第二章──憑物
Ⅰ
もし人間の身体に異変があった場合、現代人はそれをまず病気だと考えるのが一般的だ。心身どちらを患ったとしても、すべて医学で解決できるものと考えるに違いない。けれども昔の人たちは病気はもちろん、理屈で説明のつかないものは何かの祟りか憑物と解釈した。その正否をここで論じるつもりはないが、憑物の〝ある〟〝ない〟はまさに人の思うところなのだ。
それはそうとして、憑物は死者の霊が人間に憑依するものと、動植物の霊が人間に憑依するものとが挙げられる。憑物が憑くといっても、イタコさんのように〝憑いてくださ~い〟と、自ら死者の媒介をしてお願いするものもあれば、頼んでもいないのに、勝手に憑かれて迷惑をするストーカーみたいな憑物とがある。こうした類の憑物は、山伏や修験者や祈祷師などにお願いして、祈念祈祷・お祓い、護摩焚きなどで祓い落としてもらう。それからちょっと変わったところだと、〝式神〟なんぞを使役にして呪術をもって憑物を落とす〝安部晴明〟みたいなカッコイイ人もいる。
考えてみれば憑物がすべて悪いものと考えるのも偏見かもしれない。善い性格の憑物や、あるいはおもしろい憑物がいたってよさそうなものだが──。
Ⅱ
「お忙しいところをすみません。龍門先生にお越しいただいて助かりました。先日もお電話でお伝えしたとおり、この家では次々と奇妙なことが起こるものでしてね…。先生このとおりです…なんとかしてください」八波不動産の川手社長は困り果てた顔で龍門に頭を下げた。龍門も軽く川手に頭を下げると、数奇屋造りの古い玄関を潜った。
八波不動産は埼玉県桶山市内にある不動産会社だが、桶山駅からはずいぶん離れた辺鄙な場所にあった。この不動産会社の社長は川手治。年齢五十歳。小柄で気の弱そうな顔つきだ。社長といっても経理をしている妻のほかに社員がいるわけでもなく、実質一人で仕事を営んでいる。腰も低く、いたって真面目な男だ。
「ごらんのとおり、この木造の一軒家は、築四十年のわりには比較的きれいです。理由は分かりませんが、長年住んでいた最初の家の持ち主がこの家を売って出て行ったのが、ちょうど二年前のことでした」川手は龍門に部屋のあちこちを案内しながら説明した。
「暫くして若い夫婦が越して来たのですが、三ヶ月も経たないうちに離婚してしまいました。…あっ、ここが台所です…足元が埃だらけですみません。次に中年の…これも夫婦者がすぐに入居して来たんですが、まもなくして今度は旦那が病気であっさりあの世逝きでさぁ…」川手はそう言いながら最後に二十畳敷きの広い居間に龍門を案内すると、南向きにある窓の雨戸をガタギシと開けた。窓から差し込んだ斜光に部屋中を舞っている埃が映し出されて、思わず龍門は息を止めたくなった。川手はそれには気づかず話を続けた。
「ここが最後の住人が命を絶った部屋です。大量の睡眠薬を飲んで自殺したんですが…遺書は無かったそうですよ。仲の良い家族が四人で引越して来たんで嬉しく思ってたんですがねぇ…。…あっ、先生埃っぽくて申しわけないですが、どうぞお座りくださいな」龍門は白衣に紫の袴を纏った和装だった。家の中をひと回りしただけで、履いていた白い足袋の裏は醤油で煮しめたように黒くなっている。龍門は辺りを見回して、部屋の中で一番きれいそうな場所を探してみたが、どこも同じように汚れていたので、仕方なく今立っている場所に座った。
「旦那も奥さんも感じのいい明るい人でした。中学校の娘さんが二人いましたが、素直なお子たちで、家族の中で深刻な問題を抱えている様子もなかったですよ。それが引っ越し早々奥さんの自殺です。警察でも事件性はないとのことで片づけられました。私としてはただただ驚くばかりで…」川手はなんとかしてほしそうに龍門の目を見た。
「先生…私の見る限り三家族とも、引っ越して来るまで何も問題はなさそうだったのに、越して来て早々にこんなことになってます。最初の若い夫婦は、結婚三年目で、それはそれは仲の良い夫婦でこっちが当てられっぱなしでした。それが越して来て間もなくご主人が家に寄りつかなくなり飲み歩く始末。毎晩待っている奥さんがそれに耐えられなくなったそうです。おかしいのは話し合いなどほとんどなく離婚に至ってることでして…。仲の良い夫婦だったんですから時間をかけて修復しようとしませんか?…どうもそこが腑に落ちないんで…。あの…タバコ吸ってもいいですか?」龍門が黙って頷くと、川手は遠慮がちにタバコに火をつけて、大きく煙を吸い込んでから続きを話しだした。
「次の中年夫婦ですが、それまで健康だった旦那が…年齢はたしかぁ…六十二歳だったかな…いきなり心筋梗塞で亡くなったんです。まあ発作というのはいつ起こるか分かりませんから、いきなりいう私の言い方も変ですがね…。今まで病気知らずの人が何らかの発作で突然亡くなるというのは珍しいことではないですが、これも引っ越してきたばかりだったのでどうも気になりまして…。ちなみに一人残された奥さんは、それからすぐ娘さん家族の所に行かれました」川手は暫く黙って龍門の顔を窺っていた。
「先生、一歩譲って最初の二家族の件がこの時機に起こるべくして起こったとしましょう。たまたま越して来た途端にお互いの嫌なところが目立ちはじめて夫婦関係がこじれた。心臓発作はたまたま引っ越した時が発作の起こるタイミングだった──そう考えたとしましょう…。ところが三件目の自殺の一件はどうでしょう!?遺書などはもちろんありませんし、自殺の理由も全く見当たりません。発作的に自殺したと警察では考えているようですが、私は警察ではこれしか理由付けができないのだと思っています。まさか警察が目に見えない摩訶不思議な力によって自殺しましたとは絶対に言えませんからね…。でもそれまで何事もなく平穏に生活していた人間が、ある日突然なんの理由もなく自殺を図りますか?全くもって考えられません。警察はこの家で起こったことは自殺の件しか知りません。ですからそれぞれ単体で起こったことを総合的に考えられるのは私だけです。そうして先の二つの件も考慮してみると、なおさら腑に落ちないんで…」龍門はまだ黙って聞いている。
「私は理屈で説明できない世界のことを信じています。この度のことで、やはりそういうモノはあると確信しました。この手の話に詳しい友人に相談したところ、興味を持って聞いてくれました。そして教えてくれたのです──その類の話なら絶対の人物がいると…」その言葉に龍門は川手の目を見て唇だけ小さく笑った。「友人は言いました。<聖霊師天登龍門>先生──時に優しく、時に厳しく見えないモノを取り除く不思議な力を持った霊能力者だと…。私はこの家から、もう不幸を出したくないのです。管理者の責任としてこのような事件は胸が痛みます。先生どうか原因の究明と解決をお願いします!」川手は心の内を吐露すると、今度は正座をして龍門に深々と頭を下げた。
「お話は分かりました。やってみましょう」龍門はようやくその口を開いた。川手は安堵したのか肩の力が抜けた。「しかし私の見る限り今回の憑物は少々厄介です。仰るとおり、三家族の件はすべてこの家の憑物が関わっていると思って間違いありません。おそらくは最初に出て行ったこの家の主が〝黒心〟いわゆる〝邪心〟を残していったに違いない」
「はぁ…邪心ですかぁ。いったいどんな邪心なのでしょう?」
「私にもわかりません。ですからあなたが調べてみてください。」
「わ、わたしが…ですか?」川手は身体が宙に浮くほど驚いた。
「そうです。あなたの職業をもってすれば、最初の主がどこに引越して行ったのかを調べるくらい難しくはないでしょう?」
「それはまぁ…そうですが…」川手の額に曇った皺が寄った。
「私としても〝黒心〟の正体を知った上で対決した方がより確実ですから」
「で、ですが先生、私が取り憑かれることなんて…あ、ありませんよね?」
「それはなんとも。私ではなく憑物に聞かれては?」龍門はまるで他人事だ。「とりあえず今日は家の四方に清め塩をまいておきます。これは憑物を追い出すためではなく、このまま憑物をここに留めて力を弱めさせるのが目的です。後日〝黒心〟の正体がわかり次第、その憑物を善に戻す〔神霊界賜尊具〕という特別な道具を持参します。その時が憑物との戦いの時です」
「ありがとうございます!」川手は頭を埃だらけの畳にこすり付けて礼を言った。
「それで先生…無作法なことで申しわけありませんが、お礼は如何ほど?何しろこういうことは初めてなもので相場も何も知らなくて…」
「私は命がけで憑物を祓います。ですから〝如何ほど〟と言われて〝これだけ〟という基準はありません。私が命がけで憑物を祓うのなら、あなたも命がけの額をなされては?お礼とはそういうものです」それだけ言うと龍門は黙って玄関にまわり雪駄に足をとおした。川手は龍門の言葉に感心して頷いていたが、慌てて自分も靴を履き龍門の後に続いた。外に出た龍門は懐から塩を取り出すと、力強い声で『ハァ!』と叫びながら家の四隅に塩をまいた。川手は威圧感のある龍門の一挙一動に釘付けだ。
「この塩は神霊界の中でも上層界の霊力を封じ込めてあります。これだけでもかなり憑物を弱らせる効果はあるはずです。あとは後日決着をつけてやります」
──「凄い!──龍門先生なら憑物を必ず退治してくださるはずだ。憑物との一戦を必ずこの目で見なくては…」川手は龍門にこの度の一件を頼んで良かったと心から思った。