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タザランド領の北境。
山脈に飲みこまれたように樹々に囲まれてひっそりと佇む城、アゼマ城。
居心地よく整えられた主寝室では、いつものように静かな一日が始まったところだった。
城の主アルフォンスはその寝台を出て、手ずから水差しを取り上げてコップに水を注いだ。上半身には何も身につけておらず、若々しく張りがあるがややほっそりとした身体の線が朝日にさらされている。そのまま彼は窓辺の座り心地のいい椅子に腰掛けて水を飲んだ。
アルフォンスは、タザランド領の前領主の長子と言う立場でありながら、領地の北の果てへ追いやられている。しかし中央にいれば嫌でも耳に入ってくる外聞も、僻地に赴いてしまえば雑音にすらならない。辺境の地においてアルフォンスは至って平和で穏やかな日々を過ごし、それを心から楽しんでいた。
今日は何をしようか。読みかけの物語の続きを読もうか、久しぶりにフィドルを弾いてみるのもいいな。時間はたくさんある。まずは森の散策をしながらゆっくり考えよう。アルフォンスは長い髪をゆったりと結い、背中に流した。いつもの長い衣を羽織ろうとしたところで、控えめなノックの音が響いた。
「……いつもより早いね? トッポ」
朝はのんびりと部屋で過ごす習慣のアルフォンスの部屋に、深い緑色侍従のトッポが入ってきた。
「おはようございます、旦那様。実は夜半に少し警備上の問題が起こりまして、ご報告と指示を仰ぎにまいりました」
「ほう、何があった?」
基本は平和主義なアルフォンスだ。しかし、刺激の少ない生活を送っている者としてはちょっとした変化にも興味をそそられる。トッポの様子からは差し迫った危険は感じられないので、純粋に興味を惹かれた。
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「顔を上げてくれるかな?」
アゼマ城の主アルフォンスから、そう声をかけられて、身体を丸めて顔を伏せていた女性とその従者がおずおずと身体を起こした。と同時に、女性の頭から被っていたフードが外れて顔があらわになる。
「……ほう?」
城の主アルフォンスが女性の容姿を見て鷹揚に声をあげ、チラと侍従に視線を送った。
トッポもあらかじめ用意していた言葉を確信が持てない様子で主人に伝える。
「おそらくですが、この女性は旦那様の予想どおり、樹木の精霊の眷属かと思われますが……」
「名前を聞いてもいいかな?」
アルフォンスが女性に声をかけた。
床に膝をついていた女性がキョトンとアルフォンスの目を見つめたのち、困ったように従者を振り返った。
女性はアルフォンスらから見ると、一風変わった容姿をしていた。透き通るように白い肌と、小さな顔の中で大きく存在感を放つ深い翠色の瞳は人間離れしていて、見るものを惹きこむ美しさだ。そして何よりも異様に目を惹くのは、彼女の淡く緑色に色づいた豊かな白髪だった。彼女は妙齢の女性のように見えるが、まるで子どものように幼い仕草をするようだ。
一方で従者とみられる男はごくありふれた容姿で、黒い髪に、木の精霊力を宿す緑色の瞳をしていた。まず口を開いたのはその男だった。
「発言をお許しください。我が主はシッカイ領から逃れて参りましたラースカポディダエ族です。主は一族の姫君であるため個人名を持たず、ただラースカポディダエ様と呼ばれております」
「ラースカ、ポ……族?……初めて聞く言葉だな」
アルフォンスが怪訝そうな顔をして言った。用心のため数名の侍従が二人の来訪者を囲んで立っているが、トッポをはじめ皆がチラチラと視線を合わせていた。誰も知らない名称のようだ。
「その女性は樹木の精霊の眷属様と見受けますが、違いありませんか?」
トッポが従者の男に尋ねた。
「はい。ここにおられるラースカポディダエ様とその一族は樹の精霊の眷属でございます」
「おお、牧人の他にも樹の精霊の眷属が存在するとは!」
アルフォンスが目を輝かせて声を上げた。すぐに女性に歩み寄ると手をとって立ち上がらせ、広間の椅子をすすめた。
「知らなかったとは言え、大変失礼な対応をしてしまいお詫びを申し上げます。私どもは木の精霊の使い手です。樹の精霊の眷属の方にまみえることができるなど、こんなに名誉なことはありません。どうぞ私どもの客人となって城に滞在してください。そしてぜひ、我々にラスカポディ……族のことを教えてください!」
アルフォンスにぴったりと寄り添われて、ラースカポディダエ様と呼ばれた女性の顔がほんのりと赤く色づいた。それと同時に彼女の頭髪も、淡い緑色から紅葉に変わる葉のように濃い朱色に染まった。
「おお!なんと神々しい!ラスカポ、ダー様、失礼。私には少し発音が難しいようだ。もしかして、貴女様のお髪は感情にあわせて色が変わるのでしょうか」
「……はい」
「! ……なんと可愛らしい声だろう」
アルフォンスは精霊の娘の横に寄り添うように腰かけ、その手をしっかりと握ったまま心を奪われたように彼女を見つめた。
従者が説明するところによると、シッカイ領では近年為政者の座についたハーバー家が、領地を治めていた土着宗教のセードラー会を排除する動きを見せ始めたという。セードラー会というのは、樹木の精霊を至高の神として崇める宗教団体で、シッカイ領の多くの民から信仰を集めている一大宗派だ。宗教で結びついた組織や民らの結束力は強いものの戦力を持たないために、領主のハーバー家の力に押されて、近年は迫害が進んでいるそうだ。そしてセードラー会が手厚く保護していたラースカポディダエ族も迫害の対象となり、こうして離散して領地を離れなければならなくなったということだった。
シッカイ領は宗教色が強い地域で、その内情は秘匿されていて外部に語られることが少ない。ラースカポディダエ族の娘とその従者が隣接するタザランド領へと無事に逃れられたことは奇特なことのようだった。二人がアゼマ城でアルフォンスに話したことは、タザランド領では知られていないことが多かった。
アルフォンスは、姫と従者だという二人をアゼマ城に匿うことにした。
タザランド中央への通達はしばらく様子を見るといったところだ。
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「アルフォンス」
鈴をころがしたような声で名を呼ばれたアルフォンスは、相好を崩して恋人に歩み寄った。
「どうしたの、可愛いべレッタ」
「森に行きたいな。ここの牧人たちにも会いたいの」
「いいね。一緒に行こう」
そう言ってアルフォンスは恋人を軽く抱きしめた。
べレッタ、と呼ばれたのは先日アゼマ城に逃れてきたラースカポディダエ族の姫だ。呼びにくかったこともあって、早々にアルフォンスが改名してしまった。従者はスミラックスと名乗った。二人がアゼマ城に滞在することになってからの数日は、ベレッタの身の回りのものを整えるために時間が費やされた。そして、やっと生活が落ち着いたところでのベレッタからの可愛いおねだりに、アルフォンスは一も二もなく承諾した。
ベレッタの散歩の誘いを快諾したあと、アルフォンスは腕の中のベレッタの毛髪がほんのり赤く染まるまで抱擁を解こうとしなかった。気恥ずかしさと拘束にしびれを切らしたベレッタが、モゾモゾし始め、顔を上げて口をへの字に曲げて突き出した。
「もう! 早くアルフォンスと一緒に出かけたかったのに」
「ふふ、ベレッタは本当に可愛いな」
アルフォンスはクルクルと表情を変えるベレッタから目が離せなかった。ベレッタがやってきてから数日しか経っていないのに、ベレッタがいなかった時の穏やかな生活のことが思い出せないくらい彼女を中心に物事を考えるようになった。いろいろとベレッタのことを知っていくのも楽しかった。ベレッタは成熟した女性の身体を持っているのに、実はまだ生まれてから五年しか経っていないという話を従者のスミラックスから聞いた時は驚いた。
「ラースカポディダエ族はまだ見出されて間もない一族なのでご存じなくても不思議はありません。セードラー会で一族を保護したのも、ほんの十数年前なのです。まだよくわかっていないことも多いのですが、ラースカポディダエの一族は生まれてから数年で成熟します。そしてそのままの容姿で数十年を過ごしているようですね。ラースカポディダエ様、いえ、ベレッタ様もおそらくはこのまま数十年かもしくはそれ以上の年月を、外見が変わらないまま過ごされることと思われます」
スミラックスはそう言っていた。
アルフォンスはこれまで聞いたことのないラースカポディダエ族という存在に疑問を持たないわけでもなかった。しかし、一度はセードラー会で保護されたにもかかわらず、現在ではシッカイ領主から迫害に遭っているというラースカポディダエの一族に強く同情を覚えていた。ベレッタの親族もどこかに逃げているのか、またはすでに生存していないのか……。スミラックスとベレッタにそれとなく身内のことを尋ねてみたことがあったが、「一族のことは秘匿されていることも多いから」といずれも口が重かった。
アルフォンスは天真爛漫な顔を見せるベレッタを眺めながら、昔のことを掘り下げるよりは今の彼女の笑顔を大切にしたいと思うのだった。
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「なんと! アルフォンス様。牧人たちがベレッタ様の周りに集まっています」
「……すごいな。同じ樹の精霊の眷属同士ならば意思の疎通ができるだろうとは思っていたが、これほど親密な関係とは……」
小さな声で驚きを押し隠すようにして会話しているのは、侍従のトッポとアゼマ城主アルフォンスだ。トッポのそばにはベレッタの従者のスミラックスもいる。トッポとスミラックスは同じ木の精霊力の使い手ということもあり、早くに打ち解けた様子だ。
ベレッタに促されるままに森にやってきたら、普段は会えるかどうかわからない希少な存在のはずの牧人が、森の入り口にこれまで見たこともないくらい大勢集まっていた。まるでベレッタが来るのを待ち構えていたようだった。
二人の視線の先には、森の木々の合間に集合している数十名の牧人と、その中心にいて穏やかな顔で牧人らと接するベレッタの姿があった。牧人は声を発する器官を持たないため、音声で会話をすることはないと思われている。そして今もベレッタに対して音を発してはいない。しかしまるで彼女に何かを話しかけるように、近くに寄り添っていた。ベレッタに対しては何らかの方法で牧人たちの意思が伝わっているようだった。なぜなら、ベレッタが時々大きな身振りを交えながら、一人ひとりの牧人に人間の言葉で返事をしていたからだ。森閑とした場所に、ベレッタの陽気な声だけが響く。
牧人とベレッタの交歓はしばらくの時間がかかったが、やがてゆっくりと時間をかけて牧人が森へと散っていった。ベレッタは最後の牧人を見送った後、急拵えで仕立てたシンプルなドレスの裾をひらめかせながら満足げな表情を浮かべてアルフォンスと従者らのいるところに戻ってきた。
「ああ、アルフォンス。タザランドの牧人たちはとても素晴らしい人たちだよ。私、彼らと知り合いになれてとても幸せ!」
「それはよかったよ。ねえベレッタ、君は牧人たちと話をすることができるの?」
「もちろんだよ、アルフォンス。牧人たちはたくさん話をしてくれるの。とてもゆっくりだけどね! この森の樹々のこととか、水と土の話とか……」
「私たちには彼らの声は聞こえなかったけどなぁ。牧人と話せたら楽しいだろうな」
「彼らはあなたのこともよく知っているよ、アルフォンス。森に優しい城主が来たって言っていたよ」
「本当に? そうだとしたら、とても嬉しいな」
アルフォンスは顔を上気させて喜んだ。
「そっか。これからは私が森の番人たちとタザランドの人たちの関係を取り持つお手伝いをしたいな!牧人たちも人間に伝えたいことがたくさんあるみたい。タザランドの人たちが森の樹々を大切に扱ってくれるように、とか、いくつか要望を聞いたよ」
「それはすごいことだ! 早速だけど詳しく話を聞かせてくれるね? 樹々や牧人の要望というのがあるならすぐにでも知りたい。彼らに困ったことがあるならすぐに対策を考えよう。……あぁベレッタ、君がこの地に来てくれたことを心から精霊に感謝するよ。樹の精霊の力がもっとタザランドに及ぶように、私たちで力を尽くそうじゃないか」
樹の精霊の使い手であるアルフォンスにとっては、守護精霊の眷属の力を借りられることは何よりも強い心の支えとなった。アルフォンスはアゼマ城に樹の精霊の力が満ちることで、この地に地上の楽園が築くことができるのではないかとまで期待を抱いた。その考えは樹の精霊至上主義ともいえるかもしれない。その理想郷の実現に向けてならば活力がどんどん湧き上がる気がして、アルフォンスは喜びを噛み締めた。
無邪気に笑い合う二人を目にした二人の従者が、視線を交わしてうっそりと笑った。




