第七章──気障りの婆
気障りの婆
Ⅰ
青森県の最北端下北半島には、死者の霊を呼びおろし、死者になりかわって依頼人に語りかけることを生業とする盲目の巫女たちがいる。彼女たちは、死者の霊が登る山と恐れられるも尊ばれてきた霊場〝恐山〟を拠点にして、参詣した人々の依頼に応えて死者の口寄せ(ホトケオロシ)をおこなう。この人々が俗にいう〝イタコ〟である。ちなみに現在は〝イタコは盲目〟と限定されてはいない。
その恐山のイタコに対して、津軽平野南端の岩木山には〝ゴミソ〟と呼ばれる人々が修行をかさねている。ゴミソはイタコと違って死者の霊の媒介者にはならない。
彼らのオロスものは天照大神・観音・不動などの神仏であり、それら神々の加護を受けて、祈念祈祷や病気の治療を施すことを生業としている。イタコは本来盲目に生まれたり、不慮の何かで盲目となったことで、生計のためにそれを生業とせざるを得ないところがあるが、ゴミソは自ら求めて神々と一つになる修行に取り組むのだ。ゆえにゴミソには盲目はいないし男性もいる。
しかし盲目ではないにせよ、ゴミソの個人史は過酷なものが多い。幼少から家庭環境に恵まれなかったり、虚弱体質であったり、不運な体験をしている例が多くある。病に伏す、人から距離を置かれる、自分自身を見失う、人生に行詰まる──そんな彼らに、ある日突然神や仏からお告げが下る。何かを言い当てたり予言をしたりと、今までにない自分の能力を垣間見る。何者かに導かれるように、彼らは更なる力を得ようと岩木山北麓の赤倉にある行者小屋を拠点にして、火の行、水の行、物断ちなど、神仏と自分とが一体化する力を獲得すべく過酷な修行に励むのだ。そうしているうちに、彼らの病は次第に自然治癒され、生きる目的さえもはっきりと見えてくる。
一言で言えば、霊媒能力を第一と考える〝イタコのホトケオロシ〟。神仏を体内に取り込んで一体化する〝ゴミソのカミオロシ〟と区別できようか──。
Ⅱ
錫が霊力で呼び出した晶晶白露は、狡狗を退治すると間もなく、まるで自らの使命を果たし終えて満足したかのようにどこかに消えてしまった。
錫は〝自称神様〟が見つけ出せと言っていた〝秘宝〟が晶晶白露であろうと勝手に目星をつけていた。だとすると、たとえまぐれであっても一応最初の任務は果たしたことになる。次は秘宝である晶晶白露を奪われないように守ることだが、何処に消えたか分らない晶晶白露をどうやって守るのか──これは深刻な問題だった。
「結局川手のおじさんは『龍門先生対憑物の一騎打ちを見損ねたぁ』って残念がっていたわね?」帰る道中、錫は助手席の龍門に話しかけた。
「まぁ…どっちみちあの戦いを見ていたら、驚いて気絶してただろう…」
「そうね…。だけどパパが狡狗をやっつけてくれたから私は助かったわ…」
「ん…?なんだコークって?」
「えっ?…あっ、あれよほら…こう来る敵をパパがやっつけてくれたから…」
「そうだぞ!相打ちとは言え、結局パパが憑物を退治したわけだからなぁ。んははは!」龍門は上機嫌だ。
錫は狡狗との一戦を二人にどう説明してよいのか分からなかった。龍門は自分が強敵を倒したと有頂天になっている。川手は川手で、すっかり龍門が憑物を退治したと信じ込んでいる。それならこのまま二人の考えていることが真実だと思わせておくことにしたのだった。
「あん時、錫が体当たりしてくれなかったら、パパも今頃どうなっていたことか…。今回は錫のおかげで助かった。まさに龍門危機一髪だな──アチョーッ!はっはっは」勝利に酔い痴れている龍門だった。
その龍門のことで錫は疑問が一つ増えていた。さっきチャクラを閉じる前に知ってしまった龍門の秘密だ。錫はそれをハッキリさせたくて、遠回しに龍門に尋ねた。
「ところでパパはどうして川手さんに憑物の下調べをさせたの?」
「ふむ…それは企業秘密だが特別に教えてやろう。今回のように次々と怪奇現象が現れたら間違いなく憑物の仕業だと思っていい。そして最初の家主の伊村が長年住んでいた家を売り払い、そこから怪奇現象が次々と起こったとすれば、おそらくは伊村の邪心が元凶だと推測できた。だからわざと川手に伊村のことを調べさせたんだ。案の定、伊村は奥さんに怨まれるような心…黒心を持っていた。つまり伊村の私利私欲の邪心により奥さんは自殺し、その奥さんの怨念が憑物となって今回の怪奇現象を引き起こした…ということだ。川手に伊村のことを調べさせて、パパが言ってたとおり伊村に黒心があったと裏づけできれば、川手は〝さすが龍門先生〟と称賛し、聖霊師 天登龍門の名はさらに轟くだろ!?」錫はだんだん龍門のカラクリが読めてきた。
「つまりあれ?すべては知名度を高めるためのパフォーマンス?」
「おいおい、人聞きの悪い…すべてではないぞ。たしかに祭壇などは飾りにすぎないし、大麻だってパフォーマンスにほかならない。神霊界の上層から集めた塩と称して、実は特売で買ってきた〝旨い赤穂の塩〟だったのも事実だ。それに…憑物が実際に見えているわけでもない。だが結果として役目は果たしているぞ。憑物は間違いなく聖霊されたんだからな!」龍門の説明を聞いて錫は心の中で頷いた。
──「わが意を得たりだわ!──やっぱりパパには憑物が見えていなかった…」
錫が龍門から聞き出したかったのは、まさにそのことだった。チャクラを閉じる前に錫が龍門を見て驚いたのは、龍門の額にチャクラが無かったことだったのだ。
「だがな…予想外だったのは伊村の奥さんがあんな凶暴な憑物に化けたことだ。相当たくさんの邪心や怨念を取り込んだんだろうなぁ…」
──「それは違うわパパ…。あれは伊村の奥さんの霊なんかじゃないのよ。アレは…狡狗は…伊村に恨み辛みを持っている奥さんの霊に、言わば寄生したようなものだった。人の醜い心をエサにするためにね…。パパはたしかに伊村の奥さんの霊は聖霊したけど、霊力の強い狡狗までは聖霊できなかった…。でも私が狡狗を退治しちゃった──もちろんナイショだけどね…」
Ⅲ
自宅に帰った錫はとりあえずお風呂に入りたかった。抱えている謎は山積みだ。一朝一夕に解決できるものではないことはよく分かっていた。
「あぁ~、やっぱりお風呂は最高よねぇ!」至福のひとときだ。
──「とにかくパパには驚かされたわ。川手さんには気の毒だったけど、なぜパパが川手さんに憑物を取り憑かせたのか、本当の理由がよく分かった。パパは最初の説明で、家に取り憑いた憑物が動き回らないように川手さんに媒介させると言っていた。おかしな表現だったけど、それこそいきなり〝悪霊を取り憑かせる〟なんて言い方をしたら、川手さんはもっとビビっていたに違いない…。そして、いったん人間に取り憑いた憑物はなかなか抜け出さないから、それを利用して聖霊するとちゃんと伝えていたわ。なるほどよくできた説明よね…あながち嘘ではなかったわ。けど…でも…だけど…パパがそうする本当の理由は全く違っていた。川手さんに憑物を取り憑かせた本当の理由は…」錫は湯船の中で寝そべったまま、閉じていた目を大きく開いた。「…そう、パパには憑物が見えないからよ!」今度は大きな目をくりくりさせてゆっくりと深呼吸をした。「つまりパパは理由を完全にすり替えていた…本当は家に取り憑いた憑物が、どの部屋の、どの場所に居座っているのか──憑物が見えないパパには見当もつかなかったんだ。そこで集鬼鈴を使って、いったん川手さんの体に憑物を取り込んでやれば、容易に憑物の位置を知ることができる。あとは川手さんに憑いた憑物に晶晶白露を突き立てるだけでよかったんだ。集鬼鈴と晶晶白露…この二つの力を借りれば霊力の無いパパでも聖霊ができるのよ。逆にこの方法でしかパパには聖霊ができない…そういうことだったのね。パパは完全なインチキ霊能者だ!スゴいわ…あの演技力──さっすが元カリスマ演劇部員……脱帽よ!」錫はパパ龍門をますます好きになった。
錫がお風呂から上がると、龍門は今日の自分の活躍に満足して、ビールを片手にのんびりテレビを観ていた。錫は濡れた髪の毛をバスタオルで乾かしながら龍門に尋ねた。
「ねぇパパ…素朴な質問なんだけど、集鬼鈴と晶晶白露をどうやって手に入れたの?」龍門はチラっと錫を見て口元だけ笑ってみせた。
「あれは借り物なんだ──そうだ、今度の日曜日お前が返しに行ってくれ」
「ダ、ダメよ!絶対にダメ。今度の日曜日は信枝と会うんだから。それだけはいくらパパの頼みでもぜぇ~っったいに譲れない!」
「そうかぁ…苦手なんだなぁ……あの気障りの婆さんは…」
「…………え!?パパ…今なんて言った?ねぇねぇ今なんて?」
「………?気障りの婆さんは苦手って言ったんだが…」
「きざわりのばぁ…………行くわよぉ~パパァ…絶対行くってぇ!本当はパパの頼みだから行ってあげてもいいかなぁって思ってたんだ!」錫の気の変わりように、龍門はわけが分からない様子だ。「でもパパ…そのお婆さんは青森県にいるんじゃないの?」
「そうなんだよ……って、お前どうしてそんなことを知ってるんだ?」
「あっうん……地獄耳なもんでね…てへへへ」
「おかしなヤツだな…。たしかにあの婆さんは青森にいた。でも今はこっちで暮らしているんだ。理由は謎だが、亡くなった義父さんの知り合いだったから、何か関係があるのかどうなのか…」
「えっ、おじいちゃんと!?それじゃ…」
「ア~眠い眠い…さすがに今日は疲れたな。じゃ今度の日曜日頼んだぞ。返却が遅れるとあの婆さんうるさいから…」龍門は目を擦り擦り寝室に入っていった。錫は龍門にはぐらかされた気がしたが、祖父と気障りの婆に接点があったことが分かっただけでも、大きな収穫だと満足した。
Ⅳ
日曜日の朝、錫はまるで遠足の日の朝のように、目覚まし時計が鳴る一時間も前にベッドから飛び起きた。信枝と会う約束と、気障りの婆の家を訪ねるダブルハッピーデーなのだ。朝食を終えて、部屋で待機すること二時間──ようやく玄関のチャイムが鳴った。
「オッス!ごめんね…遅くなって」待ちかねていた信枝の登場だ。
「お邪魔します。私も来ちゃった」浩子がひょっこり顔をのぞかせた。
「ちょうど家を出る前にこの子から電話がかかってきたのよ。今からスンの家に行くって話したら、一緒に来たいって」
「ごめんねスン…連絡もしないで」
「大歓迎だよ!さあ、上がった上がったぁ」
「ねえスン、この前は本当にごめんね──大事な写真立てを…。それでね…同じ物ではないんだけど、良かったらこれ…使ってもらえるかな?」浩子はきれいにラッピングされた写真立てを、そっと錫に差し出した。錫が包みを開けてみると、至ってシンプルな木枠の写真立てが二つ入っていた。
「わ~ステキ!ありがとう浩子…。ごめんね気を使わせて…」錫はすぐに二枚の写真を祖父の部屋から持ってきた。信枝はむき出しの一枚を興味深そうに見入った。
「ここに来る途中で浩子から聞いたわよ。…ふ~ん…これが神社で撮った写真ね?」三歳の錫と愛犬いしが戯れているのを、母鈴子が見守っている写真だ。信枝はそれをしっかり目に焼き付けると、こんどは裏返して短歌に目をとおした。
境内地 愛犬〝いし〟と遊ぶ孫
母のひと声〝いし〟は生き生き
「その短歌どう思う?」錫は古い写真立ての裏にある四ヶ所の留め具をづらしながら信枝に尋ねた。
「どう思うって言われてもねぇ…。写真を短歌にしただけじゃないの?」
「…信枝でもそれ以上のものは何も感じない?」信枝は錫の深意が分からず怪訝な顔をした。錫もチャクラのことをストレートには聞き出せない。どうしたものかと考えながら、写真を押さえている裏板をはずした時だ。「あっっっ!」錫の叫び声に驚いた二人は、錫の視線の先に目をやった。なんと、もう一枚の写真の裏にも短歌が書かれていた。
老いたる身 支えし足は頼りなく
孫と娘で力みなぎる
錫の祖父が右手で杖を持ち、左手は錫が手を添えている写真だ。
「これはお母さんが撮った写真よ…。おじいちゃんも私もかしこまってカメラを見てる。ねぇ、どう信枝…何か感じる…?」信枝はやはり錫の深意が分からず顔を顰めた。
「さっきから私に何か期待してる?…例えばこれが心霊写真だとか?」
「えっ?これが心霊写真に見えるの!?」過敏に反応してしまう錫だ。
「見えないわよ…例えばよ…例えば。まぁ、たしかに霊感は強いけどね」
「そ、そうなの?…初めて聞いた!」錫の口調は妙に力がこもっていて不自然だ。
「わざわざ言うことでもないでしょ!?」信枝はさらりと返した。
「霊感が強いって、どんなふうに?」錫が聞く前に浩子がこわごわと尋ねた。
「そうねぇ、よく霊を見るかな…。特に体調の悪い時なんか…」
──「やっぱりね。体調不良の時はチャクラのコントロールがしにくいんだ…」
「他には?おでこに何かあるとか…手から何か出てくるとか…?」
「はぁ?…おでこが何?…手から何か出てくるって…スパイダーマンのアレ?」信枝は手のひらを上に向けて中指を手前に折り曲げると、スパイダーマンがクモの糸を出すマネをしてみせた。
「ち、違うわよ!手の先からオーラが出て病気を治したりできるのかなぁ…なんて思って…ヒャヒャヒャ…」
「はぁ…!?またスンが意味不明なことを…。そんな奇妙なことできないわよ」
──「信枝のチャクラはパッチリ開いていた…。なのに霊力は強くない…?もしかして何か隠してる?…もう…解決どころか疑問が増えちゃった。かくなる上は〝気障りのお婆さん〟が頼みの綱だわ」
Ⅴ
天登龍門こと香神一から預かった二つの〈神霊界賜尊具〉を車のトランクに乗せ、錫は栗原信枝、幅下浩子と共に気障りの婆の元へと向かっていた。
「どうして二人とも後部座席なの?どっちが助手席に座ってよ──卒検一発合格の錫ちゃんの運転なのに」
「卒検が一発合格だからって安心できないわよ」信枝が言った。
「それにまだ無事故無違反だよ」
「はぁ…?だってあんたまだ一、二回しか運転してないんでしょ?浩子もなんか言ってやりなよ」
「私はなにも…。保険に入ってくれていればそれで…うふっ!」
「あぁ、キツ~い!…今の浩子の一言、私よりキツいわよね?」
「はいはい、キツいキツい。普段からきゃんきゃん吠えてる犬より、黙っていきなり噛みつく犬の方がキツく感じるのよ」
「ちょっと…それどういう意味!?」ムッとして信枝が突っ込んだ。
「悔しかったら隣りに乗ってごらん」おチャラケながら錫が返した。
「それだけはご免被るわ…」信枝は断固助手席には座らないようだ。
「むふふふっ!」浩子は二人のやり取りを楽しんでいた。
三人を乗せた車が快適な国道を外れ田舎道へと入ると、辺りは田んぼだらけの閑な景色へと姿を変えた。
「あっ、ねぇ牛よ牛…にしてもクッサいねぇ」鼻を抓みながら信枝が言った。
「私、こういう昔話に出てくるような景色…とっても好きよ」浩子はニコニコしながら窓の外を見た。
「私も嫌いじゃないけど…この田舎の香水だけは勘弁してほしいわ…」錫も鼻を抓んでそう言った。
田舎の雰囲気を満喫しながら、さらに車を走らせると、トタン屋根の古いあばら家が見えてきた。田んぼに囲まれたその家は、塀もなく、みすぼらしさが丸見えだった。
錫の胸は躍っていた。暗中模索の状態も気障りの婆に会うことで視界が一気に開かれるかもしれない。なんといっても〝自称神様〟が『会いなさい』と言った人物なのだ。
家の近くまで来ると、それがまだ道なのか、もう屋敷なのかよく分からない場所に車を止めた。そこから玄関まで歩いていると、いきなり女のしわがれ声に呼び止められた。
「ブーブーブーブーでぇっっかい車の音させてぇ…。排気ガスのクッサい臭いまき散らして…。どこの礼儀知らずが来やがったんじゃ?あっ?」家の裏手から、小汚い老婆が頭ごなしに小言をいいながら現れた。三人はポカンと口を開けたまま返答もできなかった。「けっ、挨拶もろくろくせんと…最近の若いもんはなっとらんな」その老婆の顔面左半分には、額から頬にかけて醜いケロイドがあった。彼女はそれを隠そうともせず三人を睨みつけた。
「あのぉ…気障りのお婆さんにお会いしたくて…」錫が恐る恐る尋ねてみた。
「ん?気障りの……あーあー〝ゴミソの姫様〟のことか」
「えっ?気障りのお婆さんって、ゴミソの姫様っていうのですか?」
「そうじゃ!ゴミソとは同じ青森県でもイタコとは系統の違う民間巫者のことじゃ。過酷な修行により神と一体化して天啓を得たりする。ゴミソの姫様は、そうした過酷な修行をなされたそれはそれはお美し~いお方じゃ!」
「その美しいゴミソの姫様にお会いしたいのですが…」
「ワシを介さねば姫様は誰とも会わん」
「だったらおばあさんからお願いして!」錫が大きな目で訴えた。
「うむ…。ところで金は用意しておるんじゃろうなぁ?」
「お金がいるの?」驚いた錫は大きな目が更に大きくなった。
「当然じぁ。尊いお方に会うのにお金は必要じゃ」
「でも私、借りた物を返しに来ただけなんですよ?」
「あん?ならワシがそれを返しておいてやろう…ほら渡しな」
「あっ…で、でも本当は少し気障りのお婆さんと話もしないといけないので…」
「ほぉ~れ見てみぃ…ボロを出しよったな。なぁ~にが〝借りた物を返しに来ただけぇ〟じゃ…。ただで姫様と話をしようとしてからに…。油断ならんヤツじゃ」ムカムカしていた信枝がとうとう口を挟んだ。
「ちょっと婆さん!言い過ぎじゃないの?」信枝は半分けんか腰だ。
「ま~た血の気の多そうなのが出てきたのぉ?でもこういうキャンキャンとよく吠えるヤツほど大したことないんじゃ…これが」
「な…なんでこんな婆さんにまで同じこと言われなきゃいけないのよ」信枝がカッカして二人の方を向くと、錫と浩子は下を向いて笑うのを堪えていた。「何がおかしいのよ!」信枝は目を三角にして怒った。
「ごめんごめん!あんまりタイムリーだったんで…つい…」錫は笑いたいのを我慢して、老婆の方へ向きをかえた。「お金は払います。いくらですか?」払うと聞くと老婆はホクホク顔になった。
「そうかそうかぁ、まいど~!一人三千円…三人じゃから九千円じゃ」
「高~い!気障りのお婆さんには私だけ会うから三千円でいいでしょ?」
「そうはいかんのじゃなぁ…これが。ここでは全員に拝謁料金を払ってもらうシステムになっておるのじゃ」
「え~そんなぁ…」
「な~にが〝え~そんなぁ〟じゃ…カワイコちゃんぶりよって。考えてみぃ…お前がゴミソの姫様に会って話した内容を、後でこの二人にも聞かすじゃろう?」
「そりゃ…少しくらいは…」
「それみろ!一人だけが話を聞いて、後で仲間に聞かせる…典型的な犯罪行為じゃ」
「なんで犯罪なのよ~!?」
「そりゃそうじゃろう。映画館でも勝手に録画したら犯罪じゃ!」
「それは盗み撮りの場合でしょ?映画の内容を話すくらいは犯罪なんかじゃないわよ。…じゃあ、分かりました。一切口外しません…黙ってます」
「そんなやつほど怪しい。飲み放題でもそうじゃ…料金を払ってないヤツが必ず〝ひとくち…ひとくち…〟とか言いだすんじゃ。お前たちもどうせ我慢できずに『チョッとだけ聞かせて』とか言い出すんじゃろ?」舌先三寸──この婆さんに三人はたじたじだ。
「ムカつくけど言いくるめられちゃうわ…。分りました…三人分払います」錫は諦めて、しぶしぶ自分の財布から九千円支払った。「信枝も浩子も気にしなくていいからね。このお金は経費としてパパに請求してやるんだから…」老婆は悪びれたようすも見せず、お札を数えて嬉しそうにもんぺのポケットに仕舞い込んだ。
「確かに確かに…。ではこの玄関から入って暫く待っとれ」
建付けの悪い玄関の引き戸を〝ガタビシャ〟と開けると、十二畳敷きの部屋がいきなり現れた。
「ねぇ、この部屋…スンの家の大きな部屋に似てない?」浩子がキョロキョロしながら錫に言った。信枝も黙って相槌を打ったが、一番それを感じていたのは錫自身だった。
錫の家も、玄関を開けたらすぐ聖霊の儀式ができる畳の間になっている。玄関の正面には神前が設えてあるが、なんの神さまが祀ってあるのかは知らない。全体的に部屋は薄暗く、霊が近寄って来そうな雰囲気だ。この部屋はそういうところまでよく似ていた。あえて違うところを指摘するなら、錫の家の玄関の入り口には看板が掛かっていることだ。
奇怪な現象すべてお任せ
どんな憑物も聖霊します
電話 010-509-7171
龍門が手書きした汚い看板だが、この汚なさが、かえって奇々怪々な雰囲気を醸し出していた。
三人が無言のまま畳に座って待っていると、神前に向かって右手にある襖が静かに開いて人が入ってきた。ずきんの付いたねずみ色のボロボロのマントを纏っている。そのずきんを頭からすっぽりと被っているので性別さえ分らないが、小柄な体型からすると女性のような気がした。神前の右手側に敷いてあるせんべいのような座布団まで小股で歩いてくると、神前側に向いて正座し、即座に口を開いた。
「お前たちか?ワシに会いたいのは…」しわがれ声だがやはり女性のようだ。
「あなたが気障りのお婆さんですか?」念願の人物に会えて錫は目を輝かせた。
「初対面でいきなり気障りの婆さんとは無礼な女じゃ…お前みたいにションベン臭い女に言われとうないわ」酷い言われようだ。
「あっ、ご、ごめんなさい。ゴミソのお姫様でしたね?」さすがに内心ムッとした錫だったが、ここは堪えて対応した。
「まあ、ええわ…ヒッヒッヒ。ところでお前はなんという名じゃ?」気障りの婆は下を向いたままくるりと向きを変え、錫を指さして尋ねた。
「香神錫といいます」
「お前が錫かぁ…。もう少し賢い面をしているのかと思っておったが、案外つまらん顔をしておるのぉ?」〝ブチッ〟っと錫の頭の血管が音を立てた。
「ちょっとお婆さん、人がおとなしくしてたら何よ…さっきから乙女の心を傷つけるようなことばっかり言って」錫は溜まらず言い返した。
「あー?最近の若いもんはそんなことくらいで怒るんか?辛抱が足らんのぉ…」気障りの婆は、わざとらしく首を左右に振った。その時だ──信枝が突然大声で叫んだ。
「あ~~っ、この婆さん、さっきの意地悪婆さんよ!」驚いた錫と浩子も少し角度を変えてずきんの隙間から顔を覗くと、たしかに左半分にケロイドがあった。
「ほんとだ…」錫が細目でシラっと呟く。浩子も呆れている。
「なぁ~にが〝ゴミソの姫様〟よぉ。すっかり騙されたわ。なんとか言いなさいよ!」錫はお金が絡んでるだけに余計腹立たしい。
気障りの婆は黙って座布団から立ち上がると、さっき入ってきた襖から出て行ったが、暫くするとお盆に杯を三つのせて戻ってきた。
「まぁ…これを飲め。実はのぉ…さっきの老婆はワシの双子の妹じゃ」
「ふ、双子?口数の減らない婆さんね」信枝が呆れながら言った。
「とにかくありがたい神酒じゃ。特別に飲ましてやるから飲め、ほれ飲め!」気障りの婆は一人一人に杯を手渡した。
「私たちを騙した償いのつもり?」
「誰も騙しとらんわ…ほれ飲め」あまりの強引さに三人は仕方なく神酒を飲み干した。気障りの婆はほくそ笑んでいたが、それには三人とも気づかなかった。
「で?ワシに何の用じゃ?」
「あっ、これです。父から返すように言われて…」錫は二つの桐の箱を渡した。
「集鬼鈴に晶晶白露か…。龍門も大したことないのぉ…。こんな玩具に頼らねば聖霊ができんとは。その龍門の娘もションベン臭い頼りなさそうな奴じゃし…」かなり嫌みったらしい口調だ。
「もう~、またションベン臭いって言ったわね。乙女に対して失礼もいいとこよ」
「まだまだお子ちゃまじゃからションベン臭いと言ったんじゃ!」
「もう十八歳ですぅ~。だよねぇ、信枝に浩子…って寝てる!?…二人に何かしたの?」
「ぐほほほほ。よく寝むっとるのぉ。お前と話をするのに、この二人は邪魔だったんでのぉ。お前さん、いろいろと知りたいことがあるんじゃろうが?」
「えっ?お婆さん私がここに来た理由を知ってるの?」
「そのくらい分かるわい。それにワシはお前をわざと怒らせて平常心をなくさせていたんじゃ。目を開かせるためになぁ」
「えっ!?目って…チャ、チャクラのこと?」
「そうじゃ。じゃがお前はまだ少ししか目が開かんのぉ…。だから言ったんじゃ…ションベン臭いとなぁ」錫は何も反論できなかった。「まぁ、こっちへ来い」気障りの婆はゆっくり立ち上がると出入りしていた襖を開けて、錫を神前裏の畳部屋へと誘った。
「最初のお婆さんはお婆さんだったんでしょ?」
「さあなぁ…。でも金は返さんぞ。もらったものは返さん主義じゃ」
──「やっぱりね…。〝私だ〟って素直に言えないのかしら…このお婆さん…」錫はお金はどうでもいいので、知っていることを教えてほしいと頼んだ。
「ワシはこれでも若い頃は本当に美人じゃった!ゴミソの修行中もいろんな男が言い寄って来たもんじゃ。ハエのように鬱陶しいから片っ端から追い払ってやったがのぉ。…ただ一人の男を除いて…」。
「あのぉ~、お婆さん…私の聞きたい話はそういう恋愛の話じゃなくて…」気障りの婆は、げんなりしている錫を無視して話を続けた。
「そのただ一人の男の名は…………香神虎と言った…」
「だから…私はそんな話は聞きたくない…………って香神とらぁ!?」
「そうかそうか…もうやめじゃ!聞きたくないらしいからのぉ」
「ウソですウソですぅ…。本当は聞きたかったんですぅ。ゴミソのお妃さま」
「…まぁ…。そこまでいうなら話してやってもいい」
──「あまのじゃくね…。人が興味を示した途端にわざと意地悪言うんだからぁ」
「ワシがまだ二十五歳の時じゃった。神のお告げを得るために、女だてらに火の行に勤しんでおってのぉ。その時は炭火を敷き詰めた火の道を裸足で渡ろうとしていたんじゃ。ところがいざ渡りかけた時、これも神のお指図だったのか…理由もなく突然意識を失ってしもうた。体は前のめりに倒れ、ワシの顔半分は炭火の中に突っ込んだ。…そうしてこの醜い火傷の痕が残った。まだ若かったワシはこの傷痕が嫌でたまらなんだ。人に会うのも抵抗を感じて、たまに外に出るときは、今も愛用しているこのずきんですっぽりと顔を隠しておったもんじゃ。それに誰彼かまわず皮肉を言うたり、嫌がらせをしたりと散々じゃった。〝気障りの婆〟と呼ばれるようになったんもそんなことが理由じゃ。もっとも若い頃は〝気障りのハル〟と呼ばれておったがのぉ。ワシも最初から〝婆さん〟ではないからのぉ」
「ハルというのはお婆さんの名前?」
「あぁそうじゃ。〝高宮ハル〟それがワシの名じゃ」錫は話を聞いているうちに気障りの婆が気の毒になった。「それに当然こんな顔では言い寄って来る男もいなくなったわい。それはそれで煩わしさが解消されて良かったがのぉ。…ところがじゃ。一人だけ…初対面の男がそんなワシに声をかけて来たんじゃ」
「それが私のおじいちゃんだったの…?」
「そうじゃ。お前のじいさんはこう言った…『君の火傷の痕はこの先ずっと残るかもしれない。でも君の本当の美しさはその内面にあることを僕は知っている。だから人を傷つけることで自分の心にまで傷痕を残さないでほしい』とな…」
「なんて優しいのぉ…おじいちゃんは…」
「ワシは自分を美しいと思ったことはなかった。外見に囚われるような人間にはなりたくないとも思っとった。じゃがあの若さで顔にこんな傷痕ができてしまったことは、女にとってやはり辛いことじゃった。自暴自棄になっていたワシに手を差しのべてくれたのが香神虎じゃった──一瞬で恋に落ちた」
「おじいちゃんもお婆さんのことを愛していたの?」
「それはなかろう…。あの男は純粋にワシを助けてくれようとしていただけじゃ。かなわぬ恋じゃ。まぁ恋愛話はどうでもよいわ。とにかくワシはあの男に助けられ、お互い神と一体になるための修行に励んだ」
「じゃ、おじいちゃんもゴミソだったってこと?」
「そうじゃ…あの男もゴミソじゃった。ところが修行に励んでいたある日、あの男は突然神から天啓を受けたのじゃ。そしてすぐに山を下りて聖霊をすると言いだした…。それが自分に与えられた使命だと言い残して、とっとと山を下りてしまったんじゃ」
「お婆さんは追いかけなかったの?」
「あの男の心の中にワシはおらん…追いかけても虚しいだけじゃ…。ワシにはゴミソとして生きる道しかなかったんじゃ」気障りの婆は被っていたずきんをあっさり取った。「今ではこの顔をどこにでも晒せる…決して年のせいではないぞ。あの男のおかげなんじゃ…」錫は気障りの婆が今でも祖父を愛していると気づいた。「その後あの男と再会したのは一度だけじゃ。あの男が死ぬ直前のこと…岩木山のワシの家を訪ねて来たんじゃ」
「…おじいちゃんは、なんの目的で会いに来たの?」
「うむ…。その時ワシはたった一人、山奥で三十日間の修行に入っていたのじゃ。修行を終えて戻った時、置き手紙がしてあった。〝あの時の突然の天啓が何を意味していたのかを君にすべて話したい。なるべく早いうちに私の自宅を訪ねてくれ〟と書かれてあった。そして手紙と一緒に預かり物が置いてあってな…〝この二つをいつも霊気で満たしておいてくれ〟と書き残してあった」
「もしかして集鬼鈴と晶晶白露!?」気障りの婆は黙って頷いた。
「あの男は自分の死を知っていたんじゃ。それであんな物を託したのじゃろう。ワシももう少し早く修行が終わっておれば、あの男に会えたのにと後悔しとる…」
「あれっ?でもお婆さんはおじいちゃんと再会したんでしょ?」
「本当に会えたわけではない。あの男が亡くなる直前、ワシの枕元に立ったんじゃ。…そしてこう言った『すまないがすべてを話せなくなりそうだ。私の孫がいつか必ず君を訪ねて来る──そのときは君の修行の成果をもって助けてやってくれ。それが君まで危険に巻き込むことになっても許してほしい…』とな。ワシももう山に未練はなかった。それを機に長年住み慣れた岩木山の修行場を離れてこの場所にやって来たというわけじゃ」
「じゃ、私のためにここに来てくれたの?」錫は感激して尋ねた。
「バ~カ!あの男の頼みだからに決まっとるじゃろうが!」
──「可愛い気のない婆さん…」錫はムッとして気障りの婆を睨みつけた。
「でもねお婆さん、おじいちゃんは突然死だったんだよ。さっきのお婆さんの話だと、おじいちゃんは突然死を予測していたってこと?」
「…あの男は殺されたんじゃとワシは思うておる」寝耳に水だった。いくらなんでも突拍子もない話だと錫は思った。
「お婆さん…おじいちゃんが殺されたと思う根拠はなんなの?」
「まず突然死がそれじゃ。お前が言うように突然死を予測するなどありえんわ。死を告知されるような病気か、あるいは誰かに命を狙われるか…死を予感するならどちらかじゃろ?しかしあの男は病などなかった。そうすると殺されたと見るのが自然じゃ」
「でも、それはあくまでもお婆さんの憶測でしょ?」
「お前は鈍いのぉ…さっき話したじゃろうが…。あの男がワシの枕元に立った時こう言ったんじゃ『すまないがすべてを話せなくなりそうだ…』とな。死を悟っていたような話ぶりじゃ。それから『君まで危険に巻き込むことになっても許してほしい』とも言った。〝君まで…〟つまり、すでにあの男の身にも何かが起こっていたということじゃ…。この二つの話を合わせると、香神虎は何かに巻き込まれ、人間ではない何者かに殺された……そう取れんか?」
「あっ、そういえば、母さんもおじいちゃんが死期を悟っていたようだったと言っていた…。でもそれが人間の仕業じゃないとどうして言い切れるの?」
「頼りないオナゴじゃなぁ…。人間が作為的に突然死に見せかけるなどそうそうできんじゃろ?それにわざわざワシを頼って来たということは、そっちの世界のことしかないわ」言われてみればそのとおりだと錫は納得した。「ほんにお前はまだまだションベン臭い小娘じゃのぉ。先が思いやられるわ…」
「こんな小娘ですみませんねぇ~っ。それはそうとお婆さん…私には今お婆さんのチャクラが見える。あまり開いてないけど、しっかりしたチャクラが…。それにお婆さんのオーラは、黄色と赤色の斑模様よね?」
「ほう、そのくらいは分かるんじゃのぅ?もともとワシのオーラは黄色じゃが、霊力が高まっていくうちに赤い色がだんだんと増えてきたんじゃ」
「ということはオーラと霊力には深い関係が?」
「ワシが見るところ、オーラは血液型みたいなもんで、どの色でも別段大きな違いはない。ただ赤色のオーラだけは別じゃ。お前のように真紅のオーラを纏ったヤツは極めて珍しい。そしてチャクラじゃが…」気障りの婆は自分の額を軽く叩きながら言った。「こいつは霊力をコントロールしているに過ぎない。霊力には個人差があってのう…車で例えれば、排気量の小さな車のアクセルを踏み込んでも大したスピードにはならんが、排気量の大きな車のアクセルを踏み込めば暴走するようなものじゃ。つまりこのアクセルの役目をしているのがチャクラといってよい」気障りの婆の喩えは年齢に合わないと錫は思った。
「んじゃ、チャクラがパッチリ開いていても、もともとその人に備わっている霊力が弱ければ大した力はないということですか?」
「そういうことじゃ。きゃんきゃん吠えてたお前の友人のチャクラはよく開いておったが、稀にあんなのもおる。奴はチャクラの存在さえ知らんはずじゃから、霊力のコントロールなど無理だと思うぞ」謎だったチャクラの秘密が分かった途端、錫はショートケーキをワンホール食べたくなった。「ついでにもう一つ教えておいてやる。チャクラのある人間に必ず霊力があるとは限らんが、チャクラのない人間には絶対に霊力はない」
「ふんふん。ありがとうお婆さん。とても勉強になりましたぁ~」お金を払っただけの価値あったと錫は満足した。
「それにしてもお前の体にはおどろおどろしい気が籠もっておるのぉ?」
「え~!どこどこ」錫は気味悪がって自分の体をキョロキョロ見回した。
「見てわかるわけないわい!お前の体内から感じるんじゃ…」
「……イヤだぁ~…お婆さん取ってぇ~!」
「情けない声じゃのぉ…。ええか、気を一点に集中させるんじゃ。一番集中させやすいのは手じゃ。そこに気を集中させて、異物が出てくるように念じてみい。今ならお前のチャクラはちぃーとばかり大きく開いておるから、たやすく出せるはずじゃ」錫は半べそのまま頷いて、手のひらに気を集中させてみた──何も起こらない。
「ダメじゃダメじゃ!集中力もまるでなっとらん。このままお前の中に異物が残っておったら、おそらくあと三日もすればお前の魂は呪われるぞ!」
「げぇ~っ…そんなのイヤだぁ~!」呪われると聞いて慌てた錫は、再度手のひらに気を集中して念じてみた。
「なんじゃそれは?誰がそんな物を出せと言うた…」錫の手のひらから出てきた物は蓮の花だった。
「ごめんなさい。いつも最初にこれが出るんです」
「蓮はあの世に咲いている花じゃと聞くが…。だいたいそんな物を出すのは幼稚な気しか扱えんからじゃ!やっぱりションベン臭いオナゴじゃ」
「ま~たそれを…分かりました。もう一度やりますって…」今度はできるだけチャクラが開くようにイメージして〝気味の悪い異物〟が出てくるよう念じてみた。錫の真紅のオーラは手のひらの上でゆっくりと渦を巻きながら大きくなり、リンゴほどの大きさになると、一旦手のひらに吸い込まれるように収まり、すぐまたガラス状の玉を引き連れて浮き上がってきた。「あっ、こいつは狡狗!すっかり忘れてた…。白衣の袂に仕舞ったはずなのにどうして?」
「バカかお前は!何が袂に仕舞ったじゃ。この玉は物体ではないのだぞ。お前がどこに仕舞おうが忘れようが、自分の霊力を塞げば居場所を失った玉は自ずと持ち主の体内に取り込まれるんじゃ。それにしてもこんな気持ち悪いモノをしまい込んだまま平気でいられるとは…どんだけションベン臭いオナゴなんじゃ!」
「ま、またそれを…。でもこれで呪われないでしょ?」
「あぁ、あれか…あれはウソじゃ。危機感があった方が集中できるじゃろ。現にほれ…ちゃ~んと出てきたわい。キシシシ」
「ウソって!…恐かったのにぃ」錫に睨みつけられても、気障りの婆はどこ吹く風だ。
「ところで狡狗とはなんじゃ?」錫はそれを気障りの婆に話すべきか否か悩んだ。「無理に話さんでもえぇ。聞きたいわけでもない。ただこんなえげつないモノを退治できるお前には、とんでもない力が備わっておるのは確かじゃ」
──「お婆さんを訪ねろと言ったのは誰あろう自称神様だ。それを考えると、やはりお婆さんには話すべきよね…」
「お婆さん、すべて話します…」錫は十八歳を迎えたあの日からのことを話し始めた。
★
「醜長様からのご命令だ。いいかオマエ達、今漂っている気味の悪い霊気を放っている奴を一刻も早く見つけ出して捕まえろ。我々を脅かす悍ましい存在だからな」
「クンクン…阿仁邪様、コイツを捕まえてどうするんで?喰っちまってもええですか?」
「いかん!お前らよーく聞け。今人間界では、とてつもなく恐ろしい代物が出現しているのよ。だがそれがどこにあるかは不明だ。そしてその代物を見つけ出す鍵が、実はこの気味の悪い霊気を持った奴なのだ。そ奴が先にその代物を手にすると厄介なんで、醜長様は躍起になって探しておられるってわけだ」
「うへ~!だったらなおのこと、さっさとそいつを見つけ出して喰っちまいましょう?」
「いか~ん!確かに向こうに渡れば脅威だが、逆にこちらが手にすれば我々の時代がやってくる。もしその人間を喰っちまってみろ、永遠に在処がわからんようになる……醜長様の野望もパァだ。そうなったらお前らが醜長様に喰われるぞ」
「お~恐っ。そいつはよろしくねぇや。…にしても阿仁邪様は賢いですな?」
「オマエらがおバカすぎるんだ。オレサマとオマエらでは…あれだ……まるで〝月とトッポン〟だ」
「阿仁邪様〝月とトッポン〟ってどういう意味で?」
「これだからバカ者どもは困る。月は綺麗だがトッポン便所は臭くて汚いだろうが…。つまりオレサマとオマエたちとでは違いがあり過ぎるという意味よ」
「オ~!さすが阿仁邪様は物知りよなぁ!難しいことをよう知っとる」
「ふっふ、いまごろ分かったのか?さぁ、この悍ましい霊気が消えてしまわんうちに早う奴を探しだせ」