#4-10
作戦は開始された。
俺は窓から八○三号室を出て、空き部屋から廊下に戻る。そのまま休憩室へと、足音を立てないように走った。
休憩室には誰もいなかった。好都合だ。今からしでかす悪行を別の誰かに見られでもしたら、計画がお釈迦になるところだった。
さすがに、緊急呼び出しのボタンを押すことに躊躇いはあった。でも、ここまで来ておいて、朱里の気持ちを無下にはしたくない。俺は覚悟を決めて、赤いボタンを押した。
ピリリリリ!
目立つ音が鳴る。いくら緊急用とはいえうるさいものだ。俺は慌てて部屋を飛び出し、近くの男子トイレに隠れた。いくつかの足音が聞こえる。上手いこと、誘導できているみたいだった。トイレから出てこっそり様子を窺うと、警備員の他に、数名の看護師さんが熱心に休憩室中を探し回っているのが見える。この間お婆さんが急死したから敏感になっているのだろう。その中には俺が受付でお世話になった看護師さんもいた。心を痛めつつも、俺は廊下へと飛び出す。
廊下に朱里の姿はない。なおも警戒しながら近くの階段で一度七階へと降り、非常階段を使って再び八階へと戻ってくる。階段を登り切ったあたりで、朱里は待っていた。
「がんばったな」
「へへ」
ほんの少し車椅子を押しただけで疲れ切って肩で息をするその姿に痛ましさを覚えたが、それでも朱里ははにかみ、Vサインを俺に向けてきた。
「じゃあ、ここからは俺が頑張る番だな」
少し考えて、先に車椅子を下の階に降ろし、それから朱里を運ぶことにした。朱里はもう自力で座ることすらできないので、車椅子から降ろして、床に寝かせる。
「乙女を地べたに寝かせるなんて、りっくんてば鬼だね」
「鬼でも悪魔でもなんでもいいから、少し我慢しろ」
「へーい」
寝転がったままで右手だけを挙げてみせた朱里を尻目に、俺は無人の車椅子を抱え上げる。誰も乗っていないと随分軽いものだ。抱えながら階段を降りるくらいは造作もなかった。
七階側の踊り場に車椅子を置き、すぐに八階に引き返す。そして朱里を抱えた。
「ふふ、またお姫様抱っこだ」
朱里は本当にうれしそうに微笑む。
「こんなに手間がかかるあたりがまさしくお姫様って感じだよな」
「そうでしょお?」
嫌味にすら純粋な笑顔で返すこいつは、きっとよほど機嫌が良いかよほど馬鹿かのどっちかだろう、と階段を降りながら思った。
「着いたぞ」
「うむ、くるしゅうない」
なぜか偉そうな朱里を、運んであった車椅子に座らせる。倒れないようにシートベルトも付けてやった。
非常階段と廊下を分かつドアをそっと開ける。光がゆっくりと差し込んできた。
八階と同じ建物とは思えないほど人が行きかっていた。事前調査の通り、この時間の七階は物品搬入なんかで忙しいようだ。運が良いことに、一般人も多数いた。ちょうど今日最後の面会時間と重なっていたらしい。
「これならいけるね」
車椅子の上の朱里がそう言った。
「さっさと行くから、静かにしてろよ」
俺は七階に突入し、素知らぬ顔で車椅子を押す。
通行人のうち何人かはちらちらと朱里のほうを眺めていたが、すぐに興味を失い、視線を元に戻す。何の苦労もなく渡り廊下を超え、一般病棟に辿り着いた。
「スパイみたいだね」
「映画みたいなことをやってる自覚はある」
「映画俳優、目指してみようかな」
「自惚れんな」
そうツッコむと、朱里は小さく笑った。
俺はエレベーターのボタンを押した。誰も乗っていないエレベーターは、とても静かだ。ただ、特別病棟のものと違って少し揺れる。一階へと落ちていく感覚と、脱走をしているという背徳感が合わさり、子供みたいにわくわくした。
エレベーターを降り、そのまま真っ直ぐ出口へと向かう。一般病棟側の出口には受付のおっさんが一人座っているだけで、軽い会釈ですぐに通してくれた。
外は、満月だった。
「わあ……」
朱里は感嘆の声をあげる。
「きれい……」
「そうだな」
月の光に触れるがごとく、朱里は天に手を伸ばしていた。俺はそれを見守る。ここのところずっと病室暮らしだった朱里にとって、外の景色は新鮮だろう。
そしてこれが、最後になるだろう。
「これからどうする?」
朱里が訊いてきた。
「そうだな……」
考える。すぐに遠出してもいいのだが、俺も朱里も少し疲れているうえ、夜も遅くなってきている。一度、どこかで休みたいと思った。俺は自宅に帰ろうと考えたが……ダメだ。朱里の両親と鉢合わせる可能性がある。他の、朱里の理解者のところに行かなければ……。
「青葉姉のところに行こう」
俺はそう提案した。
青葉姉のいる商店街方面なら、朱里の両親と出くわすことはない。俺にはそんな根拠のない確信があった。きっと、邪魔されない。
俺はLINEで青葉姉に連絡を送る。
『今、朱里と一緒に病院を脱走してる。匿ってくれ』
『いいわよ』
秒で返事がきた。
「いいらしいぞ」
「わ、早いね」
俺もそう思う。まるで連絡を飛ばすのを分かっていたかのような速度だった。
「看護師さんが追ってくるかもしれない。さっさと移動しよう」
「うん」
車椅子の轍が、道路に響いた。
◇
訪れた商店街は、相変わらずシャッターだらけだった。客が来なくてすぐに閉めてしまうからだ。そんな中、青葉姉が経営する服屋だけが、商店街の道路に明かりをこぼしていた。
「いらっしゃい。来たわね、朱里ちゃんに陸ちゃん」
出迎えてくれた青葉姉もまた、いつも通りの笑顔だった。相変わらずモデルみたいなすらりとした立ち方と、いかにもババくさい紫色のエプロンが妙にミスマッチだった。
それから青葉姉はすすっと俺の方まで寄ってから、
「予言、当たったでしょ?」
少し悔しかった。
「予言?」
話を知らない朱里が、当然のように首を傾げている。
「こっちの話」
青葉姉はそう答え、ヘラヘラと笑うだけだった。朱里が無言で睨みつけてくるが、本当に大したことないと説明すると、しぶしぶ引き下がった。
俺は事情を青葉姉に説明する。朱里の病気が末期であることや、病院から脱走してきたこと、これから北海道へ向かって片道旅行をすることなど……。その全てに青葉姉は頷いたが、驚きの表情は一切見せなかった。まるで、全てを知っていたかのように。
全てを聞き終えた青葉姉は、思ってもいないくせに「びっくりだわー」なんて感想を立てた後、俺と朱里の顔を見比べながら言った。
「二人に合わせたい人がいるのよ」
「合わせたい人?」
店の奥に案内される。こんな夜更けに、俺たちのことを訪ねに来た人って誰なんだろう。そう呑気に首を傾げていた俺たちに待ち受けていたのは、非情な現実だった。
「あっ……」
朱里が息を漏らす。
おじさんとおばさん――朱里の両親だった。




