#1-6
「最近の車椅子って電動もあるらしいね」
「らしいな」
「ぼくにはりっくんエンジンがあるから必要ないんだけど」
「ああー、力が抜けて車椅子がオセナイナー」
「ちょっとー! 動いてないよー! エンストかー!?」
車椅子のハンドルを掴む俺の手が、朱里にバシバシ叩かれる。構わず足を止めると、朱里は不機嫌そうにそっぽを向いた。
病院の外は人気が薄い。道路もいくつかの街灯が光っているだけでぼんやりと暗く、小さな店は大抵がシャッターを下ろしていた。車も通らないので、ぽつぽつと点在するコンビニの明かりだけが目立っていた。
「何食べるんだ?」
「ぼくは何でもいいかなー。人の金で食べるご飯はなんでも美味しいし」
「俺が奢ること前提なのかよ……」
「だってぼく今財布持ってないし」
病院で使うパジャマ一枚で出てきてしまっているから何も持ってきてなさそうだなとは思ったが、財布すら持ってきていなかったとは。俺も金を持ってなかったらどうするつもりだったのか。
「知ってたか? 今時の悪いカップルって、女は財布を持ち歩かないらしいぞ」
「マジか。じゃありっくん、ぼくと付き合う?」
「やだよ。財布をわざと家に置いてくるクソ女とは死んでも付き合わないって決めてんだ」
「いけずう」
ぶーぶーと拗ねながら腕を振り回している。朱里なりの抗議のつもりなのだろうが、俺も冗談だと分かっているので適当にあしらう。
「そういえばこないだも『和泉田と卯月って付き合ってんの?』って訊かれたんだが」
「ほう? お姉さんに詳しく聞かせてみなさい?」
俺の方が誕生日が先だから年上のはずだ。
「幼なじみって家族同然って言われるじゃん。俺たちもそんなもんだよなって」
「まあね。お風呂も一緒に」
「入ってねえよ流石に」
そういうわけではなくて、いるのが当たり前の存在で、いなくなることなど一切考えていなかったのだ。
恋人は一緒にいるのが特別な時間だが、家族は一緒にいない方が特別。だから俺は朱里のことを家族のようだと形容するのが正しいと思っている。
……ということは朱里には言わない。照れ臭いのもあるし、調子に乗られるのがめんどくさくもあるからだ。
「こんな可愛い幼なじみとご飯を食べられるんだから、りっくんは幸せ者だね!」
「うるせえブス」
「ひどい!」
がーん、と言う効果音でも立ててそうなくらいに大げさにのけぞった朱里のほっぺを叩いて押さえ、俺は周囲を見渡した。
さて、何を食べようか。
そういえばこないだ朱里ん家に泊まりに行った時に見たバラエティ番組で、ラーメン特集をやっていたのを思い出した。
「ラーメンでいいか?」
「いいよー。アレでしょ? 最近できたあの『やまむら』の」
「そうそう。ほら、ちょうどここらへんの近くだったからな」
俺が指さしたショッピングモール……『やまむら』は、町の商店街のそばにある。服も雑貨もいっぱい売ってある。去年できたばかりで、たまに二人で遊びに行ってはウィンドウショッピングを楽しみ(と言う名目で俺が荷物持ちさせられる)、飯を喰って帰ってくる。
ショッピングモールに着くと、既に少しずつ人がはけていっているところだった。吹き抜けに飾られている建て時計によれば、もう夜の九時と回ろうとしている頃だ。
サラリーマンや主婦や子供が、パジャマで車椅子に乗っている朱里のことを訝しげに眺めながら去っていく。物珍しいのだろう。何にせよ、幼なじみが見世物のようになっているのはあまり良い気分ではなかった。
一方で朱里のほうは特に気にしていないようで、車椅子の上でサイドテールの髪先を呑気に弄っている。俺はさっさとエレベーターに駆け込み、すぐに扉を閉めた。
三階にあるフードコートの隅にある目当てのラーメン屋に、車椅子を押しながら乗り込んだ。
「へいらっしゃい、何にします?」と店員。
「とんこつ大盛、固めで」と俺。
「しょう油! えっと、柔らかめでお願いします!」と朱里。
俺たちは一番奥のテーブル席に座ることにした。元から置いてあった椅子を一つどけて、代わりに朱里の車椅子を滑らせた。向かいに俺も座る。テーブルの高さに対して車椅子は低すぎるようで、朱里が背筋を伸ばしているのが笑える。
しばらく待っていると、先に朱里のラーメンが来た。
「先食ってていいぞ」
「うん」
俺が手渡した割り箸を受け取り、手を合わせる朱里。
「いただきます」
朱里は前髪を左手で払いながら、ふーふー、と息を吹きかける。改めて黙って見てみると、女の子がご飯を食べている姿というのは妙に色っぽい。
「おまっせしましたー」
見とれていると、威勢の良い店員が俺のラーメンも届けに来た。朱里の色姿が、とんこつラーメンの湯気でぼやける。俺も手を合わせた。
ラーメンをすすりながら、
「なあ」
「なーに?」
「…………死ぬのは怖くないか?」
俺はなんとなく……気になっていたことを口にした。
「そりゃ怖いよ。すごく怖い」
「どれくらい?」
「死ぬかもって話聞いた時ちょっとちびった」
「ぶっ」
口からラーメンを噴き出した。
「パンツ湿ってて気持ち悪い」
「なんで履き替えてこなかったんだよ」
「一人じゃ着替えられないし」
「あ……」
間違って歩いてしまわないように紐で縛られた足先。そのせいで一人では下半身の着替えができないのだ。……こいつ、身体固すぎて自力で脚元解けないんだよな。
「りっくんが着替えさせてくれる?」
「嫌だよ。見たらセクハラとか言うんだろ?」
「言わない言わない。ちびったくらい怖かったって証拠見せるためにパンツ見てほしいし」
「見ねえよ! 帰ったらおばさんに着替えさせてもらえよな!」
「へーい、善処しまーす」
「まったく……」
手元に飛び散った麺やチャーシューを紙ナプキンで拭き取る。漫画みたいに食い物を噴き出すことなんて本当にあるものなんだな、と思った。
そんなことを思いながら朱里に目を向けると……朱里の箸が、止まっていた。
「あのね」
少し甘えるような、弱々しい声だった。
「こういうやり取りができなくなるのが、すごく怖い」
「朱里……」
「死ぬのってそういうことでしょ? 今まで当たり前のようにできていたことができなくなるの。脚を動かすことも、ご飯を食べることも、遠くに旅行することも」
視線が遠くに飛んだ儚げな顔で、朱里はレンゲを置き、コップを握って立ち上がろうとした。……もちろん、脚は動かないから転ぶしかない。俺は慌てて腕を引っ張り、傾いた朱里の身体を止めた。
「飲み物すらロクに取れなくなるのも、死ぬってことだもんな」
「……それ、キザっぽくてダサいね」
「お前が先に言い出したんだろうが」
悪気もなくへらへらと笑っている朱里の頭をぺしんと叩いて、右手に持っていたコップをふんだくる。
「座ってろ。俺が注いでくる」
「ありがと」
ウォーターキーパーの前に立ち、ボタンを押してコップに水を注ぐ。こぽこぽという音と共にコップに水が満ちていく。
――飲料水がタダで飲めるのは日本だけだという。インフラの行き届いた国だからこそ蛇口をひねって出てきた水が飲めるのであって、日本人が外国に行くと水が気軽に飲めなくて驚くらしい。
逆も然りで、外国から来た人は、日本人が水を煮沸もせずにごくごく飲んでいるのに違和感を覚えるようだ……という話を、アメリカ帰りの地理の先生が自慢げに話していた。
つまり、水を飲むのは俺たちにとっては当たり前のことなのだ。その当たり前のことすらまともにできなくなった朱里の不安の大きさなんて、俺には想像もつかない。
もしかしたら治るのかもしれないが、あの医者の表情から察するに、絶望的なのだろう。あまり、期待はしていない。
「ほらよ」
俺が乱雑に手渡すやいなや、朱里はといえば飲み会のオッサンもかくやというほど凄まじい勢いで一気飲みをかました後、
「もう一回おねがいします」
「えぇ……」
もう一度水を注いで席に座る。
「ところでさあ」
朱里がラーメンの器に視線を落としながら、
「ラーメンってわざとスープ吸わせて伸ばしたほうが、麺いっぱい食べられてお得じゃない?」
「早く喰え」
俺の麺もデロデロに伸びている。とんこつラーメンというのは麺が細いから、他より麺が伸びるのが早い。
「ねえ」
「なんだ、まだあんのかよ」
俺は水気が多すぎる麺を雑に啜りながら、雑に訊き返した。
「お医者さんが原因不明って言ってたよね」
「ああ。ガンとは似て非なるものがどうとかってな」
朱里は手元でくるくると箸を回した。行儀が悪い。
「ぼくね、なんとなく原因に心当たりがあって」
「なんだ?」
わざとらしく腕を組んでみせると、朱里は回していた箸を落としてから(落とすな)、一言で応えた。
「雨だよ」
「雨?」
首を傾げる。
「ほら、ぼくが動けなくなって病院に行った日、通り雨が降ったでしょ」
「ああ……」
言われてみれば、そうだった。朱里は通り雨が過ぎた後に膝をついていて、動けなくなっていたのだ。だからタクシーに乗ってきた。
「入院してからかな。雨が降るたびに、身体が固くなっていく感じがする」
朱里は太ももをぺちぺちと叩いた。俺はレンゲでスープを一口啜り、口をナプキンで拭ってから訊き返す。
「それ、医者に言った方がいいんじゃないのか?」
「ううん、いい。めんどくさい」
「めんどくさいって……」
仮にも命に関わることなのに、めんどくさがることではないだろう。
「だってさ、雨のせいだってバレたらさ。ぼく、アフリカに行くかもしれないよ?」
「雨が降らないからか?」
「そう」
アフリカといっても雨が降らないのは砂漠地帯くらいのものだが。
「アフリカに行ったら今度は暑くて死んじゃうよ」
「お前、アフリカの人に謝れよ」
「はいはい、ごめんなさいでしたー」
悪気もなさそうにひらひらと手を振っている。今謝ってどうすんだ。
「だって、りっくんと離れることになるから――」
その時だった。
ガチャンガチャンガチャン!
朱里が何かを言っているが、それを遮るように、キッチンから派手な音が聞こえた。ガラスのコップがラックごと落ちて派手に割れたらしい。
「うわあ……盛大にぶちまけたな」
店員がホウキやらチリトリやらを持ってバタバタと駆けつけているのが客席からでも見える。
とはいえ、この店の従業員でもなんでもない俺は、口先では同情してみせつつも、その実コップに入った水を呑気に飲んでいた。もちろん俺の手にあるコップは割れていない。
……他人事なんてそんなもんだ。
「で、何か言ったか?」
「……ううん、なんでもない」
朱里はぶんぶんと首を振った。
静寂。
幼なじみというのは妙なもので、慣れない相手だったら遠慮するようなことでもどんどん口にしてしまう。
宿題が多くて嫌になるだとか、今日は腹が痛くて落ち着かないだとか、どうでもいいことすら、何も考えずに話題にあげる。この話だとつまらないかもとか、相手が傷つくかもとか、そういう配慮が存在しないのだ。
だからだろうか。朱里と二人で黙りこけてるのが妙に落ち着かない。いつも喋ってるから、喋っていない時間というものが苦痛だと感じる。
黙ったままが嫌だった俺は、最後に残ったチャーシューをちびちび食べている朱里に向かって、やはり何も考えずに口にした。
「雨が降るたびに身体が悪くなっていくなんて、変な病気だよな」
朱里は特に気にしていない風に顔を上げて口を開き、
「そう? ロマンチックで良いと思うけど」
「ロマンチックなのか?」
「だってぼくが死ぬ時って、雨が降ってる時でしょ?」
箸先をびしっと俺の顔元に突き出した。やめろ、行儀が悪い。
「でもお前、さっき死ぬのは怖いって」
「そりゃ怖いよ。でもさ、エレベーターに閉じ込められて死ぬとか、トイレで溺れて死ぬとかより数倍マシじゃん」
「そりゃそうだけどさ……」
なんとなく言いたい事は分かるが、死ぬこと自体が怖いと思っている俺には、朱里が浮かべている笑顔は……本物であれ偽物であれ……理解できなかった。
朱里は強い女の子でもなんでもない。前にも言った。ちょっとはた迷惑なだけの、ただの女の子だ。
なんでそんなに、笑っていられるのだろう。
「ね、りっくん」
「なんだよ」
唐突に朱里が手を止め、かしこまったように俺の目の奥をすっと見つめ込んだ。
「お願いがあるんだけど」
朱里は言う。熱いラーメンを勢いよく啜っていたからか、朱里の頬から一筋の汗が滑り落ちた。それが実は涙だったのか、やっぱり汗だったのかは、今となっては確かめる術はない。
朱里は言った。その、雨の一滴のような雫が机に落ちたことすら気にも留めずに、自分のやりたいことを正直に伝える、いつも通りの朱里の言葉で。
「てるてるぼうず、作らない?」
これが、俺たちの最後の遊びの、始まりだった。




