前説 其の8
「そう?」
滝沢は、退屈さを隠さない安田をよそに、組んだ手を腿の上に置きながらじっくりと安田を見据える。
「クラスの男子は貴方と伊東君だけだから、ちょっと心配してたのね」
そういう事か。
安田はようやく、真意を理解した。
女性の中に少数の男性。
大方はハーレム状態を想像するのかもしれない。あにはからんや、そのような安易な思想は、経験し難き男子の脳内にのみ存在する幻想境の類でしかないのだ。
女性側から見たそれは、おおむね冷静さと同情に満ちた苦悩の象徴でしか内容で。
女の園。
その言葉の意味する真の姿は、そこに立ち入る事を許されるもの、つまり女性こそが見据える事を許される自嘲の世界。
男には永遠に分かるまい。
いや、分かり合えないのだ。
安田は苦笑した。
その一端を垣間見た者としての証として。
「そこは…それで……」
少し手をもじ付かせながら、
「……努力するしかないっスかね」
ようやくひねり出した一言だった。
「努力?」
滝沢がさらに畳み掛ける。
「俺は…コウみたいに…男前じゃないっスから……」
次の瞬間、滝沢はくくくと押し殺すような笑い声を上げた。
「?」
安田は、一つ一つが理解し得にくい滝沢の行動に、幾分のいらつきを覚えた。
「なんスかっ!?」
「ごめんごめん……顔のことじゃなくてね…」
よほどツボにはまったのだろう。笑い続ける滝沢に安田はすっかり顔をむくれさせていた。
「顔じゃなくて…安田君……仲の良い子は出来たの?」
「仲?まあ……」
とっさにさっきの遠野の顔が浮かぶ。
「遠野とか……話しましたけど」
先ほどの遠野とのやり取りが、安田の顔と姿勢を柔らかく緩ませた。
「遠野さん?へえ…」
滝沢は、笑みの残った顔で、意外そうに目を丸くした。
「吉川さんは?よく話しているみたいだけど」
「あれはちょっとオカしいんっス」
そして、今までの吉川とのやり取りが、安田の顔を曇らせ、即答を促した。
「……まあ、いいわ。その辺がちょっと心配だったから聞いてみただけよ」
その一言が、安田の心に不自然に響いた。
すっかり立ち直った滝沢の目は、普段の温厚そうな中年女性のそれとは違った、安田の何も語らない部分の奥を覗こうとしているような。
鋭さ。
だが、安田にはその視線が意味するものを今一つ理解できずにいた。
滝沢は、メガネを人差し指でくいっと上げ、
「お疲れ様。今度から課題はきちんと出してね」
そして、幕切れの言葉が安田を一気に開放し、刹那の違和感を同時に吹き飛ばした。滝沢が言うと同時に安田は、足元においてあったバッグを拾い上げ、足早に歩き出した。
「あっざーす!」
そんな言葉を挨拶に、教員室を出て行く安田と、それを呆れたように見つめる滝沢。
「………分かってるのかしら」
そんな言葉を零し、滝沢は机の上においてあった書類へと気を向けた。
安田はちょっとした開放感で満ちていた。
陽が傾き、人気の失せたエントランスは節電のために電灯が消され、寂しさで包まれている。
しかし、そんなことはお構いなしとばかりな安田の軽い足音が、がらんとした空気に響いては消えていった。
「おつかれ」
静寂によく通る声が響いた。安田が振り向くと、柔らかい笑みを浮かべた伊東が、そっと缶コーヒーを差し出している。
「おっ!せんっきゅー!」
安田は軽い勢いで、奪い取るように缶を取り、プルタブを開け、中身を一気に飲み干すと実に満ち足りた様に大きく息を吐いた。
「たっきー、怒ってた?」
「別に。ただ、心配された」
「心配?」
外は夕暮れの気持ち良い風が吹いていた。夕焼けと同時に、鳥や虫の声が街の音と混ざって風に流れている。
セピア色に濁った空の下を、二人並んで帰路に着く。
学校からアパートまでは歩いて15分ほどかかった。住宅地の外れに位置する学校から二人のアパートまでは、水田の傍の遊歩道をひたすら歩き、新幹線の高架を潜って、国道近くの住宅街に出るのが最短のルートだった。
安田と伊東は同じアパートに住んでいた。狙ってそうしたわけではなく、たまたまの偶然だったのだが、その事もあって、二人はよく一緒に帰宅をしていた。
「たっきーの言うことは良くわかんねーんだよな」
銜えタバコをしながら、安田がボヤく。その横で、先ほど一緒に買ったコーラをちびりながら笑っている伊東。
「そうかな?」
「そりゃコウはいいよ。男前だし、女子連中ともフツーに喋れるし」
「まあ…俺は……ってか、やっさんも喋ればいいんじゃね?」
さらりと切り返す伊東に、安田は憮然とした表情を見せた。
「出来りゃ、やってるっての。しょうがねーじゃん」
安田はそこで始めて表情を曇らせた。
「……皆、俺のこと怖がってるんじゃね?」
もごもごと含めた様な言い草に、伊東はいよいよ声を出して笑った。
「んだよ!」
安田は憤慨し、肘で伊東の腰を小突く。
「わりわり。でもやっさん、考えすぎだって」
謝りながらも、笑いをやめない伊東。