序章 動乱の北関東 2話
パカッ パカッ パカラッ
「よろしいか、殿。もっと慎んで貰わねば困ります。」
パカッ パカッ パカラッ
「今日が無事であったとて、明日も無事とは限りませぬ。」
巡察の帰り道である。一日の最後に館回りを視るのだが、しかし本当に最後の仕事は、小一郎のお決まりの言葉を聞くことだった。
パカッ パカッ パカラッ
「某がもし刺客であったら森に手勢を...」
「なぁ、小一郎!」
小一郎の嘆きに近い小言を遮って、宗広は声を上げた。聞き流されるばかりと思っていた小一郎は、ビクッと体を揺すった。
「なんでござりましょうや?!」
「あの巨像に空洞を作って、中に入れるようにしたら面白いと思わぬか?」
そう言って宗広は馬を駆った。背後から泣き声に似た叫び声が追ってきた。
館に着くと妻の多江が出迎えてくれた。口許を覆いながらコロコロ笑っている。
「お帰りなさいませ。本日もお楽しそうで。」
「おう、小一郎は良くできた従者でな。退屈せんわ。」
「それがしも、稀代の殿のお側に居りまして幸せにござりまする!」
言葉とは裏腹に、小一郎は青筋をたてながら主従の馬を繋いだ。門番はとばっちりを避けるように虚空を眺めている。
「腹が減った、夕げにするぞ。」
「はい、わかりました。小一郎殿も今日はこれで上がりなされ。」
そう言われると小一郎はビッと身をただし、多江に一礼をした。主人である宗広に向けるそれよりも丁寧に。
明かりが灯され、膳が橙色に染まった。宗広はこの光景が好きだった。戦の最中の粗末な食事でも、この明かりに照らされれば、途方もなく旨くなるような気さえしていた。ましてや眼前にあるのは多江がひとつひとつ丁寧に作ったものである。不味いはずがなかった。
そんな多江も今は身重である。それでも出迎えと食事回りだけは決して止めようとしない。宗広が一度強い口調で咎めたが、多江は一向に譲らなかったので、好きにやらせることにした。
「お味はいかがですか」
「今日も旨いぞ」
フフと満足げに笑う。この顔が見たくて、出先で食べてくる事はほとんどなかった。夫婦になって3年経つが、ずっとこの調子である。
「儂のことはもう良い、そろそろ食べなさい。」
では...といい、多江はゆっくりと米を食み、汁物を啜った。まるでお腹の子にも食べさせているようだ。運ぶ指は、少し荒れている。それを見た宗広は、急に胸が熱くなった。
「丈夫な子を産め。それより他は、今は望まぬ。」
「ええ、それはもう...やや子が元気いっぱいで、今日も何度も蹴っておりました。」
「そうか、元気か。」
「他の者に聞いても、ここまで動く子は珍しいそうで。良夫にそっくりな子なのでしょうね。」
クスクスと笑う多江の顔を見ながら、
満たされている...ふとそう感じた。
吹いた風に明かりが揺れ、多江の顔も橙に染め上げたいた。その横顔をひととき眺めているとため息が溢れそうになる。そんな気持ちを引き締めて宗広は言った。
「そうじゃ、今日は良い贈物を貰ったのであった。」
懐から桐の箱を取り出して、多江に見せる。
「万病に効き、寿命が百年延びると言われる逸品。身重の体にも良いものであろう。」
箱を開くと、静かな部屋に甘い匂いが立ち籠めたのだった。