第六章──霊戦
霊戦
Ⅰ
夜九時──龍門は自宅でくつろいでいた。電話の音に少し眉をひそめ、ゆっくりと受話器を取って耳にあてた。龍門はやっと来たかと小さくため息を吐いた。
「龍門先生…川手です。長らくお待たせしてすみません…。仕事が立て込んでいたもので…」尻込みしていたとは言えなくて、仕事のせいにしてごまかした。「それで例の件、調べてまいりました。近々お時間いただけますか?」
「調べられたならそれで結構。忙しいでしょうから、わざわざそのために時間を割くのはやめましょう」龍門はそう言うと、要点だけを伝えて電話を切った。
「目に見えない憑物を龍門先生はどうやって退治するんだろう?」川手は、もし間違って自分が取り憑かれたらと思うと、恐ろしくて血の気が引いた。けれどその気持ちと裏腹に、龍門と憑物が一戦交える場に、どうしても立ち会いたかった。
Ⅱ
「スン、お邪魔するねぇ」埃をかぶっていた二つの写真立てを拭きあげた頃、部屋に浩子が入ってきた。
「呼び出してごめんね」
「いいのよぉ。家は騒がしくて、いいかげんうんざりだったから…」
「そう言ってもらうと気が楽だわ」錫はほっとして二つの写真立てを机の上に置いた。浩子は好奇心あり気に写真立てに目を遣った。
「あっ、これ?…古い写真を見つけたの」錫はもう一度写真立てを手に取って浩子に差し出した。
「もしかして…スンのおじいさま?」錫は目線だけ浩子に向けて笑って頷いた。「優しそうなおじいさま……想像していたとおりよ…」
「でしょ?…実はね浩子………ううん…なんでもない…」一瞬浩子に打ち明けようとしたが、それは思い留めた。向こうの世界の〝自称神様〟から『誰にも言ってはいけない』と釘を刺された言葉が脳裏を過ぎったからだ。
「それはそうと写真は?」錫は素早く話題を替えた。
「あっそうだったわね、まだ印刷してなくて…データだけどゴメンね!」
「オーサンキューヒロコォ!ナイスバディ」意味不明だ。錫はデジタルカメラを受け取ると、そそくさと自分の部屋に移動した。早速部屋のパソコンの電源を入れたものの、起動するわずかな時間が待ちきれず、そわそわと落ち着きがない。
「スン、気にしないで行っていいのよ」浩子は錫がトイレを我慢していると思っているようだ。
「あっうん。だ、大丈夫大丈夫…むふふ…」やっとパソコンが起動してデジタルカメラをUSBケーブルに繋ぐと、錫は最終日に撮った写真をモニターいっぱいに拡大した。マウスをクリックしながら一枚一枚順番に送っていく。そうしてある一枚にたどり着くと、錫の指先が〝ぴたっ〟と止まった。
──「あった!しかも最高のアングル」その一枚は大仏殿の柱の穴を正面から撮ったものだった。穴をとおして向こうの背景も写し出されている。錫は写真を凝視すると、閉ざしていたチャクラを少し開いた。
──「やっぱり…。写真は真実を映し出す…」錫は胸いっぱいに空気を吸い込み、それをゆっくりと吐き出して気を静めた。
──「ずっと引っかかっていたんだ…」錫は向こうの世界に三十分は居た気がしていたが、信枝も浩子も錫が寝ていたのは一分くらいだったと言う。だったら夢で話を聞き霊力を手にしたのだろうかとも考えた。けれど、チャクラを開いて見た柱の穴の写真は真っ白で向こう側の背景が見えなかった。つまり夢ではなく現実だったという証だ。
錫は親友の二人にだけは話をするべきだと考えた。二人なら単純(T)・天然(T)・臆病(O)な自分の支えになってくれるはずだと。
「あのね浩子…大事な話があるの」
「なぁに?さっきから変よ…。落ち着きがないし、かと思ったら写真を食い入るように見たり、今度は畏まったり…」
「うん…。私…柱の中で寝てたでしょ?それでね…」
ちょうどその時だった──。
「おーい、ちょっといいか?」タイミングが良いのか悪いのか父親が大声で割って入ってきた。浩子がその声に驚いて振り向いた拍子に、持っていた写真立ての一つを手元から落としてしまった。〝グシャン〟表のガラスが不規則に割れ、破片がダーク色のフローリングの床に飛び散った。
「あっ!ごめんなさい……大事な写真立てが…」
「大丈夫よ浩子」錫はニッコリ笑って浩子の肩を撫でてやった。
「すまんすまん…ドアが開いていたから、いきなり声かけてしまって…。今度の金曜日にお前を現場に連れて行こうと思ってな…」父親はオロオロしている。
「はいはい!必ず空けておきます」ちょっとご立腹の様子だ。
「邪魔して悪かったなぁ」父親は背を丸めて部屋をすごすごと出て行った。
「ねぇ…さっき何を言いかけたの?」二人で飛び散ったガラスの破片を拾っていると、浩子がさりげなく尋ねた。錫は即答せず、暫く考えてから口を開いた。
「うん……大したことじゃないのよ。柱の穴を潜ったとき、どこかに頭をぶつけたのかどうか聞きたかったの…」錫は話をごまかした。あのタイミングで父親が割り込んできたことで、やはり話してはいけないのだと解釈したからだ。浩子は錫の答えにしっくりこない顔をしていたが、それでも本当のことは言えなかった。
床が片づくと、錫はコーヒーを淹れにキッチンまで下りていった。お湯を沸かしながら、〝やはりこのことは秘密にしておいて正解だ〟──そんな気がしてならなかった。
錫がコーヒーを持って部屋まで戻ってくると、浩子は割れた写真立てから写真を取り出してくれていた。
「スン…ホントにごめんね…大切な写真立てを…」
「大丈夫だって。大事なのは、ほら…こっちの中身の方だから…」そう言って写真を摘み上げると、ペラペラと振ってみせた。
「あらっ!?裏に何か書いてあるわ」浩子が言うと、錫は慌てて写真の裏を見た。
境内地 愛犬〝いし〟と遊ぶ孫
母のひと声〝いし〟は生き生き
神社で撮った写真の裏側に、短歌を書き残していたようだ。
「おじいちゃんの字だわ。サインペンで書いてある──褪せないようにかな…?」錫はコーヒーそっちのけで何度も短歌に目をとおした。「この短歌…どう思う?」
「表の写真を歌に詠んでいるだけじゃないのかな?」何も知らない浩子に答えを求めても仕方がないと、錫は心の中で自分の頭を叩いた。「それとも…おじいさまは何か大事な秘密をこの歌に隠したとか…?」
──「そうよ、浩子の言うとおり。おじいちゃんの夢からこの写真にたどり着いた。だったらこれが意味のないただの短歌だと決めつけるのは浅はかだわ」
それから暫く短歌と格闘してみた錫だったが、これといった答えは見つからなかった。唯一導き出せたのは〝自分の思考回路では手に負えない〟という惨めな現実だった。
夜中になっても、錫は短歌のことが気になって眠れなかった。浩子とは、あれから冷めかけたコーヒーを飲みながら旅行の思い出話に湧いた。このまま泊まっていけばと誘ったが、〝今夜は帰る〟と満足そうな顔で帰っていった。
「…う~ん…ダメだ眠れない。よしっ、気分転換しよう!」またパソコンの電源を入た錫は、大仏殿の柱の穴の写真をモニターに映し出すと、チャクラを開いてジッと見入った。
「…私ってば、気分転換といって、またあっちの世界のこと考えてるし…」錫は自分の性格に辟易しながら、次の写真にスライドさせた。その写真の左端には、柱の穴から頭を出してこっちを見ている信枝が写っている。写真の中央に写っている浩子は、カメラに顔を近づけて、右手で信枝を指さして笑っていた。見た目はなんの変哲もない楽し気な一枚だ。だが──錫は驚くものを見つけてしまった。「えぇ~~!なんなのよこの写真……うっそでしょ!?」マウスをクリックして、他の写真もモニターに出してみた。「…やっぱり見間違いじゃない」気分転換するつもりが、余計に頭が混乱した。
写真に写っている信枝の額には、くっきりとチャクラがあった。そしてそのチャクラは────大きく開いていた。
Ⅲ
免許を取って錫は初めてハンドルを握った。助手席の父親は時折足先に力を入れて、ありもしないブレーキを踏んでいる。運転しろといった手前、文句を言えないのがつらい。
そんな父親を余所に、錫の頭は信枝のチャクラのことでいっぱいだった。実はあの夜、矢も楯もたまらず信枝に電話をかけた。信枝に次の日曜日まで会えないと言われ、今はただただその日を待っているのだった。
いったん気になり出すと、頭からそのことが離れない性格だが、今の錫にとっては、この性格も〝吉〟と出たのかもしれない。
──「あの子はいったいどんなモノを見ているんだろう?…私よりもっとおかしなモノが見えているんだろうか?何しろあんなにパッチリとチャクラが開いているんだもの…」錫は気も漫ろに運転していた。
「う、運転…本当に大丈夫か?」
「大丈夫だってパパ…卒検一発合格の錫ちゃんなんだから」
「…そ、そうかぁ?」父親は気の毒なほど身体中の筋肉が強ばっている。
「それからなぁ…現場ではパパはいかんぞ、パパは」
「わかってますってパパ…ちゃんと名前でお呼びいたします!」
☆
「智信枝栄之命よ……その後は順調ですか?」
「はい天甦霊主様。ご存知のとおり人間として生まれ変わりますと、どのような性格になるのか正確にはわかりません」
「ふふっ…そなたも言うようになりましたねぇ!」
「ありがとうございます天甦霊主様。人間となった錫雅様は、人一倍恐がりなので肝を焼きますが、気になり出すとやたらと追求したくなる性格なのが救いです」
「秘宝を見つけだすには好都合ということですか…」
「はい天甦霊主様。ですがあのお方は秘宝の気を完全に消し去っております。見つけだすのは容易ではないでしょう」
「今更何を…。どうあっても探し出してもらわねばならぬのです」
「はい天甦霊主様。今はすべてを錫雅様に…いや、香神錫に託しましょう」
「智信枝栄よ…いちいち律儀に私の名前を呼ばないでくれませんか…なんとなく耳に付いてうっとうしいのです」
「はい。申し訳ございません天甦霊主様」
「……………」
Ⅳ
「お待ちしておりました龍門先生。さぁ、どうぞお上がりください。今日は少しばかり掃除をしたんですが…」川手は龍門を玄関から台所に通してお茶を出した。龍門はやっぱり埃だらけだと思って顔を顰めた。
「憑物を祓う前にまず話を聞きましょう。今日は助手がいるので、その間に準備も整うでしょう」
「はい。この家の最初の家主は伊村良蔵といいまして、四十年近くここに住んでいた人物です。私は伊村が実家に越していることを知っていましたから、そちらに連絡を取ってみました。ところが電話には伊村の妹さんが出られて、『兄は一年以上前に亡くなった』と言われるんでさぁ。それで私もどうしようかと考えたのですが、お兄さんのことで気になることをお尋ねしたいと話しましたら、快く『はい』と承諾してくれましてね。こちらの質問に嫌がりもせず、すんなり話してくれました。なんでも伊村は亡くなる前、自分の犯した罰が当たったのだろうから、それを償うつもりで、お前に自分の罪を話しておくと、妹さんにはそう言っていたそうです。先生の仰っていたとおり、黒心は最初の家の持ち主、伊村のものでしたよ。さすがですなぁ!」川手はそこまで話して龍門の顔色を伺った。
「それでここからが本題なんですが、この伊村は癖の悪い男でして、〝飲む打つ買う〟がきちんと揃っている男だったそうで…。二十年程前、ある女性と恋仲になった伊村は奥さんが邪魔になって家から追い出します。それでも奥さんは離婚もせず、十年近く一人でひっそりと暮らしていたそうです。もともと奥さんの実家はとても裕福で、頼れば助けてもくれたようですが、奥さんの気質なのか一人で頑張っていたということです。やがて、奥さんの親が亡くなると、かなりの財産が転がり込むのですが、伊村がそれを嗅ぎつけて、また奥さんと縒りを戻そうと近づきます。…よせばいいのに奥さんも伊村のところに戻るんですよ。どこが良いんでしょうかねぇ…こんな男の…。それにどうしてこの手の話はお約束のようにこういう展開になるんでしょうかねぇ?…あっ、まぁそれは私の勝手な感情ですが…」川手は小さく咳払いをして続きを話し始めた。
「それで、結局奥さんはお金だけ毟り取られてまた追い出されます。伊村にとっては泡銭も同然の金ですから、例の〝飲む打つ買う〟で、たちまち底を突きまさぁ。金の切れ目が縁の切れ目、やがて愛人も伊村を見限ってとっとと去ってしまいます。一人残った伊村は、〝つけ〟で飲み歩き、金を借りては博打に走り、とうとう借金まみれになってこの家を売りに出したってわけでさぁ…。話が後先になりますが、奥さんは伊村に追い出された後……自殺してます。それも薬物自殺。睡眠薬ですよ…」川手はブルブルッと体を震わせた。
「そして伊村はというと、家を売り払って実家に帰ってからというもの、あまり食事も摂れなくなり、だんだん体が衰弱して、最後は突然心臓発作で亡くなったそうです…。亡くなる数日前、死期を悟っていたかのように、妹さんにこの話をしたんだそうですよ…」川手は一頻り喋ってやっと一息ついた。龍門は相変わらず黙って聞いている。
「これが私が聞いた伊村良蔵の過去です。龍門先生…なんとなく不気味じゃないですか?こじつけるつもりはありませんが、伊村の後に入居してきた三家族の悲劇にあまりにも似ていませんか?これは偶然でしょうか?いえいえ、これが憑物の祟りというやつなんでしょう!?とにかく私はますますもって恐くなりました。先生どうかどうかよろしくお願いします…」川手は目に見えない憑物に怯えワナワナと震えていた。
Ⅴ
錫は現場に向かう運転中に一度アレと遭遇した。助手席には父親が座っていたので、なるべく悟られないよう平常心を装っていたが、内心は叫びたいほど恐かった。幽霊を見たという話など人ごとだった錫だが、今や脅かされるか分からないお化け屋敷で生活しているような感覚だった。
昨夜のことだ──錫は一人でゴールデンタイムのテレビ番組〝誰も知らない霊の世界〟を観た。サブタイトルは〝恐い映像スペシャル!今夜あなたはどこまで耐えられるか!?失神続出!心臓の弱い方は裏番組へお回りください!失禁の虞あり──オムツの用意お忘れなく〟だ。今までこの類の番組を観ると、本当に失神しそうだった。内緒だがチビったこともある。
昨夜この番組を観たのは〝恐いもの見たさ〟からではない。本来ならこんな番組ご免被りたい。それでも観てしまったのは、ゲスト出演する霊能力者達のチャクラが見たかったからだ。結果から話せば、霊能力者達はみんなインチキ臭かった。昨夜ゲスト出演した霊能力者は四人だったが、そのうちチャクラを持っていたのは〝陰田智鬼〟という霊能力者たった一人だけだった。しかしそのチャクラはピタリと閉じたままで、錫には粗末な飾りのように見えた。今の段階で、チャクラの有無と霊力とが本当に関係あるのかどうかは謎だが、チャクラがどうであれ、昨日の霊能者はやっぱりインチキ臭かった。
たとえば幽霊の顔に見える心霊写真が本物かどうかを判定するコーナーで、一人の霊能力者が『これは明らかに心霊写真です。ここに写っているのは殺されて恨みをもった霊です』ときっぱり言い切っていたが、錫には背景の岩の模様がたまたま人の顔に見えるだけで、霊気は全く感じられなかった。
逆に見た目は全く何もない写真でも、錫には鳥肌が立つようなモノが写っている写真もあった。
番組の終盤は、陰田智鬼が幽霊屋敷に潜入するというコーナーだった。過大な期待はしていなかったが、それでも唯一チャクラを持った霊能力者なので、他の三人とは違うかもしれない、と淡い期待も残していた。だがその期待はあっさり裏切られた。陰田智鬼は『柱の下に女性の自縛霊がいます』などといい加減な説明をしていて、見ているのがばかばかしくなってきた。錫には、柱の下と違う場所に、もっとたくさんのソレが見えていたからだ。
結局出演していた霊能力者は参考にならず、観ていても気持ち悪いだけなのでテレビを消した。それゆえ錫はなんとしても信枝を被験者として迎えたいと思っていた──。
〇
「錫、作業着に着替えたら、さっき話した手はずどおりに頼む。すべて準備が整ったらパパを呼びなさい」三十分前に現場に到着した錫は、父親からそう言いつけられて一人頑張っていた。
「もうパパったら…人使いが荒いんだから…。まぁ、私は新入社員みたいなもんだから仕方ないけど…」運転から解放されたもののホッとする間もない錫は、大急ぎで着替えを済ませると、父親に言われたとおりに段取りを終えた。
「これでよしっ!と…。もたもたしてるとパパに叱られるもんね」錫は父親が待機している部屋までせかせかと移動した。
「パ……」
──「いけない、いけない──〝パパ〟は禁物だった…それこそ大目玉だわ」錫は一度大きく深呼吸をして気を落ち着かせてから襖をガラッと開けた──。
「聖霊師龍門様──準備が整いました!」
Ⅵ
当時高校一年生だった香神鈴子は、演劇部で人気を集めていた二年生の田中一に告白された。もともと演劇好きだった鈴子は、田中の舞台を何度か観劇したことがあった。一旦舞台に上がった田中が観客を魅了する演技力には驚かされた。どんな役でも難なく熟す田中の演技を、鈴子も感服したものだ。
はじめ鈴子は、田中の告白にどうしていいのか分らなかった。舞台上の田中のことはよく知っていたが、素顔の田中のことは全く知らなかったからだ。
田中が鈴子に愛の告白をするのに使用したアイテムは一通のラブレターだった。そのたった一通のラブレターを渡すのでさえも、田中は顔を真っ赤にして言葉をもごつかせていた。結局鈴子に伝えた言葉は「これ…自分の気持ちです」たったそれだけだった。
鈴子はラブレターを受け取るには受け取ったが、しばらく封を切らずにそのまま家の机の引き出しに仕舞い込んでいた。
それからまた田中の舞台を観る機会があって、鈴子は役柄に徹している時の田中と素顔の田中とがあまりにもかけ離れているのが可笑しくなってきた。
「ラブレターを渡す時にも、舞台のつもりでプレイボーイ役に徹すればよさそうなものなのに…、それができない田中さんは不器用で正直な人なのかも…」そう思った鈴子は、やっと田中から渡されたラブレターの封を切った。
香神さんが大好きです。
世界で一番大好きです。
田中一
こんな化石のような田中の純情ぶりに、鈴子は心を動かされたのだった。鈴子が交際を認めた時の田中の喜びようは面白かった。
「あっ!そっ、そうですか!どうも…やりました!これからもよろしく…頑張ります…」あとは〝もごもご〟と何を言っているのか分らなかったが、喜んでいるのか引きつっているのか判断のつかない表情で頭をかいていた。
交際してからの二人は、時折街に出て映画を観たり、田中の演劇に使う小道具を探しに行ったりすることが多かった。急接近するようなこともなかったが、お互い一緒にいて退屈しなかったし、不仲になることもなく二人の交際は続いた。やがて二人は自然の成り行きのまま結婚した。鈴子二十二歳の時だった。
結婚してから鈴子が一にラブレターの話を持ち出すと「あれこそが鈴子を落とすための俺の巧妙な演技だったんだ。さすがの鈴子さまも俺の絶妙な演技力に見事に〝ハマった〟というわけだ!」一は顔をきりりとさせて飄々と答えた。それを聞いた鈴子も負けてはいなかった。
「そうだとしたら…舞台でもあんな迫真の演技を見てみたかったわ」一は鈴子の言葉が聞こえていない体で、黙って新聞を読んでいるふりをしていた。
鈴子と一の結婚には一つだけ条件があった──一が婿養子になることだ。高校を卒業した一が大学へと進んだ頃から、鈴子の父からこの条件が出されていた。けれども三男だった一にとって、これはなんの問題もなかった。そのためかどうかは分からないが、鈴子の父は一をとても可愛がっていて、いつでも遊びに来いと一を家に誘うのだった。
大学でも演劇でブイブイいわしていた一だったが、その道に進む気はなかった。そのことを知っていた鈴子の父は、就職間近になると一に自分の跡継ぎになれと、しきりに〝青田買い〟をしていた。鈴子もさすがに〝そこまで言うな〟と父に噛みついていたが、一はある時「はい!喜んで跡を継がせていただきます!」と、その要望に応えてしまったのだ。
この瞬間──〈聖霊師 天登龍門〉の誕生が決まった。
Ⅶ
「聖霊師龍門様──準備が整いました!」助手を務める錫の言葉に、龍門はゆっくりと立ち上がった。
「さて…では参りましょうか」龍門は錫が設えた大部屋に移動した。
大部屋の床の間の正面には、神社などで神様に供え物をする時に使用する〝八足台〟と呼ばれる祭壇が設えてあった。上下段違いになった半間の長さの檜板だ。八足台のそれぞれの段には、三宝が二台ずつ均等に置いてある。この三宝の上に供え物を置くのが通常だ。上の段の三宝には神酒と塩水が。下の段の三宝には、龍門が用意したと思われる〝代物〟が桐の箱に収められて、それぞれ一台に一つずつ供えられていた。そして八足台の正面には、木串に紙垂と麻をつけた〝大麻〟とよばれる忌み穢れを祓う神具が設えてあった。
「川手さんの言うとおり、この度のことは偶然ではありません。先だって話しました黒心が怪奇の原因です。そして今のあなたの話で、その黒心の源が伊村良蔵の私利私欲だとはっきりしました。その心によって伊村の奥さんは自殺を図り、怨念を抱えることになったのです。奥さんの伊村への恨みは次第に大きくなり、浮かばれることなくこの家に取り憑き、次々と周囲の邪悪な心を取り込んでいった…。その結果、邪悪の塊を持った〈邪塊霊〉にその姿を変えてしまったのです」まばたきも忘れるほど、川手は龍門の話に吸い込まれていった。
「さて…そこで聖霊の方法だが…。川手さん、あなたの体を貸していただきたい」今まで龍門の話を心地よく聞いていた川手の顔から、みるみる血の気が引いていった。
「わ、私の体って、どういうことでしょうか?」声が上擦っている。
「あなたに媒介者になってもらいたい」
「わ…私に…です…か!?」聞きっ端は驚いていた川手だったが、少し考えて、丸めていた背筋をピンと伸ばして言った。「いやぁ~龍門先生、折角ですが私にはそんなイタコみたいな霊媒能力はありませんから…」川手は難を免れたと安堵の顔を見せた。
「そんなことは最初から分かっています」龍門にあっさりと切り返され、川手はまた血の気が引いた。
「で、では…なんですか!?何か方法があるんで?」
「あるから言ってるんですよ」川手はたじたじだ。錫はだんだん川手が気の毒になってきた。
──「媒介者なんて川手さんには死活問題ね」二人の会話を黙って聞いていた錫だったが、実は錫自身も、おかしなモノが見えたらどうしようかと不安でならなかった。今日この場所では絶対にチャクラは開くまいと固く決意していたのだ。
「とにかく私を信じてください」龍門は恐がる川手を説き伏せにかかった。
「わっ、わかりました。先生を信じます」信じろと言われたら信じるしかないが、腰は引けている。
「結構です!では、早速始めるとしましょう」
龍門はまず、設えてある八足台の前に川手を仰向けに寝かせると、正面に用意してあった大麻の串の部分を持ち、寝ている川手に向かって左右左と大きく三回振り祓った。それが済むと川手に聖霊の方法を説明し始めた。
「今あなたの心身の穢れを大麻で祓い清め、憑物が体に入りやすいようにしました。そもそも聖霊師は悪霊を追い払う除霊とは違い、悪に冒された霊…即ち邪塊霊を、元の穢れなき御霊に戻してやることを生業としています。一つだけ厄介なのは、この度の憑物は人にではなく家に取り憑いていることです。こうしている間にも、あちこちを動き回っているのが私には分ります。そこで今回は一旦あなたの体に憑物を取り憑かせたいのです。憑物は一度人の体内に入り込むと今度はなかなか出て行こうとしない習性があります。そこを逆手に取って、動きの取れなくなった憑物を聖霊します…よいですな?」今更〝イヤです〟とは言えない川手だが、龍門の話を聞く度に肝の縮み上がる思だ。
「ですが……その…」往生際の悪い川手に、龍門は素知らぬ顔で話を続けた。
「さて…聖霊の方法ですが、〈神霊界賜尊具〉という神霊界の力を溜め込んだ特殊な道具を使います。これから川手さんには、その音色を奏でれば鬼でさえも魅了され引き寄せられるという〈集鬼鈴〉という鈴を鳴らしてもらいます」龍門は向かって左側の桐の箱を指さしてそう言った。
「鈴を鳴らして、あなたに憑物が憑いたことを確認できたら、いよいよ聖霊師の本領発揮となります」今度は向かって右側の桐の箱を指さした。
「そっちの桐の箱には〈晶晶白露〉という短刀が収めてあります。邪塊霊にその刃を突き刺すと、悪しきモノは祓われ、本来の御霊が姿を現します。そうなればもう憑物ではありません。善の心を取り戻した御霊は聖霊…心配せずともあなたの体から速やかに抜け出してくれるでしょう。尤もその魂が根本から悪ならば御霊にはなれず、抜け出してもまた悪さを繰り返すか……最悪その体から抜け出さずに、呪い殺されることになりましょうが…」ついに川手は笑いだし、目がラリラリと泳ぎ始めた。
「しかし…今回の場合、伊村の奥さんの御霊が邪塊霊だということはあまりにもはっきりしているので、その心配はないでしょう」
「そっそうですかぁ…それは何より。で、ですがその…晶晶なんとかっていう短刀を私に刺して痛くはないんで?」川手はすべてが不安でならない。
「短刀といってもレプリカです。刃は肉体ではなく邪塊霊に突き刺すのです」
「レプリ…玩具じゃないですか…」川手にとって、それはそれで不安なのだ。
「邪塊霊には効果絶大ですから」
「………。…龍門先生を信じます」往生際の悪い川手がやっと観念したので、龍門は錫に目配せした。錫は速やかに左の三宝に供えてある桐の箱を両手で捧げ持ち、龍門の前に差し出した。
「開けなさい」錫は言われるまま桐の箱を徐に開けた。収まっていたのは全長三十五㌢の金色に光るの美しい鈴だった。
集鬼鈴には金属製の芯に様々な大きさの鈴が数十個付いていた──まさに鈴生りだ。持ち手は木製になっていて、両端より中央に向かうほど膨みを帯びて握りやすくなっている。錫は事前に教わっていたとおり集鬼鈴を手に取り、音を立てないように注意しながら龍門に手渡した。龍門は仰向けに寝ている川手にその鈴をそっと持たせて言った。
「さぁ、一振りで結構。あなたがその鈴を鳴らすのです」小刻みに震える川手の手を伝わって、集鬼鈴もシャリシャリと震えていた。
「あぁ、どうにでもなれぃ!」川手はやけくそに一振りした。〝シャシャーン〟集鬼鈴は心地よい音色を醸し出し部屋中に響き渡った。何か異変が起こらないかと三人とも暫し沈黙したままだ。
「あっ!」錫がいきなり大声をあげた。
「どうした錫!?」驚いた龍門は一瞬パパに戻った。川手は錫の声に〝ビクッ〟と驚いて半泣きだ。錫はこのタイミングで、鈴子が教えてくれた祖父の言葉を思い出してしまったのだった。
──「ひょっとしてコレがおじいちゃんの言ってた鈴?…私が鳴らすとビックリするようなことが起こるのよね…」またまた錫の好奇心が踊り出した。
「な、何も起こらないようですね…」落ち着きを取り戻した川手は、額にうっすらと汗を滲ませて笑った。
その途端──。「ぐあぁ~~っ!」突然川手が白目を剥いて硬直した。
「錫、そっちの箱だ」龍門はそれだけ言うと、仰向けの川手に馬乗りになった。
錫はもう一つの桐箱を、今度は手荒く掴むと急いで蓋を開けた。そこには、その名の如く刃に白い露が滴り、目を射るような眩い光を放つ短刀〈晶晶白露〉が収まっていた。錫は今までに何度の巫女の手伝いでこの短刀を目にしている。刃長は七寸四分──約二十二㌢。鞘は無く、刃はむき出しのままだ。柄は白木で仕上げられていて柄糸は巻いていない。金具など装飾品の施しも一切ないシンプルなものだ。錫はその短刀を手に取り龍門に渡した。
「では聖霊に戻してやろうか…」龍門は静かな口調でそう言うと、短刀を逆手に持ち大きく振り上げた。その途端「呪ってやる!」川手の顔が鬼の形相に変わり、大きな口を開けて龍門を威嚇した。
「あぁ、そうしてみるがいい!」龍門はそう言うと躊躇うことなく川手の胸元に刃を突き立て、真っ直ぐ臍の方へと下ろしていった。「ぐあぁ!きさまぁ~やめろぉ…呪い殺してやるぞぉ」龍門は川手の言葉を無視して、もう一回、また一回と胸に刃を突き刺した。川手の首筋にはくっきりと青い血管が浮き出し、苦しそうに胸を掻き毟った。錫は恐さのあまりチビリそうだった。
「こんなしつこい奴は初めてだ…」龍門はそう言って、今度は頭の方へと短刀を滑らせた。川手は弓なりに体を硬直させ、白目を剥いて意味不明な奇声を発していたが、一気に身体の力が抜けて意識を失った。
「終わったの…?」錫が恐る恐る川手の顔を覗き込みながら龍門に聞いた。
「伊村の奥さんに取り憑いた邪気を祓って、本来の心に戻した。これで奥さんも成仏するだろう」龍門の額にも油汗が滲んでいる。「それにしてもこんなに手こずったのは初めてだ…。起きなさい川手さん…」龍門が川手の頬を軽く叩くと、川手はゆっくりと目を開け、二人の方へギロリと気味の悪い視線を向けた。
「あっ!川手さん大丈夫ですか?」心配した錫が静かに声をかけた。
「サイコウにイイ気持ちさ!」さっきの川手とは明らかに違う。錫は不審に思って龍門の顔を見た。龍門も顔を雲らせている。
「川手さん…気分は?」今度は龍門が尋ねた。
「だからサイコウにイイ気持ちさ…キキッ!オマエが余計なことをしてくれたから、オレサマはオマエを殺して取り込みたくなった。このニクしみ…サイコウだ」
「誰だお前は?」龍門はありきたりの質問を投げかけた。錫はもうダメだった。血の気が引いてしまってその場にへたり込んだ。
「オレサマか?キッキ……オレサマはオレサマよ」
「パパ、これは想定の範囲内?」錫が望んでいる答えは〝はい〟か〝イエス〟だ。だが龍門は無言だった。「ねぇパパってば……想定の範囲内?」目を泳がせながらもう一度尋ねた。
「…いいや、こんなのは初めてだ」それを聞いて錫はへらへらと笑い出した。川手と同じだ。どうやら恐さ極限に達したようだ。
「オマエを殺す前に少しイジめやろう…キキッ」言うが早いか川手は驚くほどの腕力で龍門の胸ぐらを掴むと、あっという間に龍門を投げ倒して跨り、両手でじわじわと首を絞め始めた。
「オマエあんな短刀でオレサマを追い払ったつもりか?イイ気になるなよキッキッ…」じわりじわりと龍門の喉に川手の指が食い込んでいく──。やがて龍門が意識を失いかけると、川手はわざと両手を離した。龍門が一気に息を吸い込み、どうにか意識を保つと、川手はまた首をじわじわと絞めだした。
「やめてぇ!お願いやめてぇ!」さすがの錫もこの状況で〝恐い〟などと言っていられない。川手は錫の顔を見てニヤニヤ笑っている。
「オマエもしっかり見ておけ!オレサマへのニクしみをたっぷりと溜めておくのだ。あとでオレサマがそのニクしみを取り込んやる。そうやってオレサマはツヨクなる作戦……キキキ」にやけた顔があまりにも不気味で思わず視線を背けると、足元に転がっている集鬼鈴が錫の目に飛び込んできた。
──「一か八か…私が鳴らしたらどうなるのか…」錫は集鬼鈴を左手で拾い上げ大きく一振りした。〝シャシャーン〟耳に心地よい透きとおった音色だ──けれどそれだけだった。
「キッキ!オマエなにやってる?オレサマを引きずり出したいならもっと霊力を高めてこい」そう言いながら、また川手は龍門の首から手を離した。「ユックリと苦しめて殺せば怨念が残る…キキ!オレサマはそれをエサにして、さらに強くなる作戦!」川手は不敵に笑ってまた龍門の首を絞めた。
「パパを殺させはしないわ………よう!」錫は川手の真左から力いっぱい体当たりをくらわした。不意を突かれた川手は転がりながら柱にぶつかった──鈴を鳴らすよりずっと効果的だった。
自由になった龍門は首をさすって大きく息をし、すぐさま立ち上がると、間髪を容れず川手に飛びかかった。一瞬川手が怯んだ隙に、龍門は右手に体重を乗せ、川手の顔面めがけて拳を繰り出した。同時にすぐ体勢を整えた川手も右手で龍門の顔を張り飛ばした。もはや人間の力とは思えない川手の腕力に龍門は壁まで吹っ飛び、頭を打ち付けて気を失った。「キ~キキッ!」川手は平然として首をコキコキ鳴らすと、また龍門を睨みつけて近寄っていった。
この状況を回避できない錫が咄嗟に取った行動は、川手にどんなモノが憑依しているのかを確かめることだった。今日は絶対にチャクラを開かないと誓ったことも忘れ、錫はチャクラを使った。そうして川手に取り憑いたモノの姿を見て錫は凍りついた。「コレなに!?」今まで錫が遭遇したソレは、恐いなりにも人間だった──しかし今見ているモノは違う。その目は飢えた狼のごとくギラギラと赤く燃え、口は獲物を食いちぎる虎の牙を持ち、体つきは人間に近いが、その肩幅はあまりにも大きすぎる。太い手足を持つ全身は真っ黒い毛に覆われ、どう見ても獣だ。さらにそいつの放つ、どす黒いオーラが悍しすぎて、錫は足を踏ん張って立っているのがやっとだった。
「キッ!?…オマエさっきと違うな?」チャクラを開いた錫の霊力を感じ取ったらしい。「…オマエを取り込んだらオレサマはツヨクなれそうだ…キッキッ!」錫は口から心臓が飛び出そうになった。
「あ、あんた人間じゃないんでしょ?」
「あれっ?オマエ見えるのか?なら教えてやろう…オレサマは狡狗だ!」
「コーク?名前は爽やかそうだけど姿は鬱陶しいわね!」恐いなりにも錫の精一杯の抵抗だ。
「……?とにかくオマエ気に入った。取り込んでやるキキッ!」
「ちょっと待ってよ!あんたはどうしてあの短刀が平気なの?」
「キッキ、あんなのはオレサマの力と比べれば…ほれ、なんだ…月とゼニガメだ」
「ハァ~!?……あんた私より天然ね」
「あんな短刀、低級なニンゲンどもの魂には効果があっても、気高き狡狗のオレサマには全く効かんな。オレサマは怨念邪心が大好きだ。伊村のオンナは良かった。次々に人に取り憑いて悪さをしてくれたからなぁ。そこから生じた恨みつらみを取り込んでオレサマは少しツヨクなった…キッキッ!オマエは普通のニンゲンにはない特別なチカラがありそうだから、オマエを取り込んでオレサマはもっとツヨクなる作戦!」
「あんた作戦が好きねぇ!?でもそんな作戦上手くかしら?」
「やってみれば分かるサクセ~ン!」いきなり飛びかかってきた狡狗に身をかわすこともできず、錫は無抵抗のまま倒れこんだ。狡狗は馬乗りになると、錫の首をゆっくりと絞め始めた。
「ぐっ!乙女に馬乗りになるなんて…イヤらしいわねぇ…」必死で体を捩じらせてみたが狡狗の力には敵わない。それでも足をバタつかせて体を捩らせていたら、左の腰に何かが当たって心地よい音色が響いた。
──「集鬼鈴…」錫は手を伸ばしてそれを掴むと狡狗に見せつけた。
「キッキキキ!オマエやっぱりバカ。そんなのオレサマに効かないと言っただろ?」
「分かってるわ…だからこう使うの!」錫は強く握った集鬼鈴の柄の先を川手の額めがけて殴りつけた。錫の首を絞めていた指の感覚が一瞬緩み、川手の額からじんわりと血が滲み出た。
「このオトコを攻めてもオレサマには効かんぞ」狡狗は笑っている。
「ダメか…」徒労に終わった錫を待っていたのは死への秒読みだった。。だんだん意識が遠くなってゆくが、不思議に恐怖は感じなかった──。途端狡狗は手を離した。
「何度も苦しめ。オレサマを憎んで死んでゆくがいい…キキ」
「一気に殺りなさいよ…恨めしい奴…」錫は狡狗の術中にまんまと嵌っていく。また川手の指先に力が加わった。焦る錫が頭を振ると、今度は晶晶白露が目が入った。
──「あれも…役には立たないだろうなぁ…」そう思いながらも体を捩じり、精一杯手を伸ばしてみた。まだ二十㌢も足りない。──「お願い…この手においで…」そう念じたとき、手のひらに何かが現れた。──「これは…?」それは、いつぞや錫が手のひらに出した蓮の花だった。しかし錫が意識を失いかけると蓮の花も枯れるように消えていった。それとほぼ同時に狡狗の指先の力がまた緩んだ。潰されていた気管が開放され、一気に吸い込む空気の音があまりにも残酷すぎた。
「キッキッキ…これで最後だ!安心しろ、取り込んだらオマエは特別大事にしてやるからな」そう言うと三度狡狗が首を絞めつけ始めた。
「このまま犬死にはごめんよ…。お願い…この手に…お…おいで晶晶白露…この手に…」筋肉がちぎれんばかりに手を伸ばしてみた。「さぁ…早く…この手に…………おい…でよ…」と、その瞬間──〝すー〟っと錫の手にしっくりと何かが納まった。レプリカの短刀はそのまま転がっている。だがもう一本別の短刀が錫の手の中にしっかりと握られていた。
──「これは…晶晶白露!?間違いない晶晶白露だ!」それはレプリカと同じ形をした短刀〈晶晶白露〉だった。だがその刃はレプリカより遥かに目もあやに清らかな光に溢れ、朝露が滴るかのごとく澄み切った水滴を刃全体に呼んでいた。
錫の霊力に因って現れた晶晶白露は、その姿を誰にでも晒す代物ではない。肉眼では絶対に拝むことができない一振りだ。それが今なぜ現れたのかは謎だが、錫の手に握られているそれと、レプリカとは霊力に雲泥の差があるということだけは確かだった。
「キキ?オマエいまナニを手に持った?…ナニかスゴいチカラ感じるぞ」
「そうよ!あんたとは……月と…すっぽんよぉ!」錫は正しく言えた。
「ナニする気か?オレサマにナニする気か?」
「教えてあげるわ。コレで…あんたをやっつける………サクセーン!」錫は刃に過度な力を加えずゆっくりと狡狗の胸元に晶晶白露を突き刺した──それで充分だった。
「ギッギャァー!熱い……焼けるよぉ…」狡狗に突き刺した刃から、眩い光が放射線状に広がった。やがて光が狡狗の醜い体を被い尽くすと、今度は風船が萎むようにゆっくりと縮まっていった。光は小さくなると同時にその眩さも失われ、最後にテニスボール大のガラス状の玉と化し、仰向けになっている錫のお腹の上に転がった。そのガラス状の玉の中で黒い塊がモゴモゴと蠢いている。
「狡狗の奴こんなになっちゃった…キモちワル。…どうしようコレ?」錫はとりあえず白衣の袖の袂に玉を放り込んだ。
「川手のおじさん…もういいでしょ!?とっても重いのよ…」錫は意識のない川手を両手で押し除け、首をさすりながら上半身を起こした。「…恐かったぁ~」今頃になって恐怖心が襲った錫の目頭に涙が溜まった。あとは龍門の安否が気になる。「パパ…パパ大丈夫!?」急いで倒れていた龍門に駆けよると、両肩を小刻みに揺すった。龍門は唸りながらうっすらと目を開けた。「良かった…生きてた…」
「ん~っ、あぁ…錫かぁ。…やっ、奴はどこだ?」
「大丈夫、やっつけたわよ」
「…そうか、相打ちになったんだった。川手がここに倒れてるということは、どうやら俺の勝ちだったんだな…キキ」
「えっ…!?」錫は持っていた龍門の肩をパッと離すと飛んで退いた。
「はははっ、冗談だ」
「もぅ…冗談になってないわよ!パパ大っキライ…」錫は本気で泣き出した。
「あやや…すまんすまん」龍門は悪ふざけが過ぎたと頭をかいた。そうこうしているうちに川手も意識を取り戻した。
「あっ、先生…憑物は?──あっ、見事に追い払ってくれたのですね!?さすが聖霊師龍門先生だぁ」川手も龍門が退治したと思い込んでいる。
──「ゲーッ!私のお手柄なのに…」錫が二人を不満げに睨んでいると、川手が顔を顰めて額を撫でた。
「それにしても私……なんでこんなにおでこが痛いんだろ?」
──「あ~…川手さんごめんなさい」錫は心の中で舌をペロッと出した。
その後、無造作に転がっていた集鬼鈴と晶晶白露を回収しつつ、錫はその二つの霊具に強い力を感じた──チャクラがまだ開きっぱなしだったからだ。これ以上おかしなモノはご免なので、急いでチャクラを閉じようとしたその時──錫は何気なく龍門を見た。
──「ゲゲッ!パパったら…!?」
★
「おぉ、今しがた悍しい霊力を感じたぞ」
「ようやく動き始めたのかもしれません」
「この機を逃すな。早くこの霊力を追いかけるのだ。絶対に突きとめろ!」
「お任せください醜長様。所詮は人間でございます故」
「おお…頼もしいわい。我らの存続のためぞ」