#3-1
幼なじみが、苦しそうだった。
「あ、ああ、ああああああああ……!」
足を押さえて、ベッドの上でじたばたと苦しんでいる。今まで痛むことはなかったはずなのに、突然のこの悲鳴。病気が悪化していることの証左であった。
鎮痛剤はさっき飲んだらしい。もうすぐ効きだすとのことだが、それはまだ効いていないということでもあり、朱里が苦しそうに歯を食いしばる姿を、俺はただ眺めていることしかできなかった。
――今日の昼頃、俺が高校の食堂で飯を喰っていると、突然雨が降ってきた。「雨が降ると身体が悪くなる」と朱里に告白されてから、初めての雨だった。
嫌な予感がした。
昔、母親が、「あんたが交通事故に遭った日、背中がぞわぞわってして、真っ昼間なのに寒気までしたんだよ。あれが虫の知らせってやつなのかねえ」みたいなことを言っていた。まさにそんな感じだった。じゃあ、これが虫の知らせ、というヤツなのかと思って、病院に行くことにした。クラスメイトで一番うるさい奴に、「今日早退するから」とだけ言い残し、バッグをロッカーから引きずり出して高校を飛び出した。
傘を忘れたせいでびしょ濡れのまま、病室に飛び込んだ時。
――案の定、朱里は苦しんでいた。
朱里の担当医によれば、鎮痛剤は三十分くらいで効果が出始めるとのことだ。朱里の両親にも連絡済みらしく、二人とも仕事を抜けてこちらに向かう、ということだった。
「う、ううううううううう……」
朱里は痛みによって固く目を瞑っており、俺が来たことにすら気づいていない。ベッドで苦悶する朱里、すぐそばで真剣な面持ちで監視している医者、そこから少し離れて、来客用の椅子に座っている俺。外ではざあざあと大きな音を立てて雨が降っている。
俺はなんとなく、怖くなった。
名前すらついていないような、よく分からない病気になっても、朱里は元気だった。いや、体調がという意味ではなく、精神的に元気だった。足が動かなくなろうが、戸惑う俺を連れ回して、てるてるぼうずの材料集めに付き合わせた。あのパワフルさがあったからこそ、俺は、朱里が不治の病だという非情な現実から目を背けていられたのだ。
だが、今目の前にいる朱里は、そんな力強さなんて欠片も感じられない。
苦痛に歪んだ顔。涙だけじゃなくて鼻水まで垂らして、朱里は悶えている。こんなに弱そうな朱里なんて、もしかしたら、初めて見たかもしれない。
「朱里……」
また、偉そうに喋りかけてほしかったからだろうか。
俺は特にこれといった意味もなく、朱里の名前を呼んでいた。
「はあ、はあ……はあ……」
少しずつ、朱里の苦しそうな顔が緩んでいく。ようやく鎮痛剤が効いてきたのだろう。即効性の薬があればいいのにとも思ったが、飲んだ瞬間効き目があるような薬というのも、それはそれでヤバい気がする。
ようやく激痛から解放された朱里の目が、ゆっくりと開く。
その双眸は、すぐ傍にいた医者ではなく、壁際にいた俺のことを捉えていた。
「よう」
手を挙げると、朱里はまだ涙目のまま微笑んで、手を振り返した。
それからは何やらいろいろと医者に訊かれていた。どんな痛みがしていたかとか、いつから痛み始めたかとか、色々。俺はその間に、受付で借りたタオルで濡れた身体を拭いていた。
医者が一通り聞き終わって立ち去ったあと、朱里がたははと笑いながら、
「いやあ、やられましたねえ」
呑気にそんなことを言っていた。
「お前……大丈夫なのか?」
「鎮痛剤いくつか貰ったから、これからは急に雨が降ってきても大丈夫だよ」
「そういう意味じゃなくてな」
俺は来客用の椅子を朱里のほうに寄せて、
「雨の日に悪くなるってバレたんじゃないのか」
「うーん、そろそろヤバいかもねえ」
言いながら、朱里はちら、と窓の方を見る。つられて俺もそちらの方に目線をやると、窓ガラスの外では、相変わらず雨が降っていた。
「ま、でも大丈夫でしょ。平気平気」
「根拠は?」
「なんとなく」
そんなアバウトな。
「一応、そう思う理由はあるんだけどね」
もっともらしく、朱里が腕を組んだ。俺はその理由を訊いてみる。
朱里は少し溜めてから、
「自分でもよく分からないのに、お医者さんにわかるわけない」
そう、力強く、断言した。
朱里にしては珍しく、失望のこもった声だった。
能天気であまり何かに敵意を向けることのない朱里だったが、そうか。
朱里だって、現代医学で治らない病気への理不尽さに怒りを覚えることくらい、あって当たり前のはずだ。
「医者のこと、信用してないんだな」
「そうだよ。ぼくだって誰もかれも信じてるわけじゃない」
眼には力が込められている。誰とでも仲良くなれる、人当たりの好い朱里。しかし朱里にも、信じられない何かがあるという、強い意志を感じた。
「ぼくが信用してるのは……」
言いかけて、
…………ぐうううううううううう。
腹が鳴った。
俺ではない。俺はむしろ昼に学食を食べているから満腹だ。とんかつ定食大盛は帰宅部には重かった。
つまり今のは朱里の腹の音なわけだが、
「お前、まーた腹空かせてんのか」
なんというかこいつは、腹の音で話を切るのが好きらしい。
「だって、食事制限でおやつ食べられないんだもん」
腹を擦りながら、朱里は「あー」なんて見上げながら嘆いた。
「いいじゃんか。痩せるぞ」
「おっぱいもしぼむよ?」
「それは困る」
「スケベ」
軽蔑の視線。俺が巨乳派であることも、一昨年部屋に隠していた秘蔵のエロ本を朱里に発見されて以来、開き直って隠すことなくオープンにすることにした。……巨乳もののエロ本が見つかった日、朱里がやたらに上機嫌なのが薄気味悪かった記憶がある。
「別に俺は、お前のことを性的な目で見てないから安心しろ」
俺は朱里の胸をガン見しながら断言した。
「胸を見ながら言われても説得力がないんだけどなあ」
朱里は両腕でその大きな胸を隠しながらぼやく。
幼なじみが家族のようなものなら、幼なじみの身体を見るのも姉や妹の裸を見るようなものだから大したことはない、はず。付き合っているなら、話は別だけど。
「しかし、食事制限も大変だな」
「まあ、好き勝手に食べられないのは面倒だね」
身体に悪いモノ代表みたいな脂っこい食べ物は食べてはいけないらしい。こないだ食ったようなラーメンはもちろんアウトで、大半のお菓子も油を使っているから良くないんだとか。だったら何が許可されているのかと言うと、おかゆとかりんごとかの消化の良いものに集中するようだ。絶対味気ない。
「こう言っちゃ悪いけど、病院食って本当にマズいんだね」
「薄いんだっけ?」
「そう!」
朱里はベッドに取り付けられた簡易テーブルをばん、と叩いて、
「砂糖もコショウも全然入ってない!」
グルメ漫画に出てくる料理の達人みたいな言い方だった。
「ご飯をおいしくする秘訣は愛情だなんて言うけどね! まずは調味料! 作る相手の好み通りの分量で味付けするから、愛情のある料理はおいしいんだよ!」
朱里は熱弁する。もともと料理は上手いやつだから、料理に関しては思うことがあるのだろう。
「りっくんは甘いのダメでしょ?」
頷く。砂糖がでろでろに入った煮付けなんかはどうにも苦手だ。
「だからぼく、卵焼きとかも塩コショウ多めで作ってたんだよ」
「そうなのか?」
言われてみれば、朱里の卵料理はどれも甘くない。大体コショウやダシできちんと味を締めたものが出てくる。
「ねえりっくん、ぼくのご飯作ってよ」
「無理だ」
俺は料理ができない。どれくらい下手かと言うと、料理するたびにフライパンや鍋がダメになるくらい下手。当然、幼なじみである朱里も把握済みだ。だからこそ、朱里がうちにまできて毎朝料理を作っていた。
「大体、ぼくが料理してないけど、家では何を食べてるわけ?」
「カ、カップ麺……?」
おそるおそる答える。
「だめーっ!」
案の定怒られた。
「栄養が偏るでしょ! ちゃんと献立を組んでちゃんと食べなきゃ!」
「おかんかお前は」
たじろぐ俺に、朱里はなおさら母親みたいな、柔らかい表情を浮かべながら、
「ぼくがいないとダメなんだから」
さっきまで怒ってたくせに、少しうれしそうな声だった。
朱里のいる朝の家の風景が、ふっと頭に蘇る。淡々と続くニュース、朝飯の良い匂い。そこに朱里が笑顔で座っている空間を、俺は思いだしていた。
「退院、できるのか?」
なんとなく訊いてみた。
「できたらいいね」
相変わらず前向きな朱里だった。
ただ……その他人事みたいな希望的観測は、退院の話なんてこれっぽっちもあがってない証拠なのだろうと俺は理解した。