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前説 其の4

現在、午後3時。


安田尊仁にとっては正に魔の刻だった。


4限目。基礎看護学概論。


看護学校の授業において最もコマ数が多く、内容も幅が広い講義。


実技など、体験できるものならまだ興味も湧こうというものだが、「概論」と銘打ってあるだけに、その内容は看護の歴史から、それらを行う上で必要な物の考え方に至る、実に煩雑で広大な内容を、しかもただ連々と口頭にて講義されるこの空間は、よほど生真面目に興味を持って立ち向かわなければ、到底頭に入ってくるものではない。


ありがたい内容なのだが、瞬時に理解できない。


お経のようなもの。


安田にとっても、基礎看護学だけではなく、座学と名の付くもの全般が頗る苦手で、苦痛が付きまとう代物だった。


ましてや。


教員の目を盗んで何とか遂行しようとしたレポートのまだ3分の1程度しか執筆されておらず、しかも最初は早く終わらせたいと願ったバレーボールも、彼が中学、高校時代に培ったバレーボール部員としての経験と、血と、誇りが、軟弱なプレーを本能の域で拒否し、コート狭しとばかりに、持っているものを全て出し切って活動をしてしまったのだ。


「安田君、すごーい!」


そして、普段なら決して向けられることの無いであろう、黄色い歓声と賛美の視線が、安田の無駄な頑張りに油を注いだ。


ジャンプサーブ、ジャンピングレシーブ、時間差アタックなど、おおよそ看護学校の体育の授業内容と照らし合わせても、過剰としか思えないテクニカルプレーの連発。


終了の合図と共に我に返ったが、そこはもう後の祭り。


大急ぎで着替え、教室でレポートの続きを始めた刹那のヒーローを待っていた見返りは、彼にとって経文とさほど変らない文章の羅列に対抗するだけの体力を削がれ、無防備となった大脳に降り注ぐ恍惚の眠気だった。


いつもなら辺りを気にせず、腕枕に包まれながら、睡眠学習よろしく爆睡を決め込む手段を選んだのだろうが、今日のこの時ばかりは、切迫した事情が彼を更なる苦痛と恍惚へと誘っていた。


「はい、安田くん、居眠りしなーい」


基礎看護学の担当教員で、1年生教務課長芥川亮子は努めて冷静に授業を行っていた。


「授業を受ける気が無いなら退室してくださいね」


こんな事をさも当然の様に言い放ち、私語やしつこい居眠りをして教室を出され、単位をフイにしてしまった生徒は既に幾人か存在した。


当然、授業内容以外のレポートの作成など、言語道断と切って捨てることは目に見えるわけであり、安田はここでも、工作活動よろしく、芥川の目を盗んで作業を隠匿する必要が生じていた。

あにはからんや、そういう疚しい人間に限って挙動不審さが目立つもので、安田から見ても、何気ないように振舞う芥川の視線が常に自分を見張っている事は察して受け取れた。


まどろみと監視の目。


安田は90分の間、殆ど身動きが取れずにいた。


安田は、睡魔の誘いの中で初めて、自分の過去の行いを嘆き、恥じていた。



あの時、グータンヌーボー見なきゃよかったなー。


でも、新垣理沙出てたしなー。


普段なら見ないのになー。



後の祭りと眠気が、脳の中で暴れまわる。舟をこぎ、それを許さんとばかりに芥川に指名を受け、教科書を読み上げる。悪あがきとばかりに、頭の中の内容を元に筆を進めようとするが、一夜漬けどころか、ついさっき晒しとも言うべき内容が、立派な文章として成立するほど頭のスペックが整っている訳も無く。


レポート用紙は殆ど進まず、終業の鐘が鳴った。





午後4時20分。


「終わった…」


皆が帰り私宅をしている最中、安田は燃え尽きたように机に突っ伏していた。


「レポート出来たん?」


伊東が鞄を片手に持ちながら安田を肩を叩いた。


「コウ…お前はいい奴だったなあ…ありがとお…」


頭を擡げることも無く、すっかり覇気に欠けた声を流し垂れる。


「辞めるんかい。まだ40分あるぜ」


「ムリ…俺には…もう無理」


どんよりした空気が伊東にも充分伝わってくる。突っ伏した首を左右に振りながら安田は嘆き節を続けた。


「あと40分で何が出来るってんだ…俺には無理…看護師とか…もう無理…」


自業自得とはいえ、すっかりネガティブ丸出しで沈み込んだ安田を見て、さすがに哀れに思ったのか、伊東は少しはにかみながら、


「ま…どんな形でもとりあえず提出すりゃいいんじゃね?書き直し食らったら、またリミットまでに出せばいいんだし」


そんな僥倖の提案を耳にしたとたん、安田は空気を吹き飛ばす勢いで飛び起きた。


「そっか!とりあえず提出すりゃあ、あくまで『今回』の課題はクリアだもんな!?」


「評価はどうなるかわかんないけどね」


「いいって!いいって!別に進学とか考えてるわけじゃねえし!そうだな…ありがとう!親友!」


安田は今までの落ち込み方が嘘の様に、目を輝かせながら伊東の手を握った。


「まあ…とりあえず、早く書こうや」


苦笑いしながら手を解く伊東。安田は俄然、教科書を広げて用紙にに向かい始めた。


その時。

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