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チャプチャプ……
月夜に照らされたウニュ河の水面がキラキラと光り、あたりは河岸を濡らす波音に満ちている。
たどり着いた河岸は、丈の高い雑草に覆い尽くされていた。ウーリャは半ば朽ちたようになっていた船着場の杭に船をつけた。帆はとっくに降ろしている。仮眠から覚めたばかりのエースも櫂を手に取り、ウーリャと二人で船を茂みの陰に寄せる。アルマはもやいを固く縛りつけた。
「人の気配は、近くにはない。どうする?」辺りの気配を探ったアルマが、小声で言った。
「上陸して確認しよう。だけどアルマは昼の間働いているから、今夜は休ませたいな」エースが答えた。
「人の気配がないうちに陸地の安全な場所を確保した方がよさそうね」ウーリャも言った。
予想に反して静かな河畔の様子に、船の上の面々は戸惑っていた。
先ほど河面から月明かりで確認したバージア城の塔にはうっすらと灯りが見えたので、城に人がいることは間違いなさそうだ。しかし、上陸場所を探して城を少し南に下ったところにある船着場に着いた時には、陸地は深い闇に包まれていた。
「私は大丈夫だ。風の操作も慣れてきたので昨日ほどは疲れてないと思う」
アルマも緊張の面持ちで答えた。
「キャレリー、怖くない?」
「怖くない!」
尋ねたウーリャに、キャレリーは小さいけれどはっきりとした声で言った。
キャレリーにとっては、皆に置いて行かれることのほうが怖かった。
「では、行きますか」
エースが落ち着いた声で皆に告げた。
一行が船着場の木で組まれた床から陸地に足を踏み入れた瞬間。
「今……」
「ええ」
「うん」
「何?今の」
異口同音に小声を発し、目配せを交わし合う。
感じたのは微かな空気の揺らぎだった。敵の気配かと思ったが、あたりの闇は凪いでいる。何かが身体の中を通り抜けたような、気色の悪い違和感を感じて、アルマはぞくりと背を震わせた。
「これは……聖地の……」とっさに思い出すようにエースがつぶやいた。
「そうね。どうやら異相に入ったみたいだわ。でもどうしてここで?」ウーリャが言った。
二人には先ほどの感覚に心当たりがあるようだ。キャレリーとアルマは顔を見合わせた。
「異相? どういうことだ?」アルマがウーリャに尋ねた。
「アルマ。私たち、今の感覚を聖地で感じたことがあるの。霊峰プッチの麓にある聖地では、儀式を受ける時に一時的に、人間が精霊の住む世界に入り込むの。その時の、異相に入る瞬間にこんなふうに感じるのよ」
「俺とウーリャは八歳の頃に精霊儀式を経験しているから」エースが言った。
「つまり、……私たちは今、精霊の住む世界とやらに入ったということか?」アルマが言った。
なんか肉食獣の巣穴に入ったみたいな悪寒を感じたな、とアルマは思ったが、流石に精霊に失礼かと口に出すのはやめた。
「そうだと思う。でも、聖地はまだ遥か東の先だぞ」
エースは言いながら、自分の顔が緊張でこわばっているのを感じたので、意識的に深呼吸を一つ吐いた。
「早速、不測の事態だ……。念のため船に戻って、計画を立て直そうか」
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一行はいったん船に戻ろうとしたが、何かに弾かれるような感覚があって、船着場に近寄ることができなかった。アルマのまじない、ウーリャの出力大きめな火の精霊力、エースの土の精霊力、どれも使えるが、どれを使っても障壁のような存在を退けることができなかった。すぐそばに船着場が見えているのに、なぜか近寄れない。
「使者たちがタザランドに戻れなかった原因はこれか……」エースが小さく呟いた。
アルマが不思議そうに二人に尋ねた。
「その、素朴な疑問なんだが。私たちが異相という場所に入ったとして、これは聖地に入るのと同じ状態ということだよな? で、儀式の時には、二人は聖地に行ってタザランドに戻ってきてる。では、どうやって異相という場所から出てきたんだ?」
「そうね? ……何かした記憶はないわね。エースは何か覚えてる?」
「いや、儀式が終わったら普通に異相から出されていた。自分たちで何かしたっていうより異相から追い出された感じだった」
ウーリャが先ほどと同じサイズの火球を出して、もう一度障壁にぶつけた。
火球は音もなく空中に吸い込まれるように消えた。
「異相の中でも精霊力が使えるのね……。外には出せないみたいだけど。目に見えない壁がこの辺にあるとして、壁の上を飛び越せるかしら? たぶん、ダメね。使者の中には風の使い手もいたけど、彼らのアベリーノもこの障壁を越えられなかったということだろうから」
ウーリャが肩にかかるまっすぐな長い黒髪を、苛立たしげに後ろに払いながら考えている。
アベリーノとは、風の精霊力の使い手の中でも精鋭だけが使える通信の能力だ。鳥の形の青い思念体を飛ばして、受け取り手に短い文章や声などを届けることができる。タザランドはこの一年間、少なくない数の使者や斥候をイノー領占領下のトリブ地方に送り込んできた。その中には貴重なアベリーノの使い手もいたが、他の例にもれず彼らからの音信も途絶えたままだった。
「とにかく、船に戻ることは諦めた方がいいな。だけど、夜明けまでどこかで休んで、朝になったらもう一度河沿いを調べよう。ギャリソンがどこに上陸したかを知りたい」
「船上からは痕跡が見つからなかったものね。陸に船を隠しているのかも」
エースらは重い足取りでほんの少しだけ移動して、樹木の陰で夜明けを待った。月夜だったはずの空は深い闇にのまれ、星の一つすら見えなかった。
仮眠明けのエースを見張りに残して三人が休み、夜明けと同時に起き出して付近の捜索を開始した。朝だと思われる時刻で、太陽の光もぼんやりと感じられるのだが、上空は低く垂れ込めた雲と靄がかかったような空気で薄暗かった。
事前のアルマによる索敵では、周囲に生き物の気配が感じられなかった。ウーリャとエースが河沿いを歩いて見回った。アルマはキャレリーとゆっくり歩きながら、失せ物探しのまじないで船のありかを探した。
ギャリソンのものと思われる船は大街道からさほど離れない場所であっさりと見つかった。
やはり船は陸に引き上げられていて、積荷は既になくなっていた。船体は河畔の葦などで巧妙に隠されている。
エースらは、ギャリソンの一行が聖地へ向かったと予想し、大街道に沿って東に向かうことにした。少なくとも徒歩なら五日分くらいは遅れての追跡になると思われた。
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「人が……いないな」
トリブ地方に足を踏み入れて以来、誰にも出会わない。
敵の一兵どころか、人間に遭遇しない。
船の上から見たバージア城には、確かに灯りが灯っていたというのに。
ひと気のない街道を四人は進んだ。
「どうなってるんだ」
しばらくして、エースが空を見上げながら呟いた。
とっくに日が高く昇っているはずの時間になっても、空は暗いモヤに覆われているようで、辺りは薄暗いままだ。
「時間の感覚がおかしくなるわね……なんとなく太陽の位置はわかるけど」ウーリャも言った。
トリブ地方に入って二日目。
あいかわらず昼間なのにどんよりと薄暗い大街道を徒歩で東に向かいながら、アルマが変なことを言い出した。
「トリブ地方には……竜か……それに似た巨大生物がいるか?」
「いないが……。っておい、アルマ?どうしたんだ?」
エースが言った。言った後に、アルマの顔色に気付いて焦った声を出した。
「では、スケルトンは?」アルマは淡々と話すが、その顔色は青ざめている。
「何よスケルトンって」
「骸骨だ。人の骸骨が歩き回る。私の国では実在しないけど、子ども向けの物語に出てくる怪物だ」
「骸骨って、死体でしょ? 歩くわけないじゃない。アルマ、本当に大丈夫?」
ウーリャも心配そうに言った。
「いや、歩く奴だ。では、それに似た生き物はいるか?」
「骨が歩くってどうやって!? アルマ、骨は一つひとつバラバラに離れているのよ? 骨が歩くなんてできないわ。そんな生き物なんていないわよ……遺体でも見つけたの?」
「そうか……」
ウーリャの荒げた声に、心ここに在らずな返事を返して、アルマは空から眺めたものを思い出すように虚空を睨んだ。アルマは、さっきまで大型の飛翔生物の目を借りて、大街道の先のほうまで偵察してきたところだった。
そして、その時に見えたものについて少しずつ語り始めた。
「——まず、首の長い、巨大な水性生物のようなものが南の方角の海にたくさん群れているのが見えた」
「海に? 巨大な……、クジラかしら。首は長くないけど。トリブの海にはクジラがたくさんいるわよ? 私の生まれた街は夏季の捕鯨が盛んだったの」ウーリャが言った。
「クジラ……? 私が見た生き物は大体三十メートルくらいで、水色とピンク色の体色だった。蛇かと思うくらい首が長くて、首を水面からもたげていた。首の感じは……そうだな、白鳥みたいな角度でだ……」アルマが付け加えた。
「……それ、クジラとは思えないな」エースが言った。
「私もクジラではないと思う」アルマが言った。「だから、竜かと思った。でも、私たちの王国に住む竜とも全然違っている。海だけじゃない、陸地にも、私の知らない形状のものがたくさんうごめいているようだ。そもそも、私が猛禽だと思って視界を借りたのも、鳥じゃなかった」
「そんな」ウーリャが混乱した様子で言った。
「なんか爬虫類みたいだったから、飛竜かと思ったけど、全身が黒い物質に覆われているみたいだった。羽毛や毛じゃない、ヌメっとした見た目の何かの物質だ。見たことがない飛翔体だった」
「よくアルマに視界を貸してくれたわね」
「そうなんだ。だけどなんていうか、視界を借りる時の生き物特有の抵抗感が全然無くて……あまり生き物らしい感じもしない、空っぽな感じで……ちょっとそれが気持ち悪くて……」
アルマはため息を一つ吐いて、続けた。
「とりあえず、ここから二十kmくらい先まで街道沿いを飛んでみたけど、ギャリソンの一団が居そうな雰囲気は感じられなかった」
少し虚ろな表情のアルマを、エースとウーリャが気遣うように見やった。
「わかった。ありがとう、アルマ。食事をとったら少し休めよ。あとでその、どんな生き物がいたか教えてくれ。特に陸上のやつ。今日はもう少し日が高く昇ってから出発しよう」
「ああ。ちょっと少し休ませてもらう」
「どう思う?」
すぐ近くに横になり、腕で目を覆って身体を休めているアルマを見ながら、エースがウーリャに言った。
「どうって」ウーリャは、見当もつかないというように首を振って言った。「ここが異相に入っているならば、何が起こっても不思議ではない気もするわ。トリブ地方が丸ごと精霊の住む世界に取り込まれてしまっているということなのかしら……人がいないのもそれが原因? 私たち、実はトリブ地方とは別の場所にいたりして……」
「だが、地図どおりバージア城の近郊だし、大街道もあるよな。……異相か。だけど、俺たちの知っている異相はもっと、優しいというか温かい雰囲気だったけどな。見える異常と言っても、せいぜい小さな光の粒が飛んでるのとかくらいだった」
「私もそんなふうに感じた気がする。儀式の時は一瞬しか異相にはいられなかったからよくわからなかったけど。聖地の異相とは違う精霊の力なのかもしれないわね。……なんにしても、私たちは精霊の住む世界のことをよく知らなすぎるわ」
「そうだな。確かに知らなすぎる。異相がどれほど危険なのかもわからないし、ここが俺たちの入った異相と同じかどうかもわからない」
二人は日が真上に昇っている時間になっても薄暗い空を見上げ、しばし沈黙して思案に耽った。
「トリブ地方を精霊界に飲み込ませたのは、やっぱりイノーの仕業なのかしら……」
ウーリャがポツりと言った。
「もし、そうだとしたら……イノーの民が親しんでいる精霊の力が強いのかも……」
「……闇の精霊か? そんなの本当にいると思わなかったな」
「私も。敵を貶めるために話を盛ってるんだと思ってた」
「まいったな……。もっとおとぎ話を真面目に聞いておけばよかった」
エースがわざとふざけた調子で言った。しかし、その顔は不安を隠しきれていなかった。




