序章 動乱の北関東 3話
遠くからの怒鳴り声を、目を閉じながら宗広は聞いていた。外は薄暗く、肌寒い。まだ夜が明けて間もない頃合いだろう。静けさの中でより慌ただしい気運が目立った。
ドシャリ ドシャリ
重苦しい音を立てながらそれは向かってきた。
「殿、お休みの処ご容赦を。」
「かまわん、何事か。」
「国境より火急の狼煙、栃木の軍勢有りとの由。その数三千。」
「相解った、迎えの準備を」
「ではこれにて」
ドシャリ ドシャリと音は遠ざかっていった。だが部屋には凶運が立ち籠めたままだ。三千といえば栃木から出せるほとんど最大数であって、総力戦の気配を帯びていた。そんな隙を見せればたちまち群馬に背腹を突かれるだろうが、なにか計算があるのか。
汗ばんだ掌をギュッと握り、宗広は戦仕度を始めた。笑顔の多江が歩み寄ってくる。
「御武運を。」
そう言って祈る手は微かに震えていた。その手をそっと包み、
「帰るまでに子の名を決めて帰ってくる。」
とだけ告げて、宗広は館を後にした。
付近の手勢は全て揃っており、小一郎が馬を連れてやってきた。
「敵勢は江戸川の砦向こうに陣取っているようです。お味方は砦に五百、我らを併せて六百五十にござります。」
「戦況は駆けながら聞く。江戸川には慎重に守れと伝えておけ。」
早馬がドガガッと駆け出していく。巨像の脇を抜けて。内陸であるから守れた美しい田畑に、無邪気な童たち。そして多江に、まだ見ぬ我が子。
栃木の者共に、一歩足りとも踏み込ませるわけにはいかない。
堅牢な江戸川の砦は、宗広が着くまでの数日の猛攻を物ともしなかった。被害は軽微で、死者をほとんど出してはいなかった。しかし守将によれば、敵方に秘策の気配有りとのことで、気は抜けそうにない。だが無理に打ち払う必要はない。守りきれば群馬、或いは埼玉が背後を突き、撤退するしかないはずである。
眼前には栃木の軍勢がひしめいている。大軍から放たれている覇気はさすがといった処だろう。巨体の大将を思い浮かべて宗広は苦笑した。
大音声が響き渡り、敵勢が割れた。遠目でも良くわかる髭面の大男が前に出る。栃木守護の佐野克久である。
「出てこい宗広!卑怯者の常磐の者め!」
「ここにいるぞ。手勢が居らねば口も利けぬ臆病者よ、物見遊山にでも参ったのか?」
「黙れ!貴様らと乳繰り合うために来たのではないわ!」
「はよう用向きを申せ!」
「『とちぎおとめ』を返して貰おう!」