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19. 魔女のお茶会と甘い誘惑④

 コックを締めるとぬるいシャワーが止まる。流水が排水口に流れていく様を一瞥し、アリアは浴室からでた。

 シャワーを浴びながら体を軽く確認すると、庇った顔は特に腫れもなく赤みもなかったが、顔を庇った右腕は全体的に赤みを帯びていた。ヒリヒリするような痛みはないが、きっと数日は色が引かないだろう。

 それはアリアにとって特別問題ではなかった。それよりも水で洗い流した紅茶の香りが石鹸よりも強く、プンプンと香水のように纏わりついていることの方が気掛かりだった。

 すん、と鼻先を皮膚に押し当てなくても香ってくるそれに頭痛がする。一体どこの紅茶を利用しているのだろう。匂いが強く、味わうより先に鼻がダメになりそうになる。


 アリアが知っている紅茶はイースノイシュ家で飲んだ最高級品だけだ。

 イリスの庭では基本的に水かお湯だった。集合住宅でも紅茶を飲んだことはない。

 最初の紅茶があまりにも良かったのだろう。それに、味覚の似ているシルヴィオが選んだものはアリアにとっても美味しかった。

 シルヴィオは厳しかったがアリアを気遣っていた。

 婚外子にどう接するか距離を測りあぐねいていて、不器用な人だったと思う。離れてから改めて気付く。それとも離れたからこそ気づけたのかもしれない。

 イースノイシュ家にいるときは「閣下」と、呼んであえて距離を取るように接していたから。


『ええ。我が兄は才能ある人間には相応の教育を、という方でしたので』


 今更気づいたが、きっとあの時からカチンときていた。

 ノクラウトを守るためでも、情報収集のためでもない言葉を発してしまった。

 父親についてはどう語ろうとも興味のない他人にしか思えないが、シルヴィオは別だ。

 兄という意識を持ってはいないけれど、優しい人だと思っている。貴族として考えると、嫌味で返すことは間違っていただろう。イースノイシュ家が衰退していたことは間違いない。

 けれど、優しい人が正当な評価をされないことは寂しい。だから咄嗟に、言い返してしまった。


 反省点だな、と考えてシャツのボタンを留める。

 次回、同じことがあった時は間違えないように気をつけようと考えた。

 きっと気づかないうちに緊張していたことも原因だ。初めて相対する貴族の子息、彼らがどういう人間なのか見極めなければならないと気負いすぎた。

 鏡を見て、眦の垂れた自分を認識した。

 両手を構えて頬を叩く。パンっ、という景気のいい音と共に扉の外から椅子から立ち上がった音がした。

 心配性の主人が待ちきれず、どうやらアリアの部屋に居座っているらしい。苦笑を浮かべ、髪もまともに拭かずにアリアは脱衣室から出る。

 そこには、情けない顔をしたノクラウトがいた。



「どうだ、アリア」

「火傷はしてないですよ」



 眼鏡をとり、素顔を晒したアリアの前でノクラウトは観察するように視線で肌を撫でていく。

 タオルの乗ったハニーブロンドから冷たい雫が垂れる様子に眉を顰めつつ、額、頬、首を観察される。顔は眼鏡があったため、ほぼ紅茶の影響はなかった。頭に被った雫のせいで濡れてはいたものの、熱さを感じてはいなかった。

 顔に火傷がないことを確認したノクラウトはほぅ、と安堵の息を吐いたがアリアの晒された腕を見て眉を顰める。

 白い皮膚は薄桃に染まり、紅茶のかかった部分は明らかに変色していた。布地が紅茶を吸い込みべったりと熱い部分が触れていたせいで影響が大きい。痛々しいものを見る眼差しでノクラウトの顔が分かりやすく歪む。



「赤くなっているじゃないか」

「でも痛みはないですし、数日で消えますよ」

「そういう問題じゃない。オレが言えた義理じゃないが、もっと自分を大事にしろ」

「わっ」



 頭に乗せていたタオルごと頭を押さえられ、アリアの視線は自然に下を向く。そのままソファまで案内され、無理やり座らされる。「ノクト様」アリアの困惑の声音を聞いても、ノクラウトは手を引っ込めなかった。


「じっとしてろ」


 その言葉を皮切りに、ノクラウトがアリアの髪をタオルで拭う。

 普段結んでいるため分かりづらいが、アリアの髪は存外長い。そのため、乾かすことが億劫な彼女は風呂上がりも髪を放置している。

 イースノイシュ家ではもっぱらノエルが乾かし、寮暮らしになってからはタオルを巻いたまま眠りについていた。

 アリアは自分自身をぞんざいに扱っている自覚がある。

 だから、他の人間が慈しむようにする様を目にすると不思議でたまらなくなる。それもノクラウトのような高位身分の人間にやわらかく接せられると、何か、居心地が悪い。


 ノクラウトの手つきは普段のざっくばらんとした彼らしからぬ優しさだった。

 労わるように、ひと束ひと束丁寧に雫を拭っていく。「いっつも中途半端に乾かしていると風邪引くぞ」と、世話焼きの言葉が頭上から降る。王子らしからぬ過保護さに苦笑を浮かべながら、アリアは心地よい手を受け止める。

 お茶会の騒動が嘘のように、静穏なひとときだった。



「ーーフィルディナントが、すまなかった」

「ノクト様のせいではないですよ」

「オレのせいだよ……オレの知っている彼は理知的で堅物で、そこが面白い人間だった。あんな暴挙に出ると予想できなかった。だから、オレが悪い」

「……」

「人の変わった姿を直に目にすることは、恐ろしいな。やはり魔術的要因や呪術的要因があるのだろうか。それともーー恋をしたから、ああなったのだろうか」

「分かりません。ですが、彼らは言っていました」



 アリアはフィルディナントたちと話して感じた違和感をノクラウトに伝えた。

 彼らも、最初はレーヴェルシュ嬢のことを、平民のような振る舞いをする女性と思っていた。

 けれど、王子を通して知り合ううちに彼らが胸に秘めていた傷を和らげ、癒してくれた。貴族女性にはない朗らかさ、快活さ、気さくさ。その全てに心が融解されていった。

 新鮮な彼女の反応が恋しく、それでいて向けられる優しさが愛おしくーー聖女のように思っている。そのことを、詳に伝えた。



「聖女、か」

「彼らは自分のほしい言葉を与えてくれたので好きになったのでしょうか?」

「なんとなく弱いな。それにしては心酔しているような、宗教のような感覚がある。それこそ聖女崇拝に等しい……。その流れでいくとレーヴェルシュ嬢は一つ気になることを言っていたな」

「気になること?」

「レーヴェルシュ嬢はオレに言ったんだ。ーー私は全てを理解してあげられるの、ってな」

「全てを……ですか」



 レーヴェルシュ嬢は特に意識をしていないのだがろうが、彼女の発言はとても恐ろしいことのように思えた。

 彼女の言うことが確かならレーヴェルシュ嬢は心の内を読む力があるのだろう。もしくは、何か似たような力か。それがどういう条件で発動するかはわからないが、彼女はその力を用いてディーノをはじめ、フィルディナントたちを手中に収めている。傷ついてやわらかくなっている心を癒すことで、彼女は彼らに取り入った。

 それは、人の心を弄ぶ行為だ。

 誰だって秘密の一つや二つ、心に秘めている。それを癒す人はずっと彼らのそばにいる人か、彼らをまっすぐ見ている人が気付くはずだった。

 心を覗き、反則に近い行為で距離を縮めるなんて聖女が取るべき手法ではない。

 本当に全てを理解して他者を癒せるのなら、どうして王侯貴族のような上位貴族の令息ばかり癒すのか。身近な人間でもよかったはずだ。透けて見える欲望に嫌悪が走る。



「そういえば、ノクト様は何かトラウマとかありますか?」

「トラウマぁ? なんだよ急に」

「レーヴェルシュ嬢より先にノクト様を癒せばノクト様は安全なのでは? と、思いまして」

「ふぅん」

「……でも、あれですね。今現在お世話されている自分が言い出す言葉ではなかったですね……」



 頭を丁寧に拭われながら尋ねるべきものではなかった。

「良い案だと思ったんですけどね」と、カラカラ言うアリアの後ろでノクラウトはしばらく考え、指先に力を込めた。


 ノクラウトにトラウマなんてものはない。

 過去に大病に罹ったこともなければ、大怪我を負ったこともない。兄は尊敬できる人間で、父も母も仲が良い。立場的に難しい正妃の第二王子という立場だが、別に王位簒奪を狙ったこともない。


 きっとーーシルヴィオに出会ったからだ。

 堅物で、生真面目で、しつこくて。ノクラウトが講義をサボったり、剣術稽古をサボれはどれだけ時間をかけようと見つけ出し、サボった分だけ縛りつけた。

 けれどディーノや側妃の噂が立ったり、正妃の具合が悪くなったりした時は課外授業と称して早駆けに連れて行ったり、お忍びで街に案内されたこともあった。

 もしも、シルヴィオが側にいなければノクラウトは王位継承権をディーノから簒奪しようと画策したかもしれない。幼い頃は派閥の関係もあり、ディーノとシルヴィオはあまり顔を合わせたことがなかった。


『第一王子は確かに嫡男だが側妃の子だ。正妃の子である第二王子こそ次期王にふさわしい』


 物心がついた頃から散々聞いた話だ。その言葉は針のようにノクラウトの小さな心に傷をつけた。きっと、ディーノの耳にも似たような言葉がたくさん届いていたはずだ。だから、お互いに顔を合わせないように生きていた。

 けれど、シルヴィオがそれを良しとしなかった。


 話せ。会え。

 会って会話しなければ、本人の言葉でなければ何も信用できないと彼は言った。

 後から聞いた話だが、シルヴィオはディーノにもお節介を焼いていた。それがなければ、ディーノがノクラウトに入学祝いを渡すような関係にはならなかっただろう。だからノクラウトはイースノイシュ家をーーシルヴィオを大切に思っている。


 そして今、その異母妹が当然のようにノクラウトの側にいる。

 生真面目で、裏表のない兄妹だ。それがどれほどの奇跡なのか、シルヴィオは理解しているがアリアは知らない。知らないままでいてほしいと、思う。

 半乾きのハニーブロンドに紅茶の甘く強い匂いが残っている。これが早く消えるように願いながら、ノクラウトはアリアの髪を拭っていく。

 彼は指先から力を抜き、気づかれないように髪に指先を絡めた。なめらかな髪が冷たい雫と共にノクラウトの手を濡らす。



「トラウマを教えてほしければ、一人で髪を乾かせるようになるんだな」

「それ絶対教えてくれないやつじゃないですか」

「うるっせ、マジでちゃんと乾かせるようになれよ。話はそこからだぞ、アリア」



 ノクラウトにトラウマはない。

 でももし、今後何かそういうものができるとするのなら。


 ーーこの兄妹がオレから離れることが、一番怖いことだ。




 ◇ ◆ ◇




「ノクト様、昨日の夜気づいたんですけど、制服早速一枚無駄にしてイースノイシュ閣下はお、怒らないでしょうか……」

「怒るというか、とんできそうだよな。何があったんだ!? って」

「それ怒ってるじゃないですか。うわー……シミ抜きしたら落ちますかね? 上着紺色だから最悪着ても良いですし」

「紅茶の色がついた制服着てるやつと隣に並びたくない。っつーか、あの紅茶臭くて嫌なんだよな」

「ああそれは……なんとなくわかるような」



 休み明け、多くの学生が朝食を食べて寮を出る時間にアリアとノクラウトも出ていく。生徒会に所属しているディーノは朝が早いらしく、今まで一度も同じ時間帯に出会(でくわ)したことがない。他の生徒会役員も同じだ。

 後々生徒会に所属することが決まっているノクラウトはその話をするだけで憂鬱になる。今でさえ早起きだと訴え、寮を出てからも欠伸の止まらないのだ。

 嫌だと嘆くノクラウトと談笑していると、校舎の門扉に見慣れた人を見つけた。


 氷のような冷ややかな印象を与える青年ーーフィルディナント・アズノーラ。


 その人がアリアとノクラウトを見つけ、目を大きく見開く。

 彼の足先が二人に向き、ゆっくりと靴音が周囲の喧騒に溶け込む。他の生徒は学校とは逆に進むフィルディナントを見て、彼の視線の先にいるアリアたちを見て興味深そうな視線を向けた。



「アリア殿」

「……フィルディナント様」

「何か用かフィルディナント。朝は時間がないのだがな」



 アリアを守るようにノクラウトは一歩前に出る。護衛としての立場がなくなってしまうため、そういう行動はよしてほしいのだが、今のフィルディナントには悪意が一片もない。それどころかノクラウトの声にフィルディナントは悲壮な表情を見せる。

 どうやら昨日のことを気にしているらしい。

 冷ややかな印象は間近になると消失し、不安そうに揺れる眼差しが眼鏡越しに映る。アリアやノクラウトより背の高い男だというのに、肩を内巻きにし、身を縮こまらせていた。説教を受ける前の子どものような姿勢だった。



「ノクラウト殿下、アリア殿と話をしても構わないでしょうか」

「……ここで済ませるなら許可する」

「ありがとうございます」



 フィルディナントの消沈した姿を見て、ノクラウトも彼が何をしに来たのか察したのだろう。

 溜飲を飲み嫌々という態度だが、ノクラウト自身が昨日フィルディナントを憂いていたことをアリアは知っている。だから、無意識に口元が綻びそうになるのを我慢してフィルディナントと向き合った。

 通学の時間帯。人目につく場所でありながら彼は腰を曲げ、頭を垂らす。食い入るような視線と学生のひそひそと語られる言葉が聞こえているはずだ。それでも頭を上げず、フィルディナントは口を開く。



「アリア殿。謝ってすむことでは無いと思いますが、昨日はすみませんでした」

「いいえ、自分も言いすぎました。幸い痕にもなっていないので、気に病む必要はありません」

「いえ。手を出した方が悪いのです。それに、あなたの言葉は図星でした。だからカッとなってしてしまったのでしょう。私は未熟者です」



 頭を上げた男は自嘲を浮かべていた。だが、どこか晴れやかだ。

 コバルトブルーの瞳は相変わらず冷たい色だが、冷ややかというよりも爽涼や清涼といった印象を与えていくる。

 彼を前正面にし、アリアははたと気付く。

 フィルディナントは、憑きものが落ちたような顔をしていた。甘い匂いが漂わない。ミントのような爽やかな香りを持つ人。ノクラウトが言っていたフィルディナント・アズノーラという青年は、きっとそういう人間だった。


 アイスブルーの髪が爽やかな風に揺れてざぁ、と流れる。

 空に溶け込むような青色の男はアリアの眼鏡を超えた先にある瞳を見据えるように、ジィッと彼女を見た。



「アリア殿に諭されて最近の私がどうかしていたことに気づきました。誰に何を言われても仕方のない姿を晒して……お恥ずかしい限りです。また後日、謝罪の品を贈らせていただきたいのですが、よろしいでしょうか」

「ええと……ノクト様」

「ーー……受け取っておけ」

「……ありがとうございます、フィルディナント様」

「いいえ、こちらこそ。ノクラウト殿下もありがとうございました。では、先に失礼いたします」



 去っていく男の背中を見て、ノクラウトはそっと口を開く。



「ーーどうなっている」



 問いかけは空に消える。

 清々しい青空には、雲ひとつ存在していなかった。

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