01.プロローグ①
初投稿です。よろしくお願いします。
ベルンハルト王国は肥沃な土地になる農業大国だ。
広大な土地の多くは農業や酪農に使用されている。雨季にはたっぷり雨が降り、安定して穏やかな気候の恩恵を受け食料自給率は158%を誇る。これは、他国の追随を許さない数字だ。
飢餓を国民は知らず、渇きを土地は知らない。
その代わり貴金属や宝石類は輸入に頼っているため、貴族は輸入品で自らを着飾らせた。
国王の座す王都には各国から集まった加工品が並び、もともとあるベルンハルト王国の食料も連なり、近隣でも類を見ない程に飲食店が軒を連ねた。
しかし、精彩な過去は緩やかに衰退する。
一年前までは、街中の石畳には靴音が鳴り響き、春になれば花が咲き乱れた。大国ではないけれど民の暮らしやすい王都だった。
現在。
ぽつぽつと王都からは気付かぬ程ゆるやかに人が減り、静かに店が移り変わる。
しとしとと、緩やかな悪意が国の背後に忍び寄る気配があった。見えないそれは気配を殺し、だが確実に、国の中枢に手を伸ばしていた。
「殿下」
「わかっている」
「時間がありません。ここは、私に任せてください」
「――……でも、オレは」
「いいですね」
雨が降っていた。
春を待ち望む、冬の冷たい雨だった。
◇ ◆ ◇
王都の一角に「イリスの庭」という、店がある。
騎士の間でも美味い料理を提供すると評判の店だ。早い、安い、美味いを売りにしている店には、連日大勢の客がやってくる。そのため、従業員は毎日大忙しで調理、接客、片付けを回していかなければならない。
その店の従業員の一人であるアリア・リィルは店の裏口で、せっせとジャガイモの皮を剥いていた。
アリア・リィルには関わりたいか否か。
イリスの庭の従業員にアンケートを取ったならば、大半が「関わりたくはない」に丸をつけるだろう。
アリアの見目は他者の不快感を煽るみすぼらしいものだ。
十人がいれば十人とも不快だと眉根を顰めただろう。
アリアは店で使う野菜の世話をしているため、朝一に畑で作業をする。水やり、収穫、肥料の散布、草抜きと多岐に渡り、その過程で衣服は埃や泥で薄汚れていた。そのまま直接店の裏口で仕分け作業に入るため、基本的にずっと薄汚れたままだ。
それだけなら農作業の汚れだけなのだが、身だしなみに気を使わない性分なのだろう。藁に似たくすんだ色の髪は無駄に伸び、手入れのされていないぼさぼさ頭は服装と相まって浮浪者に見えた。
その前髪から覗く瞳は昏いうえに目つきが悪く、他者を常に睨んでいるかのように見える。
外仕事で日焼けした皮膚は浅黒く、落としきれていない垢を気にしていないのだろう。近づくと、土と埃と汗と皮脂が混ざった不快な臭いがした。
醜い、とまでは言わないが、飲食業に就く従業員としては清潔感や清涼感といったものが欠片もなく、不潔と称する方が妥当だ。きっと、森の中で獲物を狙う野党のほうが身なりに気を遣っている。
だからこそ、従業員はアリアと関わりを持ちたくないと避けている。
業務上どうしても会話が必須な場合は仕方ないが、誰がアリアに声をかけるのか。と、なすりつけ合う。まるで、罰ゲームのような扱いだ。
その度に店主であるイリスが従業員を諫める。諫められると不平不満が増す。浮浪者のようなあいつが悪いのに、と鬱積していく感情により、アリアの相手をする人間はイリスのみになっていた。
アリアは従業員の嫌悪を理解している。
理解したうえで、己の容貌を整えようとしなかった。
汗と皮脂が混ざり合い、つんとする匂いも気にもせず、泥汚れも無視し、己に仕事に邁進する。
アリアの良いところは一点、働き者であること。ただそれだけだった。
「何度も言うように、自分はこのままでいいんですよ」
「もったいない。アンタ、母親似じゃないか」
「もったいないと思うのはイリスさんだけですよ」
店内はランチタイムの喧騒に満ち、店の中から慌ただしい声や客の笑い声が届く。その中で、アリアは一人でせっせと野菜の皮むきをしていた。
その作業中「イリスの庭」の店主である、イリス・ノーランドは煙草休憩がてらアリアに声をかけていた。
店と畑を繋ぐ裏口の扉にもたれかかり、ジャガイモの皮をむくアリアをイリスは見下ろす。
今年は暖冬と言われているが、それでも他の四季と比較すると当然冬は寒い。皮膚を刺すような空っ風が吹くなか、煙草の紫煙とアリアの白い呼気が冷たい空気に溶けていく。
店の裏口でおこなう野菜の皮むきは、アリアが専任になっていた。
当初は厨房で野菜の皮むきをおこなっていたが、厨房は一部客から見えるような作りになっている。以前、厨房でアリアが作業をしていると「汚い人間を厨房に入れるな」と、匿名でクレームがきた。
それ以降、アリアは外で作業をしている。夏の茹だるような暑さの日も、冬の凍てつくほどに寒い日も。アリアは文句も言わず、せっせと己の仕事を全うする。
店にとって、真面目で業務に慣れた人間が文句も言わずに仕事をすることは嬉しいが、アリアの業務は属人化してしまっている。できれば従業員には厨房担当以外、満遍なく業務に携わってほしいとイリスは考えている。そのため、アリアが黙々と同じ作業に就くより、小奇麗にして店に出て仕事をしろ。と言い続けている。
これにはアリアの見目を小綺麗にしたいという、イリスの個人的な感情もあった。
何せアリアは十五歳の若者だ。仕事もし、給料も得ている。ならば年相応に身なりを整え、青春を謳歌しろとイリスは常々思っていた。尤も、属人化している業務を改善したいという気持ちも多分にあるのだが。
最近は王都に問題が多発しており離れる若者が多い。
そのため、人手がなかなか集まらない。
これ以上給与を上げると店の儲けが減るため、早い、安い、美味いを信条にしているイリスにとって、アリアの業務が属人化している状況は改善したい点の一つだ。
そのため、煙草休憩の度にアリアはイリスから説教を受ける。
ーーこのままでいいのか、と。
アリアも重々理解している。
これは店の問題だけではなく、アリアの人間関係を気遣って彼女なりに心配をしているのだと。が、理解しても変える気は毛頭なく、毎度の不毛な掛け合いは機械のように淡々と野菜の皮を剥くアリアにとって、BGMのようなものだった。
「オシャレしたいまでは言わなくても前髪を切るとかさぁ、あるだろうに」
「慣れですよ、慣れ。今更視界が広がったら逆に見え過ぎになりますよ」
「ったく。年頃なのに無頓着過ぎる。これじゃあヴィヴィも悲しむよ」
「いやー。でもヴィヴィがこういう恰好しなさいさ! って、言っていたので」
「それは子どもの頃の話だろ。今じゃ楽だからそういう恰好をしているって私にはわかっているんだからね」
「ハハハハ。ノーコメント」
アリアの母、ヴィヴィ・リィル。
彼女はとても――とても、美しい女だった。
アリアの記憶の中にある彼女は、子供心に「絵本に出てくるお姫様」のように、美しかった。
彼女の顔にはすらりと高い鼻梁、小さく柔らかな唇が黄金比で配置され、土台となる皮膚は陶器のように白く滑らかだった。その白い皮膚には希少な紅玉色の瞳が鎮座し、彼女の瞳は宝石を連想させるほど眩く、眼があった人々を容易く魅了した。
異性である男性は、特に彼女から目が離せなくなる。
何せ彼女は顔だけではなく、肉体にも魅力があったのだ。
ヴィヴィの胸は下品ではない程度にふっくらと膨れており、腰は健康的にくびれ、しなやかな脚は雌鹿を連想させた。ヴィヴィが歩くたびに豊かに波打つハニーイエローの髪が揺らめくと、行き交う男性はヴィヴィから目が離せなくなる。そういう、華そのもののような女性がヴィヴィ・リィルだった。
だが、ありあまる魅力を誇るヴィヴィも、アリアの記憶のなかでは大口を開けて笑い、目尻の皺を気にして民間療法を試す普通の女性だった。
妙な存在感は確かにあったものの、基本は非常に所帯じみており、野菜の価格高騰を嘆き、卵の下落に歓喜するかわいらしい人だった。
そして、見目をひけらかす愚かなことはしなかった。
ただ、それはアリアが物心ついてからの話だ。
アリアが産まれる以前のヴィヴィは容姿に相応しい魔性の女だったそうだ。
時には気のない男に貢がせ、時には妻子持ちの男に声をかけ、時には美の研究をする女たちを無駄な努力だと嘲笑う。ヴィヴィは己の過去を、最低な黒歴史だと嫌悪していた。
人間として青く、未熟で、傲慢で、独りよがり。
ひどいことを沢山した。他人の気持ちを利用して自分がしたいように理性なく生きてしまった。
あの頃の自分を見ると、殴りたくなるとヴィヴィは度々言っていた。
かつての傲慢さに落ち込む母に「昔は、わがままなお姫様みたいだったの?」と、アリアは尋ねたことがある。問いに対し、しばらく悩んで「どちらかといえば悪役令嬢かもね」と、ヴィヴィは苦笑いを浮かべていた。
お姫様と問うた自分を差し置いて、悪役令嬢だなんて平民でありながら面白い例えをする母は確かに傲慢だ。そう思い、アリアはわらった。
けれど、あの頃より成長した今ならアリアはヴィヴィの黒歴史と言った理由も、苦笑も、悪役令嬢と喩えた意味も察することができる。何せ彼女が亡くなってからも、アリアの耳には彼女の奔放な話が耳に入ることが時折あった。
そのため、アリアはフルネームを語ることがない。
ヴィヴィは確かに尊敬すべき母親だが、尊敬できない部分も多々ある恋多き女性だった。それはもう「黒歴史」を、築くほどに。
「ヴィヴィ・リィルといえば、このあたりで知らない人間はいなかったんだからね。そんな母親の子どもだ。昔を知っている男は、あんたを一目見たいだろうに」
イリスの言葉にアリアは隠れた前髪の下で表情を作る。
ウゲェと、心底嫌そうな顔だ。けれどそれは誰にも見つからない。
「客寄せパンダに自分はなりたくないんですよ。質素堅実に生きたい」
「つまらない子だねぇ。誰に似たんだか……」
「父ですかね? 誰の種かは分からないですが」
「あっけらかんと自分で言うことかい。まあ、ヴィヴィは私にも教えなかったし……唯一の手掛かりは、アリアの瞳か」
アリアの母親がヴィヴィだということは産婆の残したカルテにも記載されているが、父親の欄は白紙のままだ。彼女は何も語らず、アリアが九歳の頃に流行り病で亡くなった。
だから、アリアは父親のことを一切知らない。
唯一の血の繋がりを把握できるものといえば、アリアの瞳だ。
ヴィヴィの瞳は燃えるような紅玉だった。だが、アリアの瞳は澄んだ碧眼だ。
それだけなら凡庸な色だが、アリアの瞳には円環が泳いでいる。瞳のなかにある銀色の円環。
眼球とはそういうものだと思っていたが、ヴィヴィの瞳にもイリスの瞳にも文様らしきものはない。
この瞳は普通のものではない。
だからこそ、これは見たことのない父親からの遺伝だと考えられた。
「父親を探す気はまるでないですね。自分はこの生活が気に入っているので」
「この生活、ねぇ」
「はい。安定した質素堅実な生活。だから貴族の方々には治安維持を頑張ってほしいんですけど……雲上人の思考はわかりませんねぇ」
「ああ……それこそ気にしちゃおしまいだよ。私らが気にするのはこれ以上税が増えないことと、横柄な騎士が増えないことだけさ」
「……それこそ無駄な願望になりそうですね」
アリアは顔をあげて真正面を見る。
店の裏口から隣の店の壁が見えていた。
『ハーラシュ公爵令嬢、ついに第一王子と婚約破棄か!?』と、三流記事の紙面が風に乗って張り付いていた。
風が吹く。
強い風が。
野菜の皮が飛んでいかないように袋を抑えていると、いつの間にか、壁に張り付いていたゴシップ記事も飛んでいた。
◇ ◆ ◇
ミラベル・ハーラシュ公爵令嬢は、第一王子ディーノ・アウレリオ・シメオノフの婚約者だ。
二人は幼い頃に顔を合わせ、すぐに婚約が決まった。
元々、第一王子との婚約条件に合う貴族令嬢が彼女の他にいなかったこともあり、特に反対意見も出なかった。
現在、二人はベルンハルト王立学園に通う二年生。
今年の春には最上級生だ。
王子の卒業後は隣国に留学する噂や、王の仕事を手伝いながら学ぶという噂があるが、確定していることは、公爵令嬢が妃教育を済ませるニ十歳に彼らが結婚するということだ。これは、平民にも伝えられている。
しかし、今やその予定が崩壊の危機にあった。
昨年、彼らにとっての王立学園一年目の冬。
卒業パーティーでディーノが別の令嬢をエスコートした。婚約者でもない女を、だ。
卒業パーティーという学校行事だが、貴族としての第一歩を踏み出す重要な日のため、基本的には婚約者のいる者は婚約者同伴のパーティーだ。卒業後に結婚する者も多いため、家のつながりを見せる意味合いもある。
在校生には婚約者が決まっていない者も多く、その場合は親類縁者がエスコートをする暗黙の了解だ。そのため、一人で参加する場合は婚約者に放置されていると思われるか、または家が非常識だと判断される。
ハーラシュ公爵令嬢は兄を伴い会場に現れ、ディーノ第一王子は新興貴族の男爵令嬢を伴って会場入りした。
当然会場は騒然とした。幼い頃からの婚約者を放置し、別の女を伴う非常識を第一王子が平然と行っているのだから。
しかも、王子が連れ立った令嬢は貴族として相応しい振る舞いを学んでいないのか、王子に対しあまりにも気安い態度をとっていた。距離を詰め、手に触れ、体を押し付け、軽口を叩く。
傍目には物知らず、恥知らずと映っていたが、ディーノ第一王子は彼女の行為を全て受容していた。
学園に身分制度は活用されていない。
身分関係なく忌憚ない意見を交わすべきだ、という学園の方針のためだ。
そうはいっても一度学外にでると爵位は存在する。決して、上下関係がないと明言できない。
そのなかで件の令嬢は王子に対し愛想を振りまき、彼が出会ったことのない人種の振る舞いをした。
大きな口を開けて笑い、派手に泣き、体いっぱい使って喜び、両腕を振り回して怒る。腹の探り合いの貴族社会では決して見ることのない人種。
大半の人間は呆れる行為だったが、そんな彼女に王子は惹かれ、幼い頃から付き合いのあったハーラシュ家の令嬢を蔑ろにしてまで男爵令嬢と懇意にした。
結果。
ハーラシュ公爵令嬢は嫉妬にかられ、男爵令嬢をイジメだしたと言われている。
曰く、男爵令嬢のドレスを隠した。
曰く、男爵令嬢の頬を引っぱたいた。
曰く、男爵令嬢を公式のお茶会でマナー知らずだと嘲笑った。
眉唾物の話だ。
貴族のことを知らないアリアだが、妃候補である公爵家の令嬢がそのような行為をするとは想像が難しい。
もしも、自分が公爵令嬢で男爵令嬢に嫉妬して彼女を潰したいと思ったのなら、手っ取り早く家を攻撃しただろう。
男爵令嬢自身を攻撃すると虐めている姿が人目に映るが、家そのもの攻撃し、潰してしまえば彼女は学校を退学し、二度と王子の視界に入る場所まで出てこない。
しかし、公爵令嬢は非常に清廉な人だったのか。それとも本当に頭に血が上って手を下してしまったのか。
公爵令嬢は男爵令嬢をイジメる「悪役令嬢」として、平民の間でも有名になってしまった。
これが単純な痴情のもつれだったなら、よかったのだろう。
しかし、彼らは貴族同士。
それも王族が関係すると事態は一気に民衆にも響く事態となる。
本来なら、男爵令嬢の振る舞いは誉められたものではないため、男爵令嬢を諌めたり、第一王子を諌めたりと何らかの解決すべきだと上位貴族から問題提起がされそうだが、現状、この問題は静観されている。
そこには、単純な男女の問題だけではなく古格貴族と新興貴族という派閥の問題があった。
古格貴族は古くから続く貴族の家系を重視すべき、という思想の貴族だ。
広大な土地を代々守り続ける彼らの主な税収は農業と、それに携わる機械産業だ。古から関係しているだけあり王族との関りが深く信頼関係も厚い。何よりも王族の青き血を守るべきという、ある種、凝り固まった思考を持つ。
男爵令嬢の家は金で爵位を買った新興貴族だ。
新興貴族は主に輸入業により金を稼いだり、戦場で功績を立てたり、新薬開発で国民を救ったり、国にとって有益な働きをした家や功績を立てた個人に与えられる新しい貴族を指す言葉だ。
男爵令嬢の家は金で爵位を購入した。貴族の中でも最も俗だと蔑まれ「成金貴族」と揶揄される。
この国では、農産業は古格貴族が独占しているため、爵位を買う商人の家は宝石類や衣料品の貿易で金を稼ぐ。爵位を得て信頼を増し、より莫大な資産を築くことが彼らの狙いだ。
歴史や伝統を大切にする古格貴族。
金を稼ぎ強国を目指す新興貴族。
二つの派閥の衝突は、この二年でさらに苛烈化した。
男爵令嬢を第一王子――つまり、次期王太子候補が公式の場でエスコートしたからだ。
婚約者である公爵令嬢の手を取らず、パーティー会場に現れた第一王子を見て誰もが考えた。
王家は新興貴族の手を取り古格貴族を捨てた。
そして、このままいけば将来の王太子妃は男爵令嬢になるかもしれない、と。
以降、新興貴族は第一王子を次期王だと明言し、古格貴族は第二王子を次期王にと推薦している。
意見の割れた貴族界はすっかり臣民の存在を喪失し、花の王都は衰退へと緩やかに進んでいく。
今年は彼らが卒業し、学生の身分を喪失する運命の年。
ベルンハルト王国は、次代の分岐点に立たされた。