#2 『私とお母さんとアイツ』
マンション特有の少し重厚な玄関の扉を開けば、私の平和な日常は一変する。
いや、もうこれが日常なのかもしれない。
キィィィィ……
扉を開ければ鉄がきしむ音がする。
これが私が一日の最後に聞く平穏の音だ。
「……」
当たり前のように無言で帰宅する。
まっすぐリビングに向かうとお母さんがテーブルに向って頭を抱えていた。
しばらくするとお母さんは私に気が付き、頭を抱えたまま口を開いた。
「そう、帰ったの……亜美、悪いけど、お皿洗い、お願い」
か細く元気のない声でお母さんは私にお願いをした。
それに対して私はコクリとうなずき、キッチンへと向かう。
キッチンで頭を上げればお母さんの居るリビングが見える。この数年間はずっとこの調子だ。
改めて下に目線をやると、キッチンには腐ったおかず、嘔吐の後、生ごみが散乱して悪臭を漂っている。
それを私は一つ一つ処理をする。もちろんお皿洗いも忘れない。
こびりついた生臭い匂いが取れるまで、何度でも何度でも洗剤をスポンジに着けて皿をこする。
3時間ほどかけてやっとキッチンがある程度使える状態になる。
そして私は、このまま夕食作りをする。
だけど、この状態になると決まってあの人が帰ってしまう。
キィィィィ……バタンッ!
私の時とは違う、荒々しい扉の開閉音がその合図だ。
「ったく、旦那が帰って来たって言うのに、奥様は『おかえり』の一言もないんですか。ねえ!?」
廊下で怒鳴る声がもうすでに聞こえてきた。
お母さんは未だにうつむいたまま、何も発しない。
そして、これから私の嫌な日課が始まる。
バンッ!
リビングと廊下を仕切る扉が力強く開けられた。
「ほら、奥様、旦那様が帰りましたよー! 日本語聞こえてます!?」
「……おか、え」
「え、なに? あのさ、話すなら話す。話さないなら話さないできっちりしてくれないと、俺もイライラするんだけど」
「おか、え、りなさい……」
「――はあ。やっとだよ、もう。帰宅してから挨拶が聞こえるまで1分以上! そんなんだからこんなに家の雰囲気が暗いんだろ! なあ!」
「は、はい。そのと……」
「だから、どっちかにしろって言ってるだろ! うちの使えない部下だってもうちょっとマシな声出すぞ」
こうやって、両親の会話が始まる。
これが会話なのか、会話じゃないのか。もう私にはわからない。
だけど、私はこれ以外の両親の会話を見たことがない。
「マジで挨拶ができない家族が明るくなるわけがないからな。明るい家族を目指してるんなら、まずは挨拶がきちんとできるようにしろよ。アミ! お前もだよ!」
「はい、おかえりなさい。オトウサン」
「ったく、そんなんだからいじめられるんだ。もっと明るく言えよ!」
私はうつむき、料理をし始めた。
するとアイツは逆上して、私に怒鳴り始める。
「無視するんじゃねぇよ。返事をしろ返事を! 世の中じゃ何かを言ってもらったら返事をするのが常識だろうが!」
「すみませんでした、オトウサン」
私は料理を始めた。これが私の日課。
アイツの言葉や行動に何も反応せず、夕食を作ること。
今日の料理は何にしようか……
「あ、そうだ。奥様、旦那様はお金が欲しいです。10万」
「で、でも、今月もう……」
「だからさあ、口答えするなって前にも何度も言ったよなあ? お前は! 俺に言われた金額を! ただ! 出せばいいんだよ!」
ひき肉が余っていたからハンバーグでも作ろうか。
あ、でも、玉ねぎを切らしているのを忘れていた。
「じゅ、10万……」
「早くしろってんだよ、日が暮れちまうだろうが!」
「は、はい……今もって……」
「――今すぐ持ってくるんだよ! 早くしろ!」
「はい」
ナスがあったからひき肉とナスの甘辛炒めにしよう。
ご飯と相性いいから、1合くらいぺろりと平らげてしまいそう。
でも、明日の分も残さないと。
「こ、今月はこれしかなくて」
「……はあ!? 9万しかねえじゃねぇか。 どうなってるんだよ、金遣い荒いんじゃねぇのか? 先月から食費を減らせって言ったよなあ?」
「食費をへらしてこれ……」
「ふざけんなよ! こんなに俺が優しく接してるのにお前は恩を仇で返す気なのか!? だからお前は――」
「アンタさあ!」
気が付けば私は、アイツに声を荒げていた。
その瞬間はアイツがお母さんに暴力を上げる数秒前だった。
なんで私は反抗してしまったんだろう。数秒前の自分の行動が理解できなかった。
怖い、怖い、怖い。恐ろしくて、悲しくて、つらくて、痛い。
嫌だ、死にたくない。
「あ? なんだよ、言いたいことがあるなら言えよ! なあ! お前のためにどれだけお金をつぎ込んでやってんのかわかるか? 俺がどれだけ自分を犠牲にしてるかわかってるのか? お前もそうやって俺に口答えをして、俺の機嫌を損ねるようなことをするのか? お前も、母さんも、みんなみんな俺を悪者扱いか? ふざけんなよ……俺がどんな思いでお前を育ててんのかわかってんのか!? わかってねえなら、今からわからせてやる!」
ドン、ドン、ドン、ドン
足音を鳴らし、私がいるキッチンへと向かってくる。
嫌だ、死にたくない。どうして、嫌だ、もう、死に、嫌、だ、助け――
バゴンッ!
「うっ……」
アイツの力強い拳が私の腸や胃を瞬時に圧迫する。
例えられないほど強い痛みが私の全身を走る。
苦しい、ただ苦しく息がしずらくなる。
自然と私の腕は腹部を抑え、膝立ちの体制になる。
そんな私の反応を見て楽しくなったのか。「ははは、あはははははは」と言った高笑いが聞こえてくる。
「何だよその返事ぃ。『うっ……』って、言葉にもならねえのかよ。俺を笑い死にさせる気か? なあ、もっと聞かせてくれよっ」
今度は横腹に蹴りが一発、二発。
さっきの痛みがまだ癒えていない中での蹴りは尋常じゃなく痛かった。
今度は間髪入れずにまだ蹴りが続く。
辛い、苦しい、痛い。
私はそんな言葉を我慢した。我慢して我慢して、耐え続けた。
そうでないと、反応すればもっと過激になってしまう。
それだけは避けたかった。生きるため、生き残るために。
その後も、暴力は続いた。もちろん私だけじゃなくてお母さんにもその矛先は向けられた。
――でも、お父さんは悪役じゃない。
私は何もすることができなかった。
そうしてアイツが体力が半分くらいになると暴力が収まり、「ふう、すっきりした」と言い放ってテレビをつける。
私たちは暴力が終わるのを確認すると料理を始める。
お母さんもこの時は手伝ってくれる。ただリビングの椅子で座っていると何をされるかわからないからだ。
そして私たちは必ず、アイツが飲むビールに顆粒の睡眠薬を入れる。
これを入れ忘れると暴力が終わらないからだ。
そんな生活を毎日送っている。
今日は私が反抗してしまったから暴力を振られてしまった。
けれどいつもならお母さんがずっと暴力を振られている。
私がご飯を作り終わるまでそれが続く。
だから私はご飯を早く作るのが得意だ。
包丁さばきも普通に主婦をやっている方々より早いと思う。
そんなことで褒められても嬉しくないけど。
ご飯ができると父親がテーブルの前で待機する。
そこにお母さんがジョッキに入ったビールを持っていく。
そして白米、おかず、みそ汁を持って行く。
私たちが一緒に食べることは許可されていない。というより、私たちの分は父親が残したおかずになる。
だから、日によっては一切食べれないこともある。
そうしないと、「飯を残すな」という理由で暴力を振られるからだ。
取り分けているだけという理由は通じない。
アイツが食事を終えると、睡眠薬の効果なのか、寝室へと向かう。
これで私たちはやっと解放されるのだ。
お母さんはいつも、疲れてその場に座り込んでしまう。
私もリビングの椅子に座る。
いつ戻るかわからない恐怖にひやひやしながら、少し体を休める。
「こんな生活……もういや」
お母さんの小さな声が聞こえた。
私だっていやだ。ずいぶん時間は立ったが、腹部の痛みは治まらない。
苦しい痛みが胸にまで上がってくる。
こんな生活をもうここ数年、嫌というほど繰り返している。
アイツが良いお父さんだった頃もあったと思うけど、もう思い出すことができない。
あの顔を思い出しただけでも吐き気がする。
そんなことを思いながら私はあいつが食べ残した夕食を二人分に取り分ける。
床に座っていたお母さんもリビングのテーブルに移動して、夕食を待っている。
残ったのは少しのおかずだけだった。白米を持ってきて、二人でそのおかずをつつき合う。
そうして私は痛んだ体を休ませるように就寝する。
もう、こんな生活を送りたくないと思いながら、目を瞑る。
ここまでがいつもの私の一日だ。
そして新しい朝が、絶望の朝が始まる。