第八章──聖霊師誕生
聖霊師誕生
Ⅰ
「この能力はいったいなんだろう?」時折、香神虎は物思いに耽ることがあった。それを考える時は決まって見えないモノが見えてしまう時だった。
祖母が亡くなるまで、虎は自分に見えているモノは誰にでも見えていると思っていた。
七歳の時、初めて家族の中で葬式を出した──それが祖母だった。祖母は誰にでも優しい穏やかな人だったが、とりわけ虎には優しくて、虎もそんな祖母が大好きだった。病床に伏せってからの祖母は、辛そうにしていても愚痴をこぼすことはなかった。結局今際の際まで祖母は虎に笑顔を絶やさなかった。
臨終を告げられた時、家族は祖母の亡骸にしがみついて噎び泣いていたが、虎は涙も出ないほどショックだった。家族は慌ただしい葬式の準備に追われ、悲しむ暇もなく動き回っていたが、虎だけはそんな家族を横目に棺桶に寝かされいる祖母に付きっきりだった。その姿は誰の目にも祖母の死を悲しみ、亡骸から片時も離れまいとする、けなげな孫に映って見えただろう。けれど虎はそんな理由で祖母の亡骸に寄り添っていたのではなかった。祖母はなぜか自分の亡骸の側に座っていた。着ている物も普段祖母が着ている物だったし、仕草も普段の祖母と変わりなかった。
やがて会葬者が訪れると、笑顔で〝お世話になりました〟と丁寧に頭を下げて回ったのだった。
虎は祖母の亡骸に寄り添っていたのではなく、祖母の霊に寄り添っていたのだ。祖母が亡くなった端はショックを受けた虎だったが、すぐに祖母がいつもどおり身近にいることが分かると、死が永遠の別れではなく、肉体と魂とが離れるだけだと子供ながらに理解した。
葬式も済み、家族皆がやっと落ち着いて食卓を囲んだ時、虎は〝祖母もここにいるのに、どうしてご飯を装ってあげないのか?〟と尋ねた。それから家族は大騒動になった。虎の父は母親が座っている場所を虎に尋ねると、みんなを退けて座布団を敷いた。虎の母は生前姑が使っていたお箸とお茶碗とお湯のみをばたばたと台所から持って来ると、お櫃からご飯をてんこ盛りに装い温かいお茶も用意した。虎の祖父は誰も座っていない座布団を不思議そうにぼーっと見てたが、〝あいつが本当にここにいるのか?〟と虎に念を押した。虎が〝ここでみんながご飯を食べるのを楽しそうに見ている〟と教えると、丸めていた背筋を伸ばして〝お前にはもう少し優しくしてやれば良かった…〟と泣きながら詫びた。祖母が〝そんなことはありません。私はあなたと一緒になれて幸せでしたよ〟と言っていると祖父に伝えると、〝もうすぐお前のところに行くからな〟と手で涙を拭っていた。
それからは家族が頻繁に祖母の居場所を聞いてくるようになった。はじめ虎は、みんながどうして自分にだけ祖母のことを尋ねてくるのか疑問だった。今まで家の中でも学校でも、あるい病院でも、明らかに生きている人ではないモノが見えていたが、それらは自分だけの目に映っていたのだと漸く真実を知ったのだった。
虎は自分の能力を自然のまま受け入れて成長していったが、思春期を迎える頃になると、さすがにその力を奇妙に思い始めた。
その頃虎の住んでいた家の近くに、祈祷を生業としている老婆がいた。老婆は温厚な性格で、虎の尋ねることになんでも快く答えてくれた。
その老婆も虎と同じで、幼い頃から人にはない能力を持っていたため、気味悪がられて孤独だったこと。もともと東北の出身だったことから、ゴミソとなって持って生まれた力を鍛える修行に励んだこと。厳しい修行を積んだわりには、自分が期待したほどの力は得られなかったが、それでも祈祷によって多くの人が助かっていることなど、虎にとっては興味深い話をたくさん聞かせてくれた。
六年後──虎はゴミソとなってひたすら修行に励んでいた。なるほど老婆のいうとおり、どんな修行を行っても、これといった手ごたえはなかった。それでも修行を続けていれば、神が自分になぜこんな力を与えたのかを教えてもらえるかもしれない。苦しい修行もそう考えると耐えることができた。
それからもひたすら修行に励んだ虎は、やがて一人の女性に恋をしてしまう。高宮ハルという、小柄で美しい女性だ。その美貌は〝罪なほど〟と言っても過言ではなかったが、ハルはそれを鼻に掛けるような女性ではなかった。
ハルの美しさに魅了される修行者は一人二人ではなかったが、ハルは何の興味も示さなかった。そうした浮ついた心こそ修行の妨げだと思っていたからだ。だからといって言い寄って来た男たちを毛嫌いするわけでもなく、ハルは誰にでも優しく接した。こうしたハルの内面に惹かれたのが虎だった。虎は自分が挫けそうな時、女性ながらも男に負けない厳しい修行に励んでいるハルの姿を見て自らを奮い立たせた。虎にとってハルは特別な女性であり、ゴミソとしての良きライバルでもあった。
ある日ハルは事故に遭った。火の行として炭火を敷き詰めた道を渡りかけたその時、突然意識を失い顔面から炭火に突っ込んだ。幸い一命は取り留めたものの、美しかったハルの顔には醜い火傷の痕が残った。
それまで自分の顔に執着などなかったハルもやはり女性だった。醜いケロイドは、今まで自分がどれほど恵まれていたのかを知るには充分すぎるものだった。ハルはその醜い顔を人前に晒すことができなくなり、すっぽりとずきんで顔を覆うと、性格までも覆い隠し歪んでしまった。
人の失敗や不幸をえげつなく喜んでみたり、喜び事などには皮肉や嫌みを言って周囲を不愉快にさせた。
最初は哀れむ気持ちで仕方なく許していた周りの者達も、だんだんハルを避けるようになり、そのうち石を投げる者や、腐った残飯を家に投げつける者さえ現れた。いつしかそんなハルのことを人々は〝気障りのハル〟と呼ぶようになり、誰も相手にしなくなっていった。
そうしたハルの噂は虎の耳にも届いていた。それまで虎は一度もハルの前に姿を現したことはなかったが、それには理由があった。どこまでもハルをゴミソとしてのライバルで留めておきたかったからだ。ハルに今以上の感情を持てば、自分自身の修行の妨げになってしまうことを虎は重々承知していたのだ。〝好いた惚れたはご法度〟良きライバルとして一線を引いておくことを、いつも自分に言い聞かせていた。もう手遅れかもしれない恋心に鞭打って、人づてに聞くハルの噂に満足していたのだった。
それが今、ハルの噂は虎にとって心地良いものではなくなっていた。
〝誰かが助かるなら喜んで手を差し伸べてやればいい…それが人間としての勤めだ〟これは虎がゴミソの修行で学び取ったことだった。
──「今彼女に声をかけてやれるのは自分しかいない。今彼女を助けてやらずして、いつ助けてやれようか…」虎の腹はもう決まっていた。ハルを助けることが目的であって、恋することが目的ではないと、虎は信念がふらつかないよう、何度も何度も自分に言い聞かせた。そして初めてハルの前に姿を現した。
その時のハルは虎を汚い物でも見るように斜で睨んでいた。虎はそんなハルの態度を気にもせず、思っていることを素直に伝えた。
「今までずっと陰から君のことを見てきた。でも僕が見てきたものは君の見目形じゃない。ひたすら修行に打ち込む姿だ。君の火傷の痕は消えずに残るだろうが、君の本当の美しさはその内面にあることを僕は知っている。だから人を傷つけることで自分の心にまで傷痕を残してほしくないんだ。ゴミソとしての誇りを見失わないように自分らしく生きてほしい」決して嘘はついていなかった。ただもう一つの気持ち──〝恋心〟だけは口にせず、心の奥底に仕舞っていた。
ハルは名も知らぬ初対面の男に、今まで経験したことのない感情を覚えた。この男の一言一句がハルの心を貫き、痛みと切なさ、それに素直さまでもが沸き上がってきたのだった。涙が後から後からこみ上げ、とうとうハルは立っていられずその場にへたり込み、声を荒げて泣いた。
長い間自暴自棄に陥っていたハルだったが、暗雲に被われていた心の中に、新鮮な空気が一気に流れ込んで来たような気分だった。
そしてハルはこの瞬間生まれて初めて本気で人を好きになった。恋というものがどれほど切ないものなのか──ハルはこれから生涯をとおして思い知らされることになる。もしかするとハルにとってこの恋こそが、人生で一番厳しい修行だったかもしれない。
数年後──ハルは再び修行に励んでいた。人前でずきんを被ることもやめ、ヤケドの痕を晒して歩いても平気だった。もちろん周りに危害を加えたり、嫌がらせをすることもなくなった。それでも一度〝気障りのハル〟というレッテルを貼られたハルは、文字どおり不愉快な人間として誰からも相手にされることはなかった。
虎もハル同様、黙々と修行に励んだ。ハルが滝に打たれたり、石の上に座って精神を鍛える直向きな姿に、虎は何度も心を奪われそうになった。そんな時は自らも滝に打たれてハルへの想いを封印した。道で偶然すれ違った時は、ただ修行に打ち込むハルに興味を示す態度で言葉を交わすだけだった。
ハルもそんな虎の態度に対して、わざと素っ気ないそぶりをとった。虎が見目形にこだわらないと言ってもやはり男──こんな醜い顔など嫌に決まっていると思い込んでいたからだ。
そうして二人は互いの本心を隠したまま────また数年が過ぎていった。
ある日、虎が突然ハルの家を訪ねてきた。そんなことは今まで一度もないことだった。もしや自分に恋の告白をしてくれるのかと一瞬心を過ぎったが、それはすぐに打ち消した。
虎から発せられた言葉はまさに青天の霹靂だった。突然山を下りると言うのだ。しかもその理由は神から天啓を得たからだという。虎に下がった啓示は、憑物によって苦しむ民衆たちを、神から与えられた霊能力によって救うことだった。憑物を追い払う除霊とは違い、邪悪に染まった憑物を本来の御霊に戻してやることで御霊も民衆も助かるというものだった。
虎はそれを〝聖霊〟と呼び、自らを聖霊師と名乗って生業にするとハルに言い残して下山した。その別れはあまりにもあっけないものだった。〝一緒に山を下りよう〟と言ってもらえるとは思っていなかったが、それでもハルは女として嘘でもいいからその言葉を聞きたかった。
結局ゴミソとして生きていく選択しかなかったハルは、それからも誰とも関わることなく、空虚な心に鞭打って修行を続けた──唯一本気で恋をした香神虎という男の影を引きずったまま。
Ⅱ
錫は気障りの婆に、今まで起こった出来事をすべて話した。
「…なるほど。お前は逃れられん運命に突き動かされているようじゃなぁ…」空想のような話を理解してもらえた錫は、持っていたポシェットから大仏殿の柱の穴を写した写真を取り出し、気障りの婆に差し出した。
「ほほぅ!これが真っ白いトンネルというやつか…!?」
「やっぱりお婆さんには見えるんですね!?」錫はたまらなく嬉しかった。
「当たり前じゃ。ワシを誰だと思うとる…」
「気障りのお婆さん!」バカ正直に答えた──。
「…ったく…お前は本当に天然じゃな…。一つ教えておいてやる。この柱の場所はなぁ、大仏殿の中心から見て北東の方角…つまり〝艮〟の方角にあるんじゃ」
「…艮の方角?」
「うむ…いわゆる鬼門と呼ばれている方角じゃ。昔から邪気が流れてきて厄をもたらす方角とされてておる。大仏殿に限っては、鬼門から流れてくる邪気が柱に当たって堂内に蔓延するのを防ぐために、鬼門封じとして穴を開けて邪気の通りを良くしているという話じゃ」
「へぇ~…。賢くなるために開けた穴だと聞いたけど──諸説あるのね」
「それに鬼門はどこかの世界に通じる出入り口だと聞いたこともあったが…この写真を見てそれが本当だと確信したわい」
「それじゃ、もう一度あの場所に行けば向こうの世界に行けるということ?」
「それはワシにもわからん。比叡山延暦寺を知っておろう?…あそこは京都御所の鬼門の方角に存在しておるんじゃ。御所を守るための鬼門封じとしてな。つまり鬼門は艮の方角に常に存在しておる。ということはじゃ…どの鬼門の場所に出入り口があってもおかしくはないということじゃ」
「スゴ~い……んじゃ、お婆さん、私の鬼門の場所から向こうの世界に行けない?」
「バカかお前は!そんな簡単に行けるならワシが一番に行っとるわ」
「どうせバカですよ~だ!」錫は小憎らしく舌を出すと、気になっていた〈神霊界賜尊具〉について尋ねてみた。
「さぁのう…あれがなんなのかはワシにもよう分からん…。お前のじいさんがワシに神霊界賜尊具を預けにきた理由は、自分が死した後、あの摩訶不思議な霊具を使いこなせる者がいなかったからじゃ」
「でもパパは一応使いこなせているわ。この前も聖霊に立ち会ったけど、ちゃんと扱えてたもん」
「では聞くがなぁ、ションベンたらし娘…」
「ショ…ションベンたらしって…」錫はムカッとしたが、気障りの婆はお構いなしに話を続けた。
「いったい誰が集鬼鈴と晶晶白露に霊気を補充しとるんじゃ?お前のじいさんがワシにあれを託したのは、それをできる人間が他におらんからじゃろ?」
「そっか!…パパでは補充できないから、おじいちゃんはわざわざお婆さんに神霊界賜尊具を預けなくちゃいけなかったのね?」
「極論を言えば、霊気の溜まった集鬼鈴と晶晶白露を正しい手順さえ踏んで使えば、誰でも聖霊ができると言うことじゃ。それはお前も気づいたじゃろ?」
「はい、霊力が無くてもパパは聖霊を……そっかぁ!霊気の補充もできないパパは集鬼鈴や晶晶白露を使いこなせているとは言えない…そう言いたいのね?」
「気づくのが遅~い!だから〝ションベンたらし〟に格上げしたんじゃ」
「うえ~ん…私からすればそれは格下げですぅ…。でもパパが神霊界賜尊具やお婆さんのことをはぐらかしていた理由が分かったわ。おじいちゃんがお婆さんに神霊界賜尊具を預けたことで、パパは聖霊師として認めてもらえていないと思っちゃったんだね…。パパだってプライドがあるから、娘にそのことは言いづらかったということか…」
「あの男は優しかったからのぉ…。自分が死んだ後も婿の香神一が聖霊に困らんように、ワシにこいつを託したんじゃ」
「もしかしたらおじいちゃんは、パパの演劇の才能を見込んでお母さんと結婚させたのかも…。神霊界賜尊具にパパの持ち前の演技力が加われば、おじいちゃんに負けない聖霊師ぶりを発揮できるもん。現に私はころっと騙された。今のパパは霊力なんか無くったってカリスマ聖霊師だよ」
「インチキカリスマ聖霊師じゃ!」そのとおりなので錫は反論できなかった。
「聖霊を助けてくれる集鬼鈴や晶晶白露ってなんなんだろう?」
「残念じゃが、今となっては分からん…。あの男がもう少し長生きしてくれていれば良かったのだが…」
〇
虎の得た天啓が何を意味していたのか──。死を予感していた虎は、ハルの元を訪れてその一部始終を話すつもりだった。山籠もりの修行があと少し早く終わっていれば、ハルは虎からすべてを聞けたはずだ。しかし二人の歯車は噛み合わなかった。修行を終えて帰ってきたハルは、すぐに虎の置き手紙に気づいた。手紙を読んだハルは、疲れきった身体のことより虎に会いたい一心で、明朝すぐさま出発できるよう身支度を調えて休んだ。
奇しくもその夜中──ハルの枕元に虎が現れた。それは即ち虎の死を予感するものだった。「せめてあと一日…あと一日早ければ…」ハルは真相を聞くことよりも、生きて虎に会えなかったことが悔やまれてならなかった。
〇
「おじいちゃんはあんなスゴいモノをどうやって手に入れたの?」
「おそらくはどこかで作らせた物じゃ。お前の話を聞いて分かったわい」
「私の話で?」錫は一言も聞き漏らすまいと、耳を引っ張って大きくした。
「狡狗とやらとの戦いで、お前の手に現れた短刀こそ本物の晶晶白露じゃ…分かるなぁ?」錫は大きく頷いた。「あの男は晶晶白露の存在をもともと知っていた…。だが本物の晶晶白露は持っていない。そこで霊気を蓄えて封じ込めておくことのできるレプリカの晶晶白露を作らせた。ただし普通に作ったんでは霊気を蓄えることはできん。何か秘密があるはずじゃ…」
「なるほどね…。でもあのあと本物はどこに消えたのかしら?」
「お前の体内に潜んでいるはずじゃ…」
「た…体内…?だったらお婆さん…なんとかもう一度晶晶白露を取り出したいの!お願い協力して!」錫は手を合わせてペコペコと気障りの婆に頭を下げた。
「なんでそんなに取り出したいんじゃ?」
「だって…〝自称神様〟が探し出せと言ってた秘宝って晶晶白露のことでしょう!?」
「あ~~~~~っ!?────お前は本当におめでたい単純な天然女じゃな!」
「ゲッ!お婆さんにまでそれを言われるなんて…スズちゃん凹むぅ~」
「お前の話だと秘宝とやらは三百年に一度満年を迎えるんじゃったなぁ?そんな秘宝が、お前ごときの手に簡単に渡るものか!それにあの男が殺されたのも、その秘宝が関係しておるとワシは思うとる。それほどまで周囲を巻き込む代物が、そう易々とお前の手に入る方がおかしいじゃろうがぁ。少し考えろ……バカ女が!」
──「クッ!この婆さん…若い頃は大モテだったってホントかしら?おじいちゃんとの恋物語に〝ほろっ〟とした私がバカだったわ」
「まぁ晶晶白露はそのうちまた出てくるわい」
「そう言われてもなぁ…。じゃあお婆さん集鬼鈴は?集鬼鈴はなんなの?」
「しつこいのぉ……あらゆる魂が魅了される鈴じゃろう」
「そうじゃなくて…おじいちゃんは私が鈴を鳴らしたらビックリするだろうって私の母に話していたの。だから私は集鬼鈴がその鈴だと思って狡狗に鈴の音色を聞かせてみたのに何も起きなくて…逆に狡狗にバカにされちゃったんだよ」
「慌てるな──なんでもいっぺんには分からんわ。…それよりワシも久しぶりにあの男の思い出話ができたわい」気障りの婆は目を細めて嬉しげな顔をしてみせた。そこに大粒の涙を溜めているのを錫は見逃さなかった。小憎らしいが、悲恋を秘めたまま人生を過ごした気障りの婆を錫は憎めなかった。その相手が祖父だとなればなおのことだ。この女心に錫までも涙してしまいそうだった。なんとか気障りの婆を癒してやれないものかと考えていた錫は、ポシェットから二枚の写真を取り出して気障りの婆に差し出した。
「おぉ、懐かしいのぉ」そう呟いた気障りの婆は恋する女の顔だった。切ない女心を憐れんで見つめていると、気障りの婆がすぐさまその気配に気づいた。「何をジロジロ見とる?気持ちの悪い奴じゃ!」錫は慌てて視線を逸らした。
「お婆さん、写真の裏を見て。おじいちゃんが短歌を残しているんだけど、これがまた意味不明で…。お知恵を拝借したいの」気障りの婆は言われるまま写真を裏返して、短歌に何度も目をとおした。その間に錫は、この二枚の写真を見つけ出した経緯を話して聞かせた。
「…ふむ……夢で見つけだした写真というわけか…」
「えぇ…だからどうしても何かのメッセージじゃないかって勘ぐってしまって…」気障りの婆は写真の表と裏を何度も返した。。
境内地 愛犬〝いし〟と遊ぶ孫
母のひと声〝いし〟は生き生き
「ふむ…お前の母親は名は?」。「鈴子といいますが…」
「ふん…。〝いし〟というのはお前の飼い犬だったのか?」。「はい。ちなみに〝いし〟の名付け親はおじいちゃんよ」
「誰も聞いとらんわい…そんな〝ちなみ〟の話など…」つっけんどんに言われて、錫は歯ぎしりしながら怒りを抑えた。
──「この婆さんだけは…いつかコワ~い思いをさせてやるぅ」
「もう一枚はあの男の晩年の写真じゃな?杖を持っておる…」
「はい、古傷が痛むらしくて、いつも杖をついていたの」
「ワシのせいじゃ…。ワシのせいで足を痛めたんじゃ」。「お婆さんのせい?」
「あぁ…。嵐の日に山で修行をしていたワシは、土砂に呑まれて動けんようになったことがある。あの男はワシを見つけて土砂を取り除き、安全な場所まで負ぶってくれたわい。ところがやれやれと思った途端、強風で大木が倒れてきてのぉ。あの男は咄嗟にワシをかばってくれたが、自分の足を挟まれてしまったんじゃ。年と共にその時の傷が痛み出したんじゃなぁ…ワシのせいじゃ」またも目が潤んでいるのを錫は見逃さなかった。
──「お婆さんは私には小憎たらしいけど、おじいちゃんにはとっても素直だわ…恋する気持ちに年齢は関係ないのね。私もいつかそんなステキな人に巡り会えるかなぁ…?」
「お前何をニヤニヤしておるんじゃ?気持ち悪いのぉ」
「すみませんねェ、気持ち悪くて!」錫は尖った声で言い返した。
──「寝ている間に油性ペンで顔に〝へのへのもへじ〟を書いてやるぅ!」錫が目をつり上げるのと反対に、気障りの婆は、その口元に笑みを浮かべた。
「お婆さん、何か分かったの?」。「あぁ…分かったぞ!」
「ホントですか?何が分かったの?」錫の目が期待で輝いた。
「あの男は晩年もいい男じゃと分かった」。「はぁ~~~!?」
「冗談じゃ…バカ!」錫は真っ赤な顔で気障りの婆を睨みつけた。
──「ギリギリ~…。この婆さんだけは…裏の畑の野壺にハマっちまえ!」
「…ちょっとワシについて来い」錫の態度など全くお構いなしに、気障りの婆は集鬼鈴の入った箱を持って玄関から外に出ると、しっかりした足取りで歩き出した。錫もいつまでも苛ついてはいられず、狡狗を封印した玉を慌ててポケットに突っ込むと、気障りの婆の後を追いかけた。
気障りの婆は歩きながら、家の裏手にある小さな山を指さして言った。「そこの山の麓に小さな神社がある。そこまでついて来い」
「もしかして…やっぱり何か分かったんですか?…そっかぁ、今から行く神社って写真に写ってる神社なんでしょ?」気障りの婆はそれには答えず、黙々と山へと向かって歩き続けた。
長い石段を一気に上がると気障りの婆が呟いた。「ちょうどいい…誰もおらん…」
「お婆さん…この神社の境内、写真と違うみたいね?」
「誰が同じだと言った?ワシはそんなこと一言も言うとらん」
──「くたばれオバァ!」
「ここに連れて来たのはコイツがあるからじゃ!」
「はぁ~?…コレ!?──コレがあるからって?」
「つべこべ言わずにお前は早う鈴を鳴らしてみんか」
「で、でも…邪悪な霊が群がってくるんじゃないの?」
「お前なら大丈夫じゃ。内面に秘められた霊力は相当なものじゃからのぉ。低級な霊はお前を恐がって近寄りもせんわい」
「ほ、ほんとう?」錫は尻込みしている。
「あぁ~もうええからさっさと鳴らさんかぁ!」気障りの婆に急かされて、錫は半ばやけくそに左手で集鬼鈴を持った。
「い、いきます…」恐々と真上に大きく振り上げると、そのまま前方に向けて鈴を振った。〝シャシャーン!〟涼しい音色が空気をころがるように響き渡った。錫はドキドキしながら辺りを窺った。だが何も起こらない。
「確かだと思ったんじゃが…。やっぱりションベンたらしでは無理か…」大きな独り言だ。
「お婆さん…思いっきり聞こえてますけど!?」
「聞こえるように言うとるんじゃ!」
──「この婆さんだけは…わさびタップリのお寿司を口に突っ込んでやる!」錫のしかめっ面を気にも止めず、気障りの婆はもう一度短歌を見直した。
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母のひと声〝いし〟は生き生き
「ふむ……そうじゃ!今度はコイツを撫でながら鈴をならしてみぃ」
「はぁ~?コレを…?まぁ、言うとおりにしますけど…」錫は言われるまま、右手でソレを撫でながら左手で鈴をならした。〝シャシャーン、シャシャーン!〟さっきと同じように暫く待ってみたが、やっぱり何も起こらない。
「やっぱりだめじゃな…。お前この写真を撮った時の記憶はあるか?」
「記憶?…断片的だけどありますよ」
「よし。ではその時のことを思い出してみぃ」
「えっ?思い出してどうするの?」
「えぇ~いもう……いちいち焦れったい奴じゃ。ええから早う思い出せ!」
「は、はい!」愛犬〝いし〟は大きな秋田犬だった。錫はいつもいしに顔を舐めまわされていたが、どこか幼い錫を守っているようにも見えた。この写真を撮った時、楽しげに戯れる錫といしに、鈴子が笑いながら何か声をかけていたような記憶がうっすらと残っていた。
──「あの頃のいしはとても大きく感じたわ…背中にも乗ったりしたっけ。おとなしいけど頼もしい子だったなぁ…」
「どうじゃ?少しは思い出したか?」
「えぇ、なんとなく…。そうそう、お母さんはいつもあの子に『いっぱい錫と遊んでやってね』って言ってました。そしたらあの子は本当に私と追いかけっこしてくれて…とっても楽しかったなぁ…」
「よし。ではその記憶を高揚させてから集鬼鈴を鳴らしてみぃ」
「はい。やってみます!」錫は脳裏に浮かんだ思い出を楽しみながら、三度左手に持った集鬼鈴を振り下ろした。前方でスナップを効かせて止めた途端、錫は手の平に強い電流のような痺れを覚えた。思わず握っていた集鬼鈴を放してしまったが、錫にはまるで手の平から集鬼鈴が弾け飛んでいくように感じた。集鬼鈴は寂しげな音を立てながら、錫の前方に虚しく転がって止まった。錫は咄嗟に気障りの婆を見た。暫く黙って錫の視線に付き合っていた気障りの婆だったが、少し口元に笑みを浮かべて言った。
「自分の左手を見てみい…」その言葉に錫は素早く左手に目を向けた。
「あっ──!」晶晶白露の時と同じだった。錫の左手にはもう一つの集鬼鈴がいつの間にかしっくりと納まっていた。
「天晴れじゃ!なんとまぁ美しい鈴が現れたもんじゃなぁ」さすがに気障りの婆も、この煌びやかな鈴に感嘆の声をあげた。
「ホントに美しい…この世の物とは思えないわ!」思わず口を吐いて出たその言葉に、錫は〝しまった〟と口を噤んだが手遅れだった。
「この世の物ではないわ…バ~カ!」気障りの婆に嫌みったらしく言われてしまった。
「ゴメンナサイね…バカなションベンたらしでぇ」開き直っている。
──「いつかくすぐりの刑にしてやるからね…婆さん…」腹を立てながらも、錫は黄金色に輝く鈴にウットリしてしまった。
「こらっ!お前がとっとと魅了されてどうする。しかもまだ音も鳴らしてとらんのに…バカが!」錫はその言葉で我に返った。
「ハッ!…危なかった。おそるべし集鬼鈴」
「…っったく戯けが…。ぐずぐずせんと早う鳴らしてみんかい」気障りの婆に急かされて集鬼鈴を振ってみたものの、ウンともスンともいわない。
「ダメじゃダメじゃ!そんなヤケのヤンパチで振り回しても…バカタレ」
「は、はい…」錫は目を閉じると、さっきと同じ要領で、楽しかった思い出を高揚させた。「お婆さん、イイ感じ!」
「よし!ではもう一度コイツを撫でながら鈴を鳴らしてみぃ」
「はい。錫ちゃん頑張ります!」。「うるさい、黙ってやれ!」
「…ぶぅーだ!」錫は右手でソレを撫でながら、左手で集鬼鈴を振り下ろすと、スナップを効かせながら止めた。
〝シャウィ──ン…シャウィ──ン…ウィ─ン…〟集鬼鈴の音色は、境内全域に生気を与えるかの如く鮮やかに響き渡った。二人は暫く視点をどこに定めるでもなく、その美しい音色に心を奪われていた。やがて音が静まると、錫は我に返ったように大きな目をくりくりさせて子供のようにはしゃいだ。
「鳴った鳴ったぁ~!」ピョンピョン飛び跳ねて喜んでいる錫をよそに、なぜか気障りの婆は険しい顔だった。
「なんという音色じゃ!脳天に突き刺さるような甲高い金属音で始まったかと思うと、穏やかで清らかな心地良い音に変化し、やがて身体全体を包み込むような優しい余韻に眠りを誘われたわい…。集鬼鈴となぁ…その名の如く鬼でも魅了され引き寄せられる摩訶不思議な呪具よな」
「だけどお婆さん…、ビックリするようなことが起きませんよ…?」
その理由は気障りの婆にも分からない。と──その時、錫が撫でていたソレが微妙にダブったような気がした。「あらっ!?私乱視かな…?」
「ふっふっふっ!的中かの…!?」
「えっ?ナニ…ナニこれ?」錫は指の先で目を軽く擦ってからもう一度ソレを見てみた。やはり微妙にダブって見える。
「現れるぞ…」気障りの婆はポツリと呟いた。
Ⅲ
香神虎は天啓を得たことでゴミソの修行に終止符を打った。躊躇うことなくあっさりと山を下りた虎は、しばらくの間あちこち放浪を続けていた。そうして、やっと腰を落ち着かせたのが、今現在錫たち家族が住んでいる中尾市の自宅付近だった。あばら家だったが、そこに虎は聖霊師として看板を掲げた。この時すでに四十歳を過ぎていた虎は、あることに殊の外執着していた。
あること──────それは結婚だった。
山を下りるまでの虎はひたすら修行の日々で、結婚などという文字には全く無縁だった。それがいきなりそのことを意識するようになったのは、天啓を得てすぐのことだ。もちろんこの心境の変化は、本人以外誰も知る由もないことだった。
虎は人の気持ちを傷つけることを嫌う優しい性格だった。しかし、信念を曲げることを嫌う芯の通った一面も持ち合わせていて、それがゆえに高宮ハルとも深い仲にはならなかったのだろう。虎にとって、ハルと恋に落ちてしまうことは修行の妨げであり、修行を妨げるものに走ることは、虎が承服できるものではなかった。もっとも、ハルも虎に決して恋心を見せなかったことで、虎は脈はないと思い込んでいた。そのことがハルへの恋のストッパーになっていたのも否めない事実だった。
そんな虎がハルになんの躊躇いもなく山を下りたのは、いかなる気持ちの変化だったのだろうか?天啓を得たことで虎自身の生きる目的が明確化されたとしても、人情に篤い男が、そんなにあっさりハルへの恋心を断ち切れるものだろうか?神の啓示とはそれほどまでに人の心に影響を及ぼすものなのだろうか?何が虎をそうさせたのかは、正に〝神のみぞ知る〟といったところだ。
聖霊師となった虎の評判はたちまち広まった。日に数人は新しい依頼人が彼の元に訪れるようになっていた。しかし、そのほとんどは〝いつも誰かに見られている〟〝不眠症に悩まされるのは祟りではないか?〟〝耳鳴りと共に誰かが耳元で話しかけてくる〟そうした幻覚や幻聴の類だった。ぶちまけて言えば、いちいち付き合っていられない連中が後を絶たないということだ。またそうした連中に限って「憑物とは違う」と説明しても、しつこく食い下がってくる。虎が一人で切り盛りするには到底無理があった。そうした中、大忙しの虎を手伝っていたのは、茜ミツという若い女性だった。ミツは虎が聖霊師の看板を掲げてから三日目に訪れた最初の依頼人でもあった。
初めてあった時、虎はとりわけこのミツに興味を示した。比較的強い霊力を持ち合わせていたからだ。
「香神先生、私に何が取り憑いているかは分かっています。でもそれを取り祓うだけの霊力が私にはありません。お礼をするお金もありません。ですが将来必ずお支払いします。先生の霊力が本物なら、先に除霊でも聖霊でもしてもらえないでしょうか?」虎の予感は的中だった。茜ミツは自分に何が憑いているのか分かっていてここに来ていたのだ。それに歯に衣着せぬ物の言い方も虎には好感が持てた。
「私は銭金で聖霊をするつもりはない。自分に与えられた力で困っている人を助けたいだけだ」虎はそう言ってさっさと聖霊の準備に取りかかった。
ミツに取り憑いていた憑物は、江戸末期に同じ男に騙されて首を吊って死んだ姉妹の霊だった。ミツが、とある温泉地に行った時、この姉妹の霊と目が合ってからずっと憑き纏われていた。何度もこの姉妹の霊に、自分から離れてくれと頼んでも言うことを聞いてもらえず、〝私たち姉妹を助けてくれ〟の一点張りだった。虎のもとを訪れた時のミツは、明らかにこの姉妹の霊に精気を吸い取られていた。
虎が執り行った聖霊の儀式はそれほど大げさなものではなかった。桐の箱から鈴を出して一振りすると、ミツに取り憑いていた姉妹の霊はおとなしくミツの体から抜け出てきた。と同時に苦しかったミツの胸がスゥーと楽になっていった。その後、虎は姉妹の霊に自分が味方だと話しかけ、恨んでいる男への憎悪の念から解放させるべく懇々と説き伏せると、姉妹の霊は虎の説得に抗うことなく素直に従い、やがて本来の心を取り戻したのだ。最後に虎は、いつの間にか奇術のごとく出現させた小さなガラス状の玉に姉妹の霊を封印すると、天に向かってその玉を軽く放り投げた。玉は真っ白な光を纏い、この日を心待ちにしていたかのように昇天していった。ミツは虎の見事な聖霊の儀式に驚愕し、何度も礼を言ってその場を後にした。
ところが、虎の聖霊に心を突き動かされたミツは、次の日から虎のもとを訪れるようになった。最初は食べ物を差入れしたり、お茶を入れて帰る程度だったが、そのうち掃除をしたり洗濯物を持って帰ったりと、虎の生活面を一手に引き受けてせっせと通いつめた。そしていつしかミツは、虎を訪ねてくる依頼人の受付までするようになっていたのだ。
依頼人の大半は憑物とは無縁の精神を患った者たちだ。窓口になっているミツがまずその依頼人に憑物が憑いているかどうかを的確に判断し、もしも憑物が見えなければ、聖霊の必要がないことを依頼人に説明してお帰りいただく。ときに〝お前みたいな小娘に何が見えるんだ〟と絡んでくる依頼人は虎に対処してもらった。
当初ミツが依頼人に〝あなたのは憑物ではないので病院に行ってみては?〟と正直にアドバイスをすると〝精神病扱いするな。私は狂ってなんかいない〟と激怒された。ミツは親切のつもりだったが、依頼人は怒りを顕わにするだけだった。虎は「誰でも幻覚や幻聴が起こると何かのせいにしたがるものだ。憑物ならば自分に非はないが、『病院に行け』と言われたら自分がおかしいことにされているのと同じだ。あんたの親切心は、相手にとっては『おかしいのはお前の頭のほうだ』と聞こえてしまうのだ」と教えられた。
それからのミツは憑物に取り憑かれていない依頼人に対して、刺激しないように説得することを心がけた。最も効果があったのは、まず相手を安心させる説き伏せ方だった。「あなたは幸運でした。どうやらあなたのは憑物ではないようです。あんなモノに憑かれたら、一生呪われ続けたり、下手をすれば命を奪われることだってあるのです。あなたはストレスで精神のコントロールができなくなっているのでしょう。でも精神的なものなら憑物のように恐くはありません。病院に行けば良い処方をしてくれます。今の世知辛い世の中では、気持ちをいつも平常心に保つのは難しいものです。あなたが悪いわけではありませんから安心して病院で診てもらってください」こんな調子で捲し立てながらやんわりと説得すると、相手はまるでミツの暗示にかかったように安心して矛先を病院に向けてくれた。
それから数ヶ月後、ミツはただの窓口ではなく、憑物を見てくれる霊能力者と噂されるようになっていた。さすがに聖霊こそできなかったが、霊の心を感じることや会話をすることもできた。もはや虎にとっても頼もしい助手となっていた。
虎とミツは年の差が親子ほど離れていたせいか、ミツは虎を父親のように慕い、どんなことでも包み隠さず話ができた。虎は虎でそんなミツを娘のように可愛がっていた。それに加えてしっかり者で屈託のないミツの性格も虎は気に入っていたのだった。
ミツが虎の手伝いをするようになって一年が過ぎた頃──ミツは懐妊した。相手は────────虎だった。親子のように接していた二人に間違いなど起こるとは思えなかったのだが──これだから男と女は全く持って分からない。かくして虎が山を下りてからいきなり沸き上がった結婚願望は、こんな形で成就したのだった。
ミツの懐妊を知った時の虎の喜びようは凄まじいものだった。懐妊を知らされた次の日から「まだお腹の赤ちゃんは動かないか?」などと無茶なことを口にしたり、「男でも女でも名前はもう決めてある」と嬉しそうに何度もその名前を半紙に書いては一人で満足気に頷いていた。
ところがそれから間もなくしてのことだ。あれほどミツの懐妊を喜んでいた虎が、一変して何もお腹の子供のことを口にしなくなった。ミツが何かあったのかと尋ねても、「何もない」と答えるだけだし、「やっぱり違う名前にしよう…」と無気力にミツに伝えるのだった。虎の態度に不安を覚えたミツは〝お腹の子供がほしくないのか?〟と尋ねた。さすがに虎は、その言葉に血の気が引いた。
「すまない…決してそうではないんだ。お腹の子供は神様から賜った大切な命だ。安心して産んでほしい」その答えにミツは〝ホッ〟とした。虎に何があったのかは分からなかったが、ミツはそこまで追求しなかった。虎が嘘をついてごまかすような人ではないことを知っていたからだ。お腹の子を大切に思い、産んでほしいと言ってくれただけでミツには充分な答えだった。
やがてミツは女の子を出産した。鈴をころがしたような産声に、産婆さんから〝こんな綺麗な声で泣く子は初めてだ〟と褒め言葉をもらった。それが命名の理由かどうか定かでないが、虎はわが子に〈鈴子〉と名付けた。
虎は生まれて間のない鈴子に、「お前は違うんだな?」とか「早く大人になって子供を産んでくれ」などと、奇妙なことを語りかけることが多くあったが、ミツはそんなことは気にせず、優しい虎の父親ぶりを素直に喜んでいた。
ミツの懐妊中の話に戻るが、虎はこれから生まれてくるわが子のため、そして聖霊師としての自覚を持つために、それまでの〈聖霊師 香神虎〉から〈聖霊師 天登虎ノ門〉と名を改めた。この改名を境に、虎の名はこの世界では名の知れた存在になっていった。虎の聖霊の仕方は、憑物と話をして邪心を取り除き、強い霊力をもってガラス状の玉に封印して、天へと帰すのがほとんどだった。また愛用の短刀に普段から自分の霊気を少しずつ溜めておいて、必要に応じて聖霊に使ったりもしていた。この聖霊スタイルで、天登虎ノ門の名は不動のものとなったのである。
Ⅳ
「えっ!ナニ…ナニが現れるの?」錫は自分の心臓がバクバクと音を立てているのが聞こえてきそうだった。「お婆さん…ねぇお婆さんってば…この狛犬おかしいよ…」
「どうやら間違っていなかったようじゃの…」錫が撫でていた石像の狛犬は間違いなくダブり始めていた。「これは面白いのぉ…」間もなくダブって浮き出た狛犬はモゾモゾと動き出し、無機質な石に躍動的な筋肉が付き、フサフサとした毛が体全体を覆うと、幽体離脱するかように完全に抜け出してしまった。
「なに~!?なによぉ~コレ…。飛び出しちゃった…」狛犬は錫の正面でちょこんとお座りすると、錫を意味ありげにジッと見つめた。
「お前のじいさんが詠んだ歌の意味はこれじゃろう。境内地の愛犬〝いし〟とは石の狛犬のことを指し、お前の母の名は鈴子…そのひと声…つまり鈴の音じゃ!孫のお前がその鈴を鳴らすことで、石の狛犬が生き生きと蘇るということじゃ」
「お婆さんやるじゃない。今までのことは全部水に流してあげちゃうわ!」
「はっ?ワシが今までお前に何をしたんじゃ?」
「テヘッ!」錫はペロッと舌を出してごまかした。「それにしても本物の狛犬が現れるなんて…本当にビックリよ」
「ビックリさせてすまんです…ご主人様」
「そうよ…ホントにもう…………………ってコレしゃべってるしっ!」錫は腰が抜けてその場にへたり込んでしまった。
「お久しぶりですご主人様。〝いし〟は寂しゅうございました…くう~…」
「お久しぶりって言われても……私あんたのこと知らないよ」
「それは仕方ないです。ご主人様は生まれる前のことはご存じないのですけん…くすん」
「これはオモシロいことになりそうだ。何か尋ねてみい…お前の秘密が分かるかもしれんぞ」気障りの婆は興味深そうに錫を煽った。
「ねぇ、あんた狛犬よね?」。「へ、へぃ…」
「な~んちゅう陳腐な質問じゃ。もっとマシな質問ができんのか!?」
「だってぇ…」錫は唇を尖らせて気障りの婆を見た。「じゃ、違う質問を…。あんたなんで狛犬の石像から飛び出てたの?」
「ご主人様が鈴を鳴らしたからですけん」。「あぁ、そうか…」先が続かない。
「ほんにお前はバカじゃのぉ…もうええわ!ワシに代われ」イライラした気障りの婆が錫を肘で押し退けた。錫はお多福のように膨れたが、気障りの婆はお構いなしに狛犬に質問した。
「お前は〝いし〟というのじゃな?お前今こいつをご主人様と呼んでいたが、昔からこいつに仕えておったのか?」
「はい、わたくしは〝いし〟。ご主人様には、もう何百年も可愛がってもらってますけん」
「何百年って!?」錫は目をくりっとさせて驚いたが、気障りの婆は然も有りなんといった表情だ。
「向こうの世界では何をしておるんじゃ?」
「今はかつがつながらご主人様の留守を預かっておりますけん…はい。わたくしはご主人様の下僕なのです。もっともご主人様はそんなわたくしを、まるで家族のように大切にしてくださいましたが…」
「下僕とな?いったいどんなことをして仕えておったんじゃ?」
「わたくしはご主人様の足代わりになることが最高の喜びでして、ご主人様が天甦霊主様からご命を受けましたら、すぐさまわたくしを呼んでくださり、背中に乗って走り回ります。ご主人様と一緒に縦横無尽に駈け回る爽快感は堪らんのですけん…はい」
「…ふぅ~ん。ねぇ、そもそも狛犬って架空の動物じゃないの?」
「勘違いされやすいのですが、実は人間が想像でわたくし達を作り出したわけではありません。ご主人様や御老女様のように高い霊力をお持ちの方が、人間の世界でわたくし達を使っていたのです。それを木彫りや石彫りで形にする者が現れ、いつしか神社などを守護し邪気を払う架空の動物として残っていったのです」
「そっか!…集鬼鈴や晶晶白露と同じね」
「でもそのような架空の生き物は他にもおりますけん」
「ひぇ~!他にもいるの?」
「…ご主人様が生まれる前のことを覚えておられないだけですけん…」いしはうつむきかげんに呟いた。
「普通は誰だってそうでしょう!?」
「はい…分かってはいるのですが…あの錫雅尊様なだけにいしは悲しいのです…」
「ふ~む…生まれて来る前のお前は、よほど尊い霊神だったようじゃのぉ…今と違って…」一言多い。錫は〝ムカッ〟としたが、それは顔には出さなかった。
「そういえば向こうの世界に行った時、私は自分が生まれて来る前の姿を見たわ。挿絵に出てくる牛若丸みたいに凛々しい青年だったっけ…」
「そうですとも!錫雅様は正義感に満ち溢れ、何人も見下すことのないお優しい方です。たとえご主人様がこのいしのことをお忘れでも、これからはまたご主人様のお側に居りますけん」
「ふ~ん…側にね…ってなんでよ!?」余計なお荷物が増えそうで錫は戸惑った。
「ふぉふぉふぉ…これはホントに面白くなってきたのぉ」
「もうお婆さんてば…笑いごとじゃないわよ」錫の苛立ちをよそに、いしは〝くんくん〟と匂いを嗅ぎながら錫に近寄り、自分の首筋を錫の体に擦りつけてじゃれついた。いしはライオンみたいに大きな図体だったが、錫はなぜか恐いとは感じなかった。
「ご主人さまぁ~…」険しい顔をした石彫りの狛犬とは違い、いしの表情は柔らかだった。錫は妙に懐かしさを覚えて、いしの頭を撫でてやった。
「…そうよ、そうだわ!秋田犬のあの子に〝いし〟と名付けたのはおじいちゃん…そしてこの狛犬の名前も〝いし〟…これは偶然じゃないわ!おじいちゃんはこの狛犬の〝いし〟の名前を取ってあの子に付けたのよ」錫は目を輝かせていしに尋ねた。「ねぇ、あんた私のおじいちゃん知ってる?」あまりに唐突な質問にいしは困惑した。「香神虎よ、香神虎!おじいちゃんはあんたと顔見知りのはずなの…」
「わたくしは、こっちの世界のことは何も知らんのです」。
「ダメかぁ…。おじいちゃんの謎が解けると思ったんだけどなぁ…」
「お力になれずすみません…。そのかわりご主人様が天甦霊主様からどんなご命令を受けていたのかをお話ししましょう」いしは物語でも聞かせるように静かに語りだした。
「天甦霊主様は、人智・人力を超えているお方です。いわゆる神様と呼んだほうが一般的ですかね…?その天甦霊主様からご主人様にご命が下されます──『錫雅尊よ西に向かえ』とか『東に向かえ』とか…そういった具合に」
「なるほど。その世界を一目に見そなわす天甦霊主が司令塔なのじゃな」
「へぇ、おっしゃるとおりでして。するとご主人様はすぐわたくしに『いし出陣だ!』とひと声。時に遠く離れておりましても、集鬼鈴のその音色に導かれ矢の如く駈けつけます。その時は…胸が高鳴るのでございます…。それは…」いしはそこで言葉に詰まった。主人との想い出に浸っているのだろうと錫は感じたが、その主人が自分だと思うと妙な気分だった。
「それは…」いしが続きを話し始めた。「…ご主人様がこのいしを必要としてくださっていると思える瞬間だからです。ご主人様を乗せて一緒に駆け回れると思っただけで嬉しゅうて堪らんのですけん」
「主人が大好きだったのね…?」
「そりゃもう…返しきれないほどご恩のあるお方ですけん」
「ふむ…。ところでお前は下僕とはいうものの、相当の霊力があるのぅ?」
「えっ?そうなの!?」錫は大きな目をさらに大きく開けて、まじまじといしを見た。いしは久しぶりに主人に見つめられてはにかんだ。
「狛犬は神社・寺院を護る魔除けの作り物じゃと思っておったが、こうしてみると大したものじゃ。さっきの説明のとおり、こっちの世界で霊力の高い人間に使われていたのが理解できるわい。だが…それを見抜けんお前はやっぱり…」
「はいはい、ションベン臭い女でしょ…分かってますよ」錫は気障りの婆が言いかけた言葉を取り上げて投げやりに答えた。
「おい狛犬…今は必要なとき以外その強い霊気は消しておけ。お前さんの霊気を嗅ぎつけて邪悪なモノが近寄ってくれば、逆に主人を危険な目に晒すことになるでな。それでは本末転倒じゃろ?」かなり厳しい口調での助言だった。
「肝に銘じておきますけん」いしはすぐに自分の霊気を極限に抑え込むと、そのでっかい図体までも小さくして錫の肩に乗っかった。
「わぁ~…かぁわいぃ~!…ぬいぐるみみたい」いしは主人に可愛いと言われ、前足で何度も顔をすりすりと拭って照れ隠しした。
「さてと…ぼちぼち引き上げるとするかい。お前の友達もそろそろ目を覚ます頃じゃろうしのぉ」気障りの婆は丸めていた背中をさも怠そうにトントンと叩くと、しゃんと背筋を伸ばして歩き出した。錫もそれに続いたが、はたと足を止めた。
「お婆さん…これどうしよう?」そう言って取り出したのは、狡狗を閉じ込めているあのガラス状の玉だった。
「はぁ…?まだ持っとるんか…そんなモノを」気障りの婆は呆れ顔で錫を睨んだ。
「そっ、それは〝邪身玉〟ではありませんか!?」そう言うと、いしは錫の肩からピョンと飛び降りて、わくわくしながら錫を見つめた。
「邪身玉?いし…あんたこれ知ってるの?」
「はいご主人様!後生ですけんその玉をいしにくださいませ」いしは錫の回りをピョンピョン飛び跳ねながらおねだりした。
「そんなに頼まなくてもあげるわよ…こっちだって助かるわ」錫がいしの目の前に玉を差し出すと、いしは待ってましたとばかりその玉を口に銜え、舌を器用に使って口の中でコロコロと転がしたり、それに飽きると今度は前足で転がしてじゃれついた。一頻り遊んで堪能すると足先で玉を押さえて、ようやく邪身玉のことを話し始めた。
「この玉は〝邪身封じの宝玉〟と申しまして、霊力でのみ出現させることのできる霊玉です。その名のとおり邪な霊を封じ込め、天へ帰して浄化させたり、あるいは彷徨続けている霊を閉じ込めて、在るべき場所に戻してやったりする玉なのです」
「だから晶晶白露で狡狗が玉になったのか…恐るべし晶晶白露」
「時折玉を転がして遊んでいる狛犬や、口に玉を銜えている狛犬の石像を見かけるが、ひょっとして、あれは邪身玉を表しておるのか?」
「そのとおりですけん。この邪身玉は見た目は脆いガラス玉のようですが、実態はありませんから物理的な力では壊れません…」
「そうよね…本当のガラス玉ならあんたの犬歯で簡単に割れちゃうわよね」
「はい、実はこの邪身玉は、わたくし達狛犬の霊力を養う魅力ある玉なのです。この玉から微量ですが封印されているモノの霊気が放出されているのがわかりますか?」
「あぁ。ワシには分かるわい」気障りの婆は即答した。
「わ、私だって、それくらいなら分かるわ」錫も負けじと答えた。
「わたくし達はその霊気を取り込んで自分のものにします。平たく言えばエサですけん。しかも猫じゃらしよろしく楽しゅうて仕方なくなるんです」
「本当に楽しそうね。手鞠かお手玉みたい…」
「そのとおりですよご主人様。お手玉のことを〝おじゃみ〟とも言いますでしょう?あれは邪身玉の頭を取って付けられたんですけん」
「ほほう、おじゃみの由来が邪身玉だったとは…。で…その邪身玉はどうするのだ?」
「天に帰します。ご主人様が邪身玉を天に向けて投げれば勝手に昇っていきますけん」
「わ、私が…!?ホントにそんなことできるの?」半信半疑でいしから邪身玉を受け取った錫は、左手で邪身玉を真上に放り上げた。すると邪身玉は打ち上げ花火のように、しゅるしゅると白い光を放ちながら昇天していった。完全に光が見えなくなると錫が呆然として呟いた。「とんでもない力だわ…」
「すみませんご主人様…驚かせてしまいましたかね…?」
「そうじゃないの…。おじいちゃんの言ったとおり鈴を鳴らしてビックリすることが起きた…。あんたが現れたり…邪身玉が飛んで行ったり…。自分に秘められた力に今更ながら驚いた…。そして…この力をこのままにしてちゃいけない…そんな気がしたの…」錫は自分に言い聞かせるように話し始めた。「今までは秘宝を探すことだけが自分の目的だと思っていたわ…でもそれだけではいけないと思ったの…」そこまで話すと錫は静かに目を閉じて、自分の中で何かを確認して再び目を開けた。「錫という名前はおじいちゃんが名付け親なの。〝自称神様〟は〈錫雅美妙王尊〉が私の本当の名前だと教えてくれた。おそらくおじいちゃんは、その名前の頭文字を取って私に名前を付けたんだと思う。でもその名前…本当はお母さんに付けるはずだったんですって…。お母さんがお腹に宿ったとき、おじいちゃんは何度も何度も〝錫〟という字を書いてわが子が生まれて来る日を楽しみにしていたそうよ。それなのに何故お母さんに付けるはずの名前を孫の私に付けることになったのか──今となってはすっごく引っかかる。お母さんは霊力など持たない普通の人…。言葉ではうまく表現できないんだけど…おじいちゃんから意味ありげな〝錫〟という名前を付けてもらった私が、今こうして説明の付かない霊力を手にしていることと、釈然としないこれまでのおじいちゃんの行動に…私はどうしても一つの答えしか導き出せないの。もしおじいちゃんが今ここに居たら私になんて言うだろうか…?おじいちゃんは…おじいちゃんは間違いなくこう言うはずよ──『錫──お前は聖霊師になれ』ってね!」
★
「醜長様、手下どもが躍起になって探しておりますゆえ間もなく見つかるでしょう。それよりも、女の霊力を追いかけていましたら、とんでもないモノの匂いがしました」
「とんでもない匂いとはなんだ?」
「掘り出しもんですぜ……ちとお耳を…」
「ん?…ふん…ふんふん………なぬ、ほんとか?あんなに見つからなかったモノが…。ならばそいつを殺してでも奪ってこい!」
「お任せください!時間の問題です。すぐ見つかりますでしょう」