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タザランド領とトリブ地方の間を流れる大河、ウニュ河を下りながら渡る船が一艘。
その船の中ではタザランドの兵士エースとウーリャ、青の塔の子どもキャレリー、三人に巻き込まれる形で連れてこられたアルマ、の四名が乗り込んでいる。
船底で寝息をたてているのはアルマとキャレリー。ウーリャはそろそろエースと見張りを交代する時間だわ、と身体を起こしながら、久々に船の上で眠る感覚を思い出していた。
ウーリャは「海のタザランド」と呼ばれる、東の領地にあるしがない漁師の町で育った。
そこではほとんどの民が海で船を繰る技術を知っていた。もちろんウーリャもだ。小さな頃から泳ぐことをはじめ海で身を守る術は身につけていたし、身体に合った小さな船を自在に漕いで遊びながら学んできた。漁師の町では、子どもらは大人たちが集団で漁をするのを間近で見て、自分たちでも体験しながら育つ。もしウーリャが水の精霊力を授かったなら、きっと一生ずっと漁に関わる暮らしを続けただろう。しかし、ウーリャが八歳の時に精霊から受け取ったのは、炎を操る力だった。いくら漁のやり方を知っていても水や風の精霊力が使えないことには、船の操作には役立てられない。さらに力を授かった直後、ウーリャの生まれ育った海辺の町はイノー領による侵略を受け、一家は追われるように故郷の地を離れなければならなかった。
ウーリャの一家がウニュ河を渡って逃れた先は、領の中心であるタザランド城下街だった。どんなに高い山に登っても海などちらりとも見えない内陸の地で、漁師一家だったウーリャの家族は戸惑いながら苦労を重ねた。両親は生活の基盤を築くことに精一杯で、ウーリャとその妹は家計を助けるための手伝いなどして日々に追われるように過ごした。
幸い、ウーリャは炎の精霊力が強かったので、年頃になると仕官することができた。潮風と海水で傷んでいた髪の毛が、すっかり生え変わり腰まで伸びる豊かな黒髪になった頃、ウーリャは憧れの総隊長のもとで火炎部隊の一員となっていた。
厳しくつらい任務も、戦時下の故郷の街を思うと耐えられた。住み慣れた家を捨てなければならない悲しみ、仲間が侵略者らに殺される絶望感を思い出しては逆境を跳ね返し、困難と闘う力を培ってきた。
そんなウーリャにとって、隊を率いるヴィクトール総隊長は孤高の標榜であり、絶対的な存在だった。常に目で追い、力を解析し、技を盗み、その気風を取り込んでいるうちに、ウーリャは自分の気持ちがよくわからなくなった。ある時期から、その感情はいびつな形に変化してしまったように思えた。総隊長からじかに手渡された作戦用の赤い識別布を、ウーリャは作戦後も大切にヘアバンドにして頭に巻いている。 ウーリャは、とっくの昔に総隊長への思慕と執着を自覚するようになっていた。
いずれあの人の横に立つのは自分でありたい、と分不相応であることはわかっているが願わずにはいられない。
ウーリャは、思わずといった様子で今しがた後にしてきた右岸のある辺りを振り返った。しかし、ここは船底なので見えたのは船の壁だけだ。たとえ甲板に上がったとしても、辺りは深い闇に覆われて、タザランドの地は見えないだろう。ただ見えるのは水面に映る月影、聞こえるのは水音だけだ。
彼女は赤いヘアバンドに少しだけ触れ、赤い唇からため息を一つこぼした。
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——今回に限っては、船を操作するのは簡単だわ。
ウーリャは思考を切り替えるために、首を振ってから考えた。
四人が乗り込んだのは、二段組の横帆がたくし上げた状態で取り付けられたままになっていた中型の帆船だ。そしてここはだだっ広いけれども大海ではなく河川。今いるのは上流で、目的地は下流の対岸。我々は帆の調節と舵取りだけしていればいい。あとは流れに乗って下れば、大きく間違うことなく目的地に着くことができる。
——まったく……。土の霊力の使い手と火の霊力の使い手なんて、船旅に一番役立たない組み合わせなのよ。でも、きっとなんとかしてみせよう。
それに、無理やり巻き込んだけど、私たちにはアルマがいる。きっと大丈夫。
船は、闇の中をゆったりと河下へとくだっていく。
西からの風を受けているので、このまま東へ、対岸の方へ流されていっても大丈夫そうだ。タザランド側の岸も、対岸も、真っ黒くうごめく水以外は何も見えない大河の中央。ただ闇の中で水音だけが聞こえている。船底の小さなランタンの下、手狭な空間で身を寄せ合うようにして三人が身体を休めているところに、エースが降りてきた。彼はウーリャが目を覚ましているのを確認すると交代を告げてまた上に戻っていく。ウーリャがこれから見張りに立つ。
「“山のタザランド”にしばしお別れか……。河を渡ったら、久しぶりの里帰りだな。ウーリャ」
ウーリャが操舵席に上がり、エースから見張りを引継いだところでエースが言った。
「そうね。“海のタザランド” に歓迎してもらえればいいんだけど。……このあとの見張りは任せて」
ウーリャが手短に答えて、舵輪に向き直った。この先は何があるかわからない。時間を惜しんで皆が休める時にちゃんと休もうと決めたからだ。エースも簡単に返事を返して、仮眠を取るために船底に降りていった。
夜が明けると同時に、エースとキャレリーとアルマが起き出してきた。エースはもう少し休もうとしたが、少し眠ると目が覚めてしまったらしい。不慣れな船の上で緊張しているな、とエースは笑っていた。ウーリャが見張りを終えて仮眠に入る前、一堂が顔を揃えたので、しばし作戦会議をすることになった。
まずは上陸地点について。
賊らはドゥラルーからウニュ河を渡った。
普通に考えれば、賊らが上陸するのはドゥラルーのま東にあたる対岸のバージア城周辺だろうと思われた。
エースら四人も、今すぐに対岸を目指すのではなく、いったん下流まで下ってからトリブ地方に上陸しようと考えていた。どのくらい下流まで下るかは、賊が上陸したと思われるバージア城の周辺を目安と考えている。これは、確かな作戦があるわけではなくて、単純にエースとウーリャがバージア城くらいしか目印となるものがわからないからだった。なにしろ出立が秘密裡なものだったので、表立ってトリブ地方の資料をもらうことができなかった。四人の手もとにあるのは、エースがこっそり拝借してきた大判の地図が一枚のみで、地形図と街道と大まかな要所が載ったものだった。六年前の侵攻以前のトリブ地方が記載されている。いつ紛失してもいいように、四人は地図に記載された地形や位置関係を頭に叩き込んだ。
バージア城下の石造りの塔は、河からよく見える場所に立っていて、その姿はトリブ地方の玄関口としてランドマークと言えるほどに知られていた。
「バージア城……今もちゃんと残ってるよな?」
地図を睨みながら、エースが言った。
「一年前までは領主様、あ、前領主様か。前の領主のブルース様がドゥラルーで対岸と交戦していたでしょう? その時まではバージア城がどうにかなったなんて聞いてないわ。この一年間でどうなったかはわからないけど」
そう答えたのはウーリャだ。
「そうだよな……。ブルース様が亡くなってこちらの抗戦が出来なくなってから、不思議と対岸からの侵攻もパッタリと止んでしまった。まるで戦争なんてなかったかのような……それか、むしろタザランドが一方的にトリブ地方を攻めてただけみたいだよな。ま、それはさておき、トリブ地方の今の情報が欲しいところだよな」
この一年間、敵がウニュ河を渡って攻めてこなかったことは、領主を亡くしてゴタついていたタザランド領にとって都合がよかった。しかし、唐突な休戦状態となってしまって以降は、タザランド領からイノー領に送った使者が戻らなくなり、全くの没交渉となっている。トリブ地方から避難してきていた海のタザランド民のうち、望郷の念を捨てきれなかった少なくない数の者らがウニュ河を渡って敵の占領下にあるトリブ地方への潜入を図ってきた。しかし、出ていった者らは誰一人として戻ってこなかった。試験的に一時的な上陸を試みた兵や民すら戻ってこないため、この一年間のトリブ地方についてはなにも情報がない。
朝食の乾肉を口に咥えたまま帆柱を調整して、操舵席で船を操りながら流し気味に話を聞いていたアルマが口を開いた。
「ちょっといいか」
「どうした?」エースが答える。
「タザランド側の岸に近寄ってみたけど、何か建物が……宿場かな? そんなものが見えてる。 あれが見えるか?」
「んー、見えるな」エースが手のひらで影を作りながら眺めて言った。
「 だいたいどのあたりだろうか?」
「ああ、丘の地形からしてペイバの街かしら。まだ出発地のデュトワからそんなに離れていないわ。宿場十個分というところかしら」ウーリャが言った。
「ふーん」
——ドゥラルーからデュトワまでは二日で二百を超す数の宿場を駆けてきたのに、川下りは一晩で十宿か……
考えることは同じなようで、エースがポツリと呟いた。
「遅すぎるな」
「……私が風のまじないを使おう。昼間は地形を見ながら私が船を進めるので、夜は二人に見張りを頼んでもいいだろうか」
アルマが思案しながら言った。昼の間中まじないを使うと、自分の能力ではたぶん夜は休養が必要だろう、とアルマは考えた。
「そうね。エースと私のどちらかが交代で起きていればいつ何かあっても対応できるし」
異論もないので、アルマはすぐにまじないで帆に風をはらんだ。船全体が軋むようにしなった後、すさまじい走力で川を下り始めた。
「すごいな。このスピードを保てるのか?」
「大丈夫だ。風で帆船を動かすのは、まじないの基本中の基本なんだ。ただ、私の能力だと一日の半分くらいしか持たないので、夜は休ませてもらう」
アルマが照れくさそうに笑った。
「この風を半日吹かせ続けるのだってすごいことなのよ。アルマはもっと自分がすごい使い手だって誇りにしていいと思う」
「本当だ。『風使いのルイス』様が使うのと同じレベルの熟練した技だよ」
「そっか。ありがとう」
アルマは二人の役に立てていることがわかって、控えめに微笑んだ。風使いのルイス様が誰かはよくわからないけど……。
四人とも、アルマについてくる形で甲板に上がっている。
快速で飛ばす船のせいで、眠気まで吹き飛ばされたウーリャの要望で、四人は糧食をかじりながら、もう少しだけトリブ地方について話すことにした。キャレリーは帆柱につかまっていて、楽しそうに風に吹かれている。あれだけ速馬で乱雑に扱われても、キャレリーはくたびれただけで具合が悪くはならず、船の中で一晩休んだだけで復活した。今のところ船酔いもない。彼女の耐久力はなかなかに優れている、とアルマは思っている。
思い切り飛ばしているが、船酔いの兆候は誰にも見られない。
船は下流に向かってどんどん水面をほとばしる。
「六年前の侵攻以前の情報になるけれど、地図のおさらいも兼ねて説明するわね」と前置きして、ウーリャが話し始めた。“海のタザランド”と呼ばれるトリブ地方について、みんなが話を聞きたがったからだ。
「トリブ地方は、タザランド領直轄の三つの城が守っていた地域よ。それぞれの城には小城がいくつもあって、要所要所を系統立てて守っていたから、北にあるイノー領はそう簡単に攻めることができなかった。ウニュ河沿いに『バージア城』があって、その東側、トリブ地方の中心部に最大の要塞『ベノア城』があるの。トリブのこの二つの城は『大街道』沿いにあるわ。大街道っていうのは、バージア城下から霊峰プッチまで東に向かって続いている、聖地巡礼や交易用の街道ね。三つ目の城『ベール城』は、大街道から外れて北側、イノー領により近い位置にあるの」
ここまでは大丈夫ね、とウーリャは床に広げた地図で、城の位置を指しながら説明した。
「三つの城の頭文字のBをとって『三つのB』という意味の『トリブ』地方と名付けられたの。六年前の春の侵攻では、突如イノー領の領主マルカスが真ん中の城ベノアを落とした。マルカスの城はこのドゥーガル城ね」
ウーリャの指がイノー領の中心部にあるドゥーガル城の印を指さし、そこからさらにトリブ地方の中心部にあるベノア城の印まで一直線に滑り、ずずいっと城を突き抜けた。
イノー領の勢力がベノア城を撃破したところを表現したようだ。
「トリブ地方にとって一番の要塞だったのが中央のベノア城だったのに、いきなり首級が落ちたもんだから、そこから先は蜂の巣を突ついたような騒ぎで浮き足立ってしまって、その二ヶ月後にはウニュ河沿いのバージア城も落とされたわ。孤立した最後の大城、北のベール城もなすすべなく降伏して、三つの城はほんの二か月でイノー領のものになった」
「ベノア城はどうなったんだ?」アルマが言った。
「城の建物は残っているんじゃないかしら……? でも、ベノア城主のバルナクルス家ね。そちらは捕えられて獄死とか聞いたことがある。拷問を受けたとも」
「……まぁ、そうなるか。他の城やトリブ地方の領民たちは?」
淡々と続くアルマの質問に、ウーリャがちょっと口ごもった。
代わりにエースが口をひらく。
「領民の多くはウーリャたちのようにウニュ河の西へ避難してきたよ」エースが言った。「ただ、捕えられた捕虜やトリブ地方に残った領民は、身分を落とされて労役を科されたり、厳しい税収に苦しんでいたときく。トリブ地方が肥沃で日当たりのいい土地柄だから、農奴として使われていると思う。というのも、占領したイノー領民は農業の経験が乏しいから。イノー領の大半は北の痩せた土地なんだ。だからトリブ地方を支配しようにも、農耕や治水その他の産業知識に乏しい。できるだけタザランド領の領民を使役して農作業や漁業をさせているだろうな。前の領主のブルース様は苦役を強いられている領民のためにトリブ地方を奪還しようと戦っていたんだ」
エースは言葉を切って、ウーリャに顔を向けた。
「さぁ、もうウーリャは休んだほうがいい」
「そうね。このスピードなら、速馬よりも早くバージア城あたりの下流までくだれそうだし、数時間は休んでおかないと」
そう言って、ウーリャは船底に行った。
船が奔走して丸一日が経った。
川面の風が甲板にいるエースとアルマの間を通り抜け、帆柱にくっついているキャレリーの髪や服をはためかせる。風は、遮るもののない日光を和らげる気がして気持ちがいいが、吹き続く風にさらされていると、じきに寒く感じるだろう。エースは、帆柱を一段登ったところで遠くを眺めているキャレリーを眺めて、甲板まで呼び戻した方がいいかとちょっと考えた。
アルマが、風の操作と並行しているせいか感情の起伏が少ない口調で、エースに質問した。
「タザランドの前の領主がやっていた奪還作戦って、最前線はこのウニュ河だったんだよな?」
「そうだ。ウニュ河からトリブ地方への上陸を狙っていた。河岸のバージア城すら奪還できなかったみたいだけどな。ここよりもっと南のドゥラルーの街の辺りだ。……奪還作戦って言っても、実際は自領のドゥラルーで侵攻に耐えるばかりだったそうだ……」
アルマの問いに、エースがキャレリーから視線を戻して答えた。
「それなら、きっと今もバージア城は最も敵の防御が厚いんじゃないのか。無策で侵入できるのか……?」アルマは独り言を言った。そして思案しながらアルマはさらにエースに問うた。「エース。今私たちが帆走している場所の対岸は、イノー領?」
「うーん、そうだな。この地図で言うと、今はタザランドで言うとこのテルミナの宿場の手前あたりかな。まだ対岸はイノー領だな」
「たとえばトリブ地方まで下らずにこの辺のイノー領に侵入して陸路を南下するというのは、やっぱり危険なのか?」
「おそらく無駄な苦労を強いられる。あまり想定したくないな」
「理由は?」
問われて、エースはちょっと目線を上げて、河の東側を見た。
「まず土地勘がない。加えてイノーの領民だ。奴らについての情報がない。奴らの力については俺たちはよく知らないから危険しかない」
「そうか。そいつらもタザランドの民と同じように精霊の力を使うのか?」
「よくわからない。いや、たぶん、使うようだ。使うって言われている」
アルマの問いかけに、エースは言葉を濁した。
それを聞いて、アルマは大きく眉をひそめた。
「どういうことだ? 隣の領地で、戦争もしている相手なのに、なぜそんなにわからないんだ?」
「ドゥラルーではこの六年間、実はイノー領民とはほとんど戦っていないんだ」
「どういうことだ?」
アルマが訝しげにエースを見つめた。彼女の意識が完全にエースの言葉に持って行かれて、ちょっと帆に入る風が弱まっている。
「……まさか、タザランド領民を盾にしていたのか?」
「そうだ。よくわかるな。だから領主もむやみに精霊力が使えず苦戦していたとか」
「ひどいな。では、イノー領民の力は……例えば、人の心を操る力とか……?」
アルマが風のまじないに注意を戻しながら、つぶやいた。
「詳しくは俺にはわからない。……イノーの領民はタザランドの領民と違って、五精霊と契約しないらしい」エースが言った。
「ふぅん。五精霊って……。 ウーリャが使ってる『火』と、キースの『水』とエースの『土』、他には「風使いのなんとか様」の『風』に…?」
「ルイス様な。あとは『樹』だ。イノー領の領民はそれらの力は使えない……と言われている」
「歯切れが悪いな」
「そうとしか知らないんだ」
——新人とはいえ、現役の軍人が敵の戦力を知らないとか。
アルマは内心首を傾げながらも、船の帆に風を送ることへ注意を戻した。
「ねえ!何か見えるよ」
日差しがだいぶん傾いた頃、キャレリーが帆柱の横帆の上から呼んだ。タザランド側の岸を指差している。
それを聞いて、エースと見張りを交代したウーリャがタザランドの岸を見つめながら、アルマに言った。
「アルマ、速馬でテルミナの宿場を通ったの覚えてる? かなり目立つ物見の塔が建っていた宿場なんだけど」
「ん、なんか見たかも」
「その物見の塔が見えるわ。おそらくここの対岸がイノー領とトリブ地方の境目ね」
「そうか。だいぶ南に下ったな」
「そうね。この速さなら夜にはバージア城周辺かしら……」




