前説 其の3
安田と伊東もまた、そんな場所で勉学に励むことを自ら選んだ男性だった。
何事も初めての経験。
授業で習う事、そしてこの環境。
二人を包み込むのは未知なる空気と…。
校舎の西側にある講堂では、ワックスのかかった床を擦る音がそちこちに響く。
体育の時間。生徒達は自前のジャージに身を包みバレーボールに興じていた。
看護学校における『体育』は、試験も無く、半ばレクリエーション的な要素も強い。とはいえ、単位は発生するので参加は前提となる。各々に身体を動かし、授業を満喫する姿の中、そんな事はそっちのけ、とばかりに、教科書を広げ、黙々と紙にシャーペンを走らせる男が居た。
「なあ、参加しようよ…」
隣に、タオルで汗をぬぐいながらあきれ顔で安田を見る伊東。
「得意だって言ってなかったっけ?バレー」
「今は…それどころじゃ…ねえんだ…」
安田は講堂の隅に蹲り、身体で行為を隠すようにしながら苦悶を続けていた。
『人間の筋肉と骨格に付いてレポート用紙二枚分にまとめて記述せよ』
医学の基本である解剖生理学の授業で出された課題。教科書の内容を如何に理解しているかを判断する意味での課題なのだが、安田の労力はその内容の正確さよりも、いかにしてレポート用紙を文字で埋めるか、という事に注がれていた。
「前の基礎看のレポートも…お目こぼしだったから…次はヤバイんだって…」
「そんなら前もってやっときゃ良かったのに…」
「すっかり…頭に無かった…三島先生の授業、眠たくてさ…」
「教師じゃ、ないからねー…でもあんまり関係なくね?それ」
「あー…あー…」
伊東の正論を受け流しつつ、書いては消し、書いては消しの繰り返し。一応、文章として体裁を繕うだけの善意はあるようだった。
そして、無理な体勢で授業そっちのけの行為を隠す。
中途半端な良心が安田を余計に苦しめていた。
「エリザベスっ!」
突然の頭頂部への強い刺激と共に、安田の屈んだ腰が電撃を浴びたかのように伸びた。
「………!!!」
驚きながら頭を抱え、振り向いた先には、蛍光グリーンのジャージを身に纏い、安田に向かって右手をぴっしり伸ばしながら、空手の型の如く構える吉川の姿があった。
「んだコラ!?」
睨み返す安田に怯むことなく、吉川は構えを解く。
意味不明な掛け声と共に繰り出された、意味不明な攻撃に加え、相変わらず覇気に欠けた吉川の表情を目の当たりにし、安田はさらに苛立ちを募らせる。
女性に向けるにはあまりにも相応しくない安田の形相。しかし吉川は表情を微動だにせず、相変わらずな抑揚の無い口調を飛ばす。
「何してんの?」
「…見てわからねえか?」
「ああ、せんず」「違えよ!こんな所でそんなんするか!?」
「見られて喜ぶタイプなのかな、と」
「無えよ!あと、女がそういう事を言うんじゃねえ」
「千頭駅の話が何か問題でも?」
「どこの駅だよ!そんで何の話題だよ!」
「千頭駅から出てるバスの行き先」
「?」
「寸又峡」
「解って言ってんだろ?っていうか何だそのジャージの色?」
「最新モード」
「嘘つけ。胸んところに思いっきり高校名書いてあっけど」
「ニェュウムァォド」
「変な発音で言い直すな」
「使い古しでいいじゃん。やっさん、わざわざジャージ買ってんの?」
「俺のは昔、部活で買ったんだよ」
「ああ、帰宅部の」
「それこそ、わざわざジャージいらねえだろ!?」
「インハイ出たんだよね?」
「ねえよ!競技内容どんなんだよ!?」
「ダブルス」
「どんな帰宅だよ!?ただ二人で連れ添って帰るだけじゃねえか!」
「『安田!いつか二人でオリンピック出ような』とか話しながら」
「ねえっつーの!オリンピック帰宅競技か!?外国まで行く意味ねえだろ!?」
「ディァヴュルス」
「だからインチキ発音すんなっつーの!」
相変わらずの漫才。すっかり置き去りのはずのコウはただほくそ笑むだけでしかなかった。
「っつーか、今度は何の用だ!?」
「交代」
「ん?」
ふと見ると、講堂の中央に作られたコートの人員が入れ替わってる最中だった。
「たっきーが交代って」
「あー……」
困り顔で額を押さえる安田。追い討ちをかけるように、
「安田くーん!交代しなさーい!」
コートで審判役を勤めていた担任教官、滝沢佳美の乾いた声が安田の背中を押す。
「体育に参加しないなら単位認めないわよー!」
そんな止めの一言に安田は渋々足を向けた。
せっかくのチャンスが消えた。
安田は競技が始まってからも、ボールそっちの気で、時間ばかりを気にしていた。しかし世は無常。30人のクラスを5人のチームに分け、11点先取の2連戦ローテーション。一汗かく程度にはちょうどいいくらいのスケジュールも、安田の悪あがきを阻止するには充分な時間だった。
授業終了と共に、安田は片付けそっちのけで課題を抱え、更衣室へと走り去っていった。