#2-5
野良犬はこちらを舐めているのか、それともどこかに案内したいのか……たまに止まってこちらを振り向いては、また駆けていく。
俺はそれを必死に追いかける。犬の足に追いつくのなんて生身でも辛いのに、朱里が乗った車椅子を押しながらだから、ハードなんてもんじゃない。端から見たらさぞ異様な光景だろう。病人が乗った車椅子が歩道を爆走しているのだから。実際、すれ違ったおばさんが、ぎょっと驚いてスーパーの袋を落としていた。
犬はぐいぐいと歩を進めていく。最初は住宅街を駆け巡るだけだったのだが、やがて公道を外れ……小山の中に入っていった。
陽が落ちていく。そして街灯もない、こんなところでは光がロクになく、犬を視認するどころか足元を確かめることすらもおぼつかない。
「朱里! ライト!」
俺は咄嗟に叫んだ。
「任せてっ!」
朱里はポーチからスマホを取り出し、カメラのライト機能で正面を照らした。真っ暗だった空間に、人工的な光が射す。犬が走り去っていくのが見えた。そして――
――その先が見えてしまって、俺は思わず足を止めてしまった。
長大な、石畳の上り坂だった。
「なあ……朱里……」
「なーに?」
「これ、登らないとだめか?」
「もち」
朱里のサイドテールが揺れた。
もう、こいつを置いて行ってやろうか……。
一瞬そんな考えが脳裏をよぎったが、こいつをこんなところに置いていったら、何をしでかすか分からない。
ただでさえ取扱注意の爆弾みたいなやつだ。よそ見している間に、枝を集めてバーベキューを始めるかもしれないし、木と木の間にハンモックを作って眠りだすかもしれない。いや、足が動かないんだからそんなアクティブな真似ができないのは分かっているが、この夜の山の中に、朱里を一人放置することが、色んな意味で怖かった。
俺はこの坂を登る地獄か、朱里と言う猛獣を放し飼いにする地獄か。その二択を迫られた結果、割と悩むことなく、前者を選ぶことにした。
「んぎぎぎぎぎぎぎ!!」
「りっくん、ファイトーっ!」
「ファイト―! じゃ、ねえ、よ……っ!」
自転車で上り坂を漕ぎ倒すようなものだ。いや、それよりもっと厳しいかもしれない。車椅子にはペダルなんて便利なものはなく、自分の足で、まるで体当たりするように押し込みながら、ゆっくりと坂を登っていく。階段でなかったことは不幸中の幸いだと自分に言い聞かせつつ、足を踏ん張る。
暗闇のせいで、いつどこが頂上なのかも分からない上り坂を駆け上がっている。どうして俺はこんなことをしているんだろう、と弱気になるたびに後ろに転びそうになるので、だんだん何も考えなくなった。
「負けるなー! がんばれー! ファイト―! おーっ!」
応援してくれているのは分かるのだが、朱里が動くたびに重心がブレて倒れそうになるからやめてほしい。
たぶん、少しずつ頂上に近づいている。朱里が照らす明かりの先がどうなっているかは分からないが、そんな感じがする。空気が少しずつ冷たくなっていくのを肌で受けて、そんな予感を胸に……
頂上に、着いた。
「ぜえ……ぜえ……」
こんなに息を荒らしたのはいつぶりだろう。足はぱんぱんに腫れあがったような痛みがあるし、肩から空気が出入りしているんじゃないかってくらい呼吸は乱れている。
もう、陽は完全に沈んでしまっている。十月に入り、八時を回れば辺りは真っ暗だ。そんな時間に辿り着いたそこを、朱里がスマホのライトで照らす。
神社だった。
敷地のど真ん中に座りこんだ野良犬は――興味を失ったのか――鈴を地面に落とし、舌を出して息を吐いている。俺はそれを素早く拾い上げ、朱里に投げてよこした。
「べっちょりしてるう……」
当然、犬の唾液まみれではあるが。
朱里が鈴を回収したのを確認するかのように犬は一吠えしたかと思うと、脇道の木々の中に消えていった。
「やっぱり、案内されたんじゃないか?」
「どうだろうね」
犬の気持ちなんてわかんないよ、と朱里は苦笑いした。
俺は深呼吸しながら、周囲の風景を正視する。
小さな神社。
山の頂上にあるせいか、風が冷たい。その冷たい風が、俺と朱里の間を渦巻いて吹き抜けていく。なんだか、神聖な感じがした。
当然、参拝客などいない。時間が時間だ。平日のこんな夜遅くに、わざわざお祈りしにくる人間なんていないだろう。
「ここは神社なのかあ。お寺じゃないんだね」
朱里は言う。鳥居があるから一発で神社とわかった。
神社は神道で、寺は仏教。要は崇めているものが違う。とはいえ、詳しくなんて知らない俺は、お坊さんがいるのが寺で、巫女さんがいるのが神社だと、すごくざっくりとした覚え方をしている。
お坊さんより巫女さんのほうが可愛くていいよね、とは朱里の談。お坊さんに謝ったほうが良いと思うし、神社には巫女さんだけじゃなくて男の神主もいる。
ただ、小さな神社は無人のところも多いようで、この神社も例に違わず人の気配がしなかった。
敷地内にはところどころに電球がつけられており、朱里のスマホが無くともなんとなく全貌を把握できた。
正面にはもちろん、社がある。「社ってなーに?」と訊いてくる朱里に、俺は「神様が祀ってあるところだ」と答えながら、周囲を見渡す。
社のそばに、物干し竿みたいに長い棒に、たくさんの紙が結び付けられている。
「あれ、なんだろ?」
「たぶん、願掛けなんじゃないか」
願掛けの仕方は神社によって違う。気になって近寄ってみると、説明書きがあった。
ここでは、専用の紙に願い事を書いて太陽に干すと、その願いが叶うらしい。
なるほど、と感心しながら周囲を見渡す。その紙はどこにあるんだろう。目線を泳がせているうちに、雨避けの下に、木でできた棚を見つけた。
いかにも何かが入ってそうな引き出し。その隣には小さな穴と看板。看板には、こう書かれてある。
{一枚、百円}
ちゃっかりしてるなと思った。
「誰もいないから、お金を入れなくても取り放題だよね」
「まあ、そうだな」
さすがに罰が当たりそうなので、黙って財布を取りだした。
百円を穴に入れると、一秒くらい間があった後、かあん、と木に跳ね返るような音が聞こえてきた。無人のくせに、回収するものは回収しているらしい。
俺は引き出しから紙を一枚取り出し、まず朱里に手渡した。こいつがどんな願い事を書くのか気になったからであって、別に気遣ったわけではない。断じて。
俺の期待の眼差しに気づいているのか気づいていないのか、紙を受け取った朱里はペンを握ったまま固まっていた。そんなに悩んでいるのかと俺が思っていると、
「……これだ!」
また、朱里が何かを閃いたようだ。
「これに願い事を書いてさ、丸めててるてるぼうずの頭に詰めるの。ロマンチックじゃない?」
じゃない? と訊いておきながら、顔は死ぬほど自慢げである。
「うーん……まあ、風情はあるよな」
「そうでしょそうでしょ」
言いながら、朱里はガマ口財布をポーチから引き抜いて、百円玉を何枚か取り出していた。何枚紙を買うつもりか知らないが、ご利益が水を足しまくったカルピスみたいに薄れてしまうと思うのは俺だけだろうか。
朱里が手に持った百円玉を強引に穴に押し込んだ後、引き出しから紙を取っている。
「ひー、ふー、みー、よー……ええと、ふぁーいぶ」
多分五以降の数え方を知らないのだろう。
「十二枚もらった」
「十二回願いが叶うな」
「最強だね」
感想があまりにも馬鹿っぽかったので、乾いた笑いで返した。
「そんなに願い事があるのか?」
「そりゃもう、たくさん」
「欲深い女だ」
「言い方がゲスい」
朱里がゲラゲラと笑う声が、神社を囲う木々にこだました。
「願いってのは、たとえばどんな?」
俺は訊いた。
「新しいゲーム機欲しいとか、空を飛んでみたいとか」
「子どもかよ」
「あと、長生きしたいとか」
「重いな、話題が」
「りっくんから振った話でしょ?」
もう、と朱里はふてくされる。漫画みたいにぷいっと顔を背けてしまった。
「長生きしたいなら、それこそアフリカにでも行けばいいじゃねえか」
「いや、それよりもっと大事な願い事があるから」
「そうなのか」
「そうなんです」
「教えてくれないのか」
「やーだね」
両腕をクロスさせてバツを作ってみせてから、朱里はへへん、とほくそ笑んだ。人の秘密はベラッベラ喋るクセに、自分の悩み事とかは滅多に喋らないのが朱里だ。
「ちなみに、りっくんの願いは?」
「そうだな……」
俺は一寸ほど顎をさすりつつ思案してから、
「童貞を捨てたい」
「ぶっっっっ」
朱里が思いっきり吹き出した。
「ど、どーてーを捨てたいなんて、だ、ださっ、ぶふふ……」
「そういうお前だって未経験だろうが」
「そ、そうだけどさあ……!」
よほどツボにはまったのか、身体を捩ってまで笑い転げている。車椅子がガタガタと揺れ動いていた。
十数秒ほど抱腹絶倒していたが、一通り笑い終えた朱里は大きく息を吸って、真顔になり、
「ていうか今の、セクハラだよね」
突然冷静にならないでほしい。
「なんでぼくが処女って知ってるのさ」
「だってお前、彼氏とか作らないし」
朱里の眉がぴくりと動いた。
「ま、そうだけどさ」
さっきまで大爆笑してたくせに、今はふん、と鼻まで鳴らして、何やら機嫌が悪い。下ネタを振ったのがそんなにお気に召さなかったのだろうか。
「もっとマトモな願い事とか、ないの?」
「別に、何もない」
「そっか」
俺が即答すると、朱里はそれ以上詮索することもなく、話題を止めた。夜風に合わせるように、サイドテールを撫でている。
黙って後姿だけ見れば、可憐で儚げな女の子だ。そのくせ浮いた話は一個もない。せいぜい、俺と付き合ってるのか、って話が上がるくらいだ。
「あ、でも」
突然振り返った朱里に、俺はぎょっとする。うなじを見てたのがばれたかと思って、口笛を吹いて誤魔化す。
「りっくんもてるてるぼうず作るんだから、それまでにはちゃんと願い事を考えといてね」
「ど、童貞……」
「そんな願いを書いた紙をてるてるぼうずの頭に入れたら、てるてるぼうずが煩悩だらけになるでしょ?」
ごもっともだった。
「そういうわけだから、ちゃんと考えておくように。宿題だからねっ」
「へいへい」
俺は適当に頷いて、車椅子のハンドルを叩いた。これを「今から動き出すぞ」という合図にしようと思う。突然押すと、そのたびに朱里の肩が驚きに浮いているのが見えるので、少しは気遣ってやろうと思ったのだ。偉いぞ、俺。
「これでてるてるぼうずの材料が全部揃ったね」
「満足か?」
「材料だけ集めて満足する馬鹿がどこにいる?」
少年漫画みたいな言い口だった。
「もちろん、付き合ってくれるよね?」
「嫌って言ったら?」
「その言い回し好きだね、りっくん」
なんとなくすぐに肯定してしまうのが悔しくて、こういう言い方をしてしまう。ただ、断る理由もない。いわばこれは俺の照れ隠しのようなものだ。
「材料が集まったんだったら、もう帰るぞ」
「はーい」
俺はふと自分の願いを考えてみた。
特に何も思いつかない。
やりたいことも、ほしいものもなくて、健康でいられますように、くらいしか頭に浮かばない。健康にしたって、朱里の前で健康を願うのは当てつけにしか感じられない。
――あ、じゃあ。
――朱里が健康でいられますように、って書くのはどうだろう。
そんなことを考えていた俺は、帰り道の下り坂の存在を思い出す。
大はしゃぎする朱里の後ろで、ひいひい言いながら爆速で坂を駆け下りていた。