#4-7
「あ、不束者ですがって言った方がいいのかな?」
「そりゃ結婚して夫婦になった時のうたい文句なんじゃないのか?」
「結婚かあ。さすがに付き合って二ヶ月で結婚は早すぎるね」
俺は頷きながら笑った。金も無ければ時間もない。いくらなんでも、俺がタキシードを着て朱里がウェディングドレスを着てるところなんて想像できない。
「しかも結婚してすぐ離婚だからな」
「死んだら離婚扱いなの?」
「さあ」
離婚のことなんか興味無いから、そんなことなど何も知らない。
「大体、りっくんはまだ十七歳だから結婚できないじゃん」
「お前はできるけどな」
男は十八歳、女は十六歳から結婚できるというが、その男女間の二年の差はなんなんだろう、とどうでもいいことを考えていた。
「じゃあさ、結婚できない代わりにさ」
朱里は真っすぐな眼差しで、
「キスしてよ」
そんなことを言った。
「早くないか?」
「あと二ヶ月で死ぬからさ、巻きで行かないと」
巻きってなんだよ。俺はため息交じりに苦笑する。
「間接キスなら、いくらでもしただろ?」
「直接は、まだだよ」
はっきりと言ってのける。俺はテンパりすぎて、今まで何かうっかりの事故で直接キスしたことはなかっただろうか、なんてことを思っていた。
「……してくれないの?」
そんな俺にしびれを切らしたのか、朱里は上目遣いでそう言った。ひどく甘えた声だった。耳の奥がくすぐられるような、そんな感じだった。
「……すればいいんだろ」
観念して、俺は言った。俺は心の準備が出来ていないってのに、朱里は好奇心と幸福感で微笑んでいるのがなんだか悔しい。
「さ、はやく」
朱里はそっと目を瞑り、
「んー」
唇を突き出している。
正直、美少女顔が台無しになるくらいブサイクだった。
でも、あくまでも本人は本気で、必死で。
それで、本当にこのキスが初めてなんだろうなと、確信した。その事に対して、どうしようもないほどの優越感が湧き出してくる。あの唇は誰も触れたことのない、俺だけのものだ。気分の高揚が抑えられない。
――ただ、俺だってキスは初めてだ。
歯って当たらないのか? 目って俺も瞑るものなのか? 顔は傾けたほうが良いのか? 何か声かけたほうがいいのか? 抱きしめたほうが良いのか? 抱きしめるならどこを? 首? 肩? 腰?
朱里の口がぷるぷると震えるのが分かった。待ちすぎて苦しくなってきたのだろう。
ええい、ままだ。
あと二ヶ月で朱里は死ぬけど、今、キスに失敗したからってすぐに死ぬわけじゃない。半ばヤケクソ気味に、俺は自分の唇を朱里のそれに押し付けた。
柔らかい感触。
初めてのキスはレモンの味なんて言うが、別にレモンって感じではなかった。強いて言えば、ほんのわずかにミントを感じる。多分、朱里が歯を磨いた直後だったのだろう。味とかそういうのよりも、こんなに密着した状態で、朱里の体温が直接流れ込んでくるような感覚のほうが、新鮮な感じがした。
口づけしていた時間はどれくらいだったのだろう。
たったの五秒くらいにも感じたし、三分くらいだったようにも思えた。
脳がどろりと溶けるような感覚。身体が急に火照り、にじむ汗が襟元を濡らす。やがて俺と朱里が唇を離すと、冷たい空気が肺一杯に流れ込んでくる。それでも身体の熱は冷めることはなく、首裏にじんわりと汗が伝うのを感じた。
「へへ」
朱里は、歯を見せてにかっと笑ってみせた。俺は赤くなっているであろう顔を見られたくなくて俯く。けれど、嬉しかった。幸せが何もかもを忘れさせてくれる気がした。
素直になってしまえば、こんなに簡単なことだったなんて。
今ならなんだってできる。そんな確信が俺にはあった。
朱里の為なら、なんだってしてやる。
そんな俺たちを待っていたのは。
――茨の道だった。
◇
翌日。
浮かれた顔で病院の八○三号室に行くと、ドアの前でおじさんとおばさんに止められた。
「……朱里に、もう会わないでほしい」
そして突然、おじさんに言われた。
「どうしてですか?」
当然、俺は訊き返す。出会い頭に妨害されて、もう来んななんて言われたら、たとえ幼なじみの……彼女の両親とはいえ、黙って頷くわけにはいかない。
「……今朝、朱里に言われたよ。陸人くんと一緒にいたいから、引っ越しは嫌だと」
朱里がそんなことを言っていたらしい。
「……君がいると、朱里が長生きするのを諦める」
おじさんの眉間に皴が増える。俺と朱里はいつもそうやって、おじさんの機嫌を窺っていた。そして今は、とても機嫌が悪いのだということが分かった。
「そこまでして、朱里を縛りたいんですか?」
俺はムキになっていた。気が付いたら、おじさんとおばさんに詰め寄っていた。それでも二人は一歩も退くことなく、まっすぐに俺を睨みつけている。
「親の願いだからよ」
おばさんが言った。
「娘に長生きしてほしいって思うことの、何が悪いの?」
そこに後ろめたさは無かった。両者、一歩も退かず。俺は納得が出来なかった。
この場での話し合いは無駄なのだと察した。
「そうですか」
俺はおじさんとおばさんに背を向けた。
「分かりました」
そして、その場を去る。
会うなって言われても、無理な話だ。
……朱里のことが好きだから。
◇
翌日の夜、俺はいつも通り、特別病棟を訪れていた。アポは取っていない。一応、朱里本人にはLINEで『行く』とは送っているが。本来俺は、面会お断りの立場だ。
つまり、無断の面会である。
朱里本人が拒否しないなら大丈夫だろう。俺は人が少なくなる八時過ぎを狙って人目を盗み、八○三号室に忍び込む。あまり長居するとバレるから、毎回三十分だけの顔合わせだ。俺が来るたびに朱里はあっと驚くが、すぐに笑顔を取り戻して出迎えてくれた。
「また、悪くなったのか?」
朱里の腕に刺さっている点滴の本数が増えたのを見て、俺は訊いた。
「もう、かなりヤバいんだってさ。車椅子に座るのも辛いよ」
「そうか」
相槌を打ち、棚を開ける。俺はもはや、何も言わずにてるてるぼうずの材料を準備するようになっていた。そのことに対し、朱里は俺を冷やかすようなことはしない。いつものように、こういうものを作りたい、と言うだけだった。
「てるてるぼうず、いっぱい作ったけどさ」
朱里は手際良くてるてるぼうずの首を縛りながら、
「あんまり効かなかったね」
そう言って、完成したてるてるぼうずの頭を撫でた。残念なことに、今年は比較雨が多い年らしい。見込みでは二ヶ月と言われた余命も、もう少し短くなるかもしれない、ということを、朱里はまるで雑談をするようなノリで言った。
「でも、天気が晴れなくてもいいんだ。ちゃんと晴れてるものもあるでしょ?」
「なんだよ、それ」
「ふふ、それはね」
朱里はペロ、と舌を出して、
「りっくんの心」
にっこりと笑った。それこそ、太陽のような笑みだった。
「意味わかんねえよ」
「なんだよー、せっかく気持ちを盛り上げようとしてるんだからさ」
朱里はぷくー、と頬を膨らませて、
「ぎゅっとしてくれても、いいんだよ」
「……ああ」
俺は朱里を抱きしめる。柔らかい匂いがした。腕についた点滴が外れないように、なんて思ってたら、逆に朱里に抱きしめられるような形になってしまった。
「お前、胸でかいから心臓の音が届かないな」
「えっち」
「嘘ついた。ちゃんと聞こえる」
「生きてるよね」
「ああ」
はっきりと聞こえる。心臓の音が。少し弱々しく感じるが、一定のリズムで、ゆっくりだけど、確実に。それは、朱里が確かに俺の目の前で生きているしるしだった。
「ぼくはりっくんと一緒に、生きている」
「……そうだな。一緒に、生きてる」
頷き、強く抱きしめる。暖かくて、心地よくて、眠ってしまいそうな感覚。体いっぱいに、幸せを感じた。
「この空間が、永遠だったら良かったのに」。
その日、てるてるぼうずの頭に詰める紙に書いた願いだ。




