売人が多い。
古格貴族から違法に購入した土地から農地や牧草地をあっという間に消し去って、宝石類の加工に手を出し、宝石の輸送時の警戒を兼ねて武器製造にも力を入れた。
農民は減り、鉱石採掘のための鉱山人が増えた。加工をする職人や配送時の護衛に励む騎士も増える。
昨年末の曰くの卒業パーティー以降、食料自給率は明らかに低下している。
代わりに、武装する騎士たちの装備は明らかに上質なものに変化していた。
賑わっていた城下のマーケットでは食料が減り、店舗数も最盛期と比較すると物悲しくなっている。
飲食を商う商売人は王都から姿を消し、代わりに貴金属を扱う商売人が増えた。衣料品もかつてと比べると、倍以上上等なものが増えている。
その様を見てイリスは嘆いているが、アリアは無関心に属するため適当な相槌で返事をしていた。
アリアは母を亡くして天涯孤独だ。
寂しいと思う期間は既に過ぎ、一人は身軽だと思えるようになった。つまり、いまのアリアは自分一人の食い扶持さえ稼げればいいと思っている。
この国は農業大国として近隣国に輸出で稼いでいる。安定供給を謳い、品質も他国より上等だ。
それを捨てて新たな妃候補に媚を売るように、宝石やドレスを作ったところで他国に追随できるほど生産性は高くなく、デザイン性も劣るものしかできていない。
それすら理解できない者が国の重鎮を狙っている。
このまま国が傾けばいっそ他国に行ってみるのも悪くはないとアリアは思う。
だからこそ、無関心のまま王都で働くことができていた。
今朝、
「アリア・リィルはいるか」
金髪の美丈夫が、店でアリアのフルネームを名指しするまでは。
◇ ◆ ◇
ガラガラと音を立てて馬車が無情に進むなか、男は「シルヴィオ・イースノイシュ」と、名乗った。
イースノイシュといえばハーラシュ公爵家と並ぶ四大公爵家の一角だ。真実を象徴するアネモネをエンブレムにし、清廉と正義を何より大切にしている貴族の中の貴族。二代前に王妹が降嫁した王家に連なる平民でも知っている名家だ。
彼はアリアを気遣ったのか、それとも煩わしかったのか店内で名乗ることはなかったが、明らかに貴族だとわかる華やかな見目を持つ男が不潔なアリアを侍従に任せず、本人が店内まで迎えに来たのだ。
彼の存在と声をかけた人物に店は騒然とした。
アリアの見目は店の従業員だけではなく、常連客にも知られているほど見すぼらしいものだ。清廉とは真反対に位置している。
イリスに至っては声を震わせながら「この子が何か問題を起こしましたか?!」と、吠える始末。
失礼な話だが、アリアもイリスと同意見だった。
平民は彼のような貴族と関わることがない。新興貴族なら城下に時折おりるらしいが、古格貴族はまずおりてこない。ましてや、平民の通う店には来ない。
もしや、探している「アリア」は同名の別人物か?
と、思いもしたがイースノイシュは深く語ることはなく、ただ「この店の従業員、アリア・リィルを呼べ」と、言うだけだった。
(お貴族様に指名されるようなこと、なにかした……?)
あれよあれよと押し込められた馬車の中で、アリアは悶々と熟考する。
ここ一週間の業務内容を思い返し、貴族と関わったもの、貴族と関わったもの。と、思案するがどれだけ考えても該当するものがない。
いつも通り野菜の皮剥きをし、ひっそりとマーケットに出かけ、店の掃除をするような普遍的な一週間だった。
少なくとも、目前のシルヴィオ・イースノイシュのような異彩を放つ存在を一目でも見かけていたのなら、決して忘れられないはずだ。
ちら、と彼を見る。
シルヴィオは瞼を伏せ、美術館に鎮座する素晴らしい彫刻のように思案していた。
伏せたまつ毛が不意のまばたきで揺れる姿さえ麗しい。ヴィヴィという血族がいなければ、アリアも彼に目を奪われていただろう。
彼は、アリアの十五年生きた人生の中でも五指に入るほど美しい男だった。
鮮やかな金色の髪を持ち、涼やかな碧眼を携える。
女の皮膚よりも滑らかそうな皮膚、柳眉は切れ長でシャープな印象が見受けられた。目元も涼やかで顔の造形と彼が纏う雰囲気と相まって、冷たそうという第一印象を抱かせる人物だ。
その端正な顔の造形に神が合わせたかのような長身に細身の体躯。平民街に降り立つためか、貴族にしては地味な服装だが、面立ちや雰囲気から夢物語の「王子様」みたいだ、とアリアは思う。
その「王子様」が名指しで小汚いアリアを連れ立ったのだ。
街の通りに似つかわしくない馬車を見て集まっていた野次馬も、シルヴィオとアリアの組み合わせに驚愕の眼差しをむけていたが、アリアこそ誰よりもこの状況に驚いている。というか、なぜこのような状況になっているのか誰よりも知りたいと思っている。
シルヴィオに問い掛ければ早いのだが、しかし問いかける度胸もなく、馬車の中で小さく縮こまるだけのアリアは、目の前の男をチラチラと眺めることしかできなかった。
「……見過ぎだ」
「す、すみません!」
「――まあ、君の気持ちもわかる」
ですよねぇ!
と、大声で肯定しなかっただけ褒めていただきたい。
理由も説明されずに馬車に乗せられ、どこに行くかも分からぬまま運ばれている。薄汚れた己を顧みて、まるで屠殺場に連れて行かれる家畜だと、不謹慎な感想が浮かぶ。
基本的に貴族の気まぐれで平民は容易く首が飛ぶ。彼らが黒いものを白だといえば、黒だとしても白になる。そういう人間の前で平民の命は路傍の石みたいなものだ。
特に公爵家ともなれば平民は目に入ることすらない。一緒に馬車に乗るだけで本来なら不敬だ。薄汚いと一蹴され、刑罰を与えられないだけで儲け物だ。
だのに、男と今、二人きりで馬車に乗っている。青天の霹靂とはまさにこのことだ。
――逃げ出したい。
無意識にチラリと馬車の出入口を見てしまう。内鍵はかけられたが、逃げ出せないこともない。男と一対一だ。捨て身になればどうにかなるかもしれない。馬車から滑り降り、平民街に逃げて街の出入口まで駆けだせば、さすがの公爵家も追ってこないだろう。
しかし、今のアリアは無一文だ。
今ここで、これまでに稼いだ金銭を持参しなかったことが悔やまれた。
イリスの庭に逃げ帰ると店に迷惑をかけるかもしれない。ヴィヴィが亡くなった後も薄汚いアリアを雇い続けた恩人だ。裏切るわけにはいかない。
もしかしたら万が一、億が一に良いことで呼ばれたのかもしれない。そのような奇跡を思い浮かべるが、ないなと己の思考を一蹴する。
本当に、まったく、これっぽっちもどうして呼び出しされたのか分からなかった。わからないから行動に移せない。
アリアの煩悶に気づいている男は、深く嘆息した後、口を開いた。
「君も混乱しているだろうが、私も実際の君を見て多少なりとも混乱している」
「それは、えー……すみません?」
おそらく服装のことを言っているのだろう。平民であってもアリアの姿は嫌煙される。
その上馬車内は密室で距離も近い。絶対に悪臭がしている。すっかり鼻がイカれてしまったアリアにはわからないが、従業員がアリアと行き違う時には息を止めていることを知っている。その匂いを、彼はダイレクトに感じているだろう。
というか、今更だ。悪臭どころではない。
このような格好の人間を、よく馬車に乗せたものだと思う。
匂っているよなぁ、とアリアがスンと手首を嗅いだところでふと気づく。
「実際の、君?」
「ああ。君のことは十年前から既知だ。そして、探らせ始めたのは一ヶ月前からだ」
彼の言葉を聞いたアリアは、頭を上げてシルヴィオと視線を合わせた。
伺うような視線ではない。訝しむ視線だ。不敬にあたるとわかっているが、目前の男が何を言いたいのか探るように見つめてしまう。
十年前、アリアは五歳。
ヴィヴィと暮らしていた時から、目の前の貴族はアリアを既知だと言う。
「……ヴィヴィ関係の方ですか?」
「ああ」
「なるほど」
彼女の名が出ただけで、自分の不可解な現状を多少なりともアリアは納得することができた。
ヴィヴィは有名人だ。良くも悪くも。
彼女の黒歴史を知っているアリアは、子どもの頃に何度かシルヴィオのような人間がいたことを思い出す。
ヴィヴィの美しさは平民街だけに留まらず、貴族街にも届いていた。
身近な平民だけではなく、貴族のなかでもヴィヴィを後妻や妾に求める者が後を立たなかった。
その時、アリアは何度か誘拐された過去を持つ。だからこそ、ヴィヴィはアリアを浮浪者のような見た目で過ごすように言いきかせた。
同じ平民なら油断ならないが、貴族なら浮浪児のような子どもを持った母は嫌悪される。よほど暮らしが貧しいか、虐待をしていると判断されるからだ。
アリアを守るため、ヴィヴィはアリアの姿を塗りつぶした。醜く、薄汚く、誰も近寄らないように。
とんでもない美人の子ども。
それだけで価値があるはずだった。
ヴィヴィが亡くなった後、彼女の面影を求めてアリアを養子にしようとした貴族もいた。
美しい女の子どもは美しいはずだと考え、政治の駒とするために。または、美しく羽化する存在を幼い頃から愛でるために。
しかし、彼らは見すぼらしいアリアを見るとアリアの存在を意識から捨てた。
助かったと、安堵したのは言うまでもない。
が、それはヴィヴィの影響があった数年前までの話だ。
今ではすっかり彼女の存在は噂の欠片も無い。
だが。
「……この一ヶ月探らせていた……?」
アリア自身に興味のある人物は少ない。むしろ、お前が死ねばよかったのに。と、平然と吐く者のほうが多かった。だというのに、アリアを探っていたと目の前の男は言う。なんのために?
訝しげなアリアの瞳を受け止め、彼はまるで見てきたかのように言葉を続けた。
「君の生活は規則的だな。日々、効率的に業務に取り組んでいる。浪費家でもなく、働き者で、交友関係は狭く深い。見目を気にしない点以外はごく平凡」
「……」
「思想は古格貴族派寄りの中立といったところか。父親に関して興味は、ない」
ただの客なら知らないアリアの行動がシルヴィオには筒抜けだ。
従業員もアリアの行動を詳しくは知らない。イリスぐらいだろう、そこまで周知している人間は。だが、彼女が義理堅いことをアリアは誰よりも理解している。イリスがアリアのことを漏らすはずがない。それに、彼女はシルヴィオが店に現れてアリアを名指しした時、庇おうとしていた。
誰が、どうして、どうやってアリアのことを調べたのか――。
そして、該当の人物が頭によぎる。
「……新人のザッシュですね」
「正解。判断力も良好だな」
ザッシュは一ヶ月前からイリスの庭で働き出した若者だ。
田舎から出稼ぎに来たと言っていた。アリアより年上だが溌剌としており、愛想が良くて常連客にも好まれていた。
人が流出している王都で、年頃の男性が入店したため珍しいと思っていた。彼はアリアを見て驚いていたものの、嫌悪感を見せることはなかった。珍しい反応だった。己の見目が他者を害することをアリアは熟知している。
その上、彼はイリスの目を盗み度々アリアの前でサボっていた。アリアのそばを嫌がる従業員は多いため、ある意味絶好のサボり場となっていた。多く言葉を交わすことはなかったが、本当に珍しい人物だと記憶に色濃く残っている。
まさか公爵家に連なる人間だと一体誰が悟れるだろうか。
しかし、余計にわからなくなる。
ヴィヴィ関係でアリアのことを知っていたということはわかるが、現在のアリアを見て関わりたいと思う人間はまずいない。だが、シルヴィオは身辺調査をした上で、公爵家の馬車に乗せてアリアと対面している。
本来ならいるはずの護衛の人間が彼の片割れにいない。彼が単独でアリアと向き合っている証拠だ。
アリアはジィッとシルヴィオを見る。
馬車の車窓から差し込む陽光に照らされ、彼の鮮やかな金色の髪がキラキラと輝いている。そして、その髪に隠れず晒された碧眼も、鮮やかにアリアを射抜いていた。
碧眼。
奥にある――銀色の円環。
膝の上で作った握り拳に力が入った。
喉にあった水分が一瞬のうちに蒸発し、カラカラと干からびる。
碧眼はどこにでもあるありふれた色。
しかし瞳の中央にある円環は、今まで誰も――ヴィヴィにだって刻まれていない。
「閣下。あの、自分は」
「アリア」
冷淡な作りをしている男から、意外なほどに甘い音が落ちた。
媚びるような音は貴族が平民に聞かせる声音ではない。
心臓が耳の近くで鳴っている。
どくどくどくどく轟く音に重なるように、唾液を嚥下する音が馬車の中で無様に響く。
「私は君の異母兄だ」
冷静な男が告げるとんでもない真実を聞きながら、アリアは記憶の中のヴィヴィを詰る。
貴族も誘惑したことがあると聞いたことがあるけど、一体誰がよりにもよって公爵家に手を出すと思うのか。罵声も怒声もかける相手は存在せず、アリアは、気を失わないようにするだけで精一杯だった。