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宮沢弘の文学論

虚構の評価・評論について ―― あなたのその評価・評論は、あなたの知の限界でしかない ――

作者: 宮沢弘

 SF作品の評判や評価、評論を読むと、「現在の世界情勢がうんたら」というように、現実世界に足を付けさせようというものを目にします。

 あるいは、「作者の育った環境や経験や経歴はこうで」という話にもっていくのも目にします。


 SF作品に限りませんが、んー、それって必要な解釈なのかなと思います。

 監督や台本の人、あるいは媒体では著者が、現実世界に作品を着地させようとしていたとして、だから何なんでしょうか? あるいは、著者などの経験が現れていたとして、だから何なのでしょうか?

 虚構に限らず、作品は面白いかどうかだと思います。その作品こそを読み、評価しなければならないと思います。「現実の~を反映」とかはどうでもいいことなんじゃないかと思います。

 あるいは、「テクスト(texte)こそを読む」方がいいだろうと言ってみましょう。

 「現在の世界情勢うんたら」や、「著者の経験うんたら」と、言いたければ言えば構いません。ですが、それは個人の経験に作品を収斂させ、あるいは矮小化させてしまう行為でしょう。問題は、個人の経験ではなく、その作品が漂っているテクスト(texte)の海であろうと思います。あるいはテクスト(texte)の海のどこに、その作品は漂っているのかを読まなければ、その作品を読んだとは言えないだろうと思います。

 テクスト(texte)はバルトによる言葉ですが、今になって言うとしたら "web" という方が通りがいいでしょう。World Wide Webという意味での "web" というよりも、その WWWという言葉によって"web" という概念が現し得るようになったもの。表象の空間、表象のネットワーク、表象のネットワークのネットワーク、そういうものと思ってください。

 個人の経験と、表象のネットワークのネットワーク、どちらがより深いものでしょうか。あるいは単純に量として、どちらが多いでしょうか。「作品を矮小化」というのはそういう意味でです。

 ある作品は、その作品だけでは完結していません。なぜなら、テクストの海に漂っているからです。その海を読まなければ、その作品を読んだ事にもなりません。

 「その作品こそを読み」と書きましたが、「作品を読む」、「作品を評価する」というのは、「その作品こそを読む」ことであるとともに「その作品だけを読む」ということではありません。「テクストの海そのものを読む」必要があります。

 それを可能とするためには、書き手に匹敵するだけのテクストの海を読み手も持っていないといけません。もちろん、それは大変なことです。それがわかっているからこそ、「現実云々」、「著者の経歴云々」という評価などを目にすると、「逃げている」ように思えます。


 もっとも、無闇に現実から離れると、作品を読む/観る側にとって分からなくなるであろうとこはわかります。ですが、それは評価や評論や批評で扱う箇所ではなかろうと思います。「追いつけなかった」としたら、「追いつけなかった」自分自身をこそ責める必要があるだけです。

 あるいは、アジモフの「夜来る」では、冒頭に、「人間のように書いているが、ここには人間は一人も存在しない」というような事が書いてあります。そうなると、何を書かれても、「現実的ではない云々」とは何も言えません。心情であろうと何であろうと、そう宣言されてしまっているのですから、人間といかにかけ離れていようと何も言えません。(もちろん、「夜来たる」では短編も、長編もそういうことはありませんが。)


 なんでこんなことを書いているかというと、以前「猿の惑星:新世紀」の評論を見た時に「現実の状況云々」とあったり、「トランスフォーマー」では「地球の地理を無視して撮影している」というような評価を見たことが気になっているからです。「それはそれなりに思うところがあってそういう評論をしているのだろうけれど、観るところってそこじゃないよね」という気持ちが消えなかったからです。ですが、評価や評論を見ると、いろいろな作品について、「現代の云々」というのが溢れかえっています。「それは違う」感が半端ないというか。

 一つには、評論を書く側にも評論を読む側にも、あるいは作品を観る側としても、作品を作品として読む/観るというリテラシーがないのかもしれません。あるいは。一つめの亜種にすぎませんが、現実に落とし込まないと理解できないという根本的な問題があるのかもしれません。


 あるいは、ちょい別の話として、「作品のテーマ/メッセージ云々」という話もあります。いや、そんなものがあるなら、それだけを標語のように書けばいいじゃないですか。小説や映画にする必要がありません。このエッセイも「テクストを読もう」とだけ書けばすむ話ですが。


 というわけで、「この映画/作品は現実の云々」という評論はあまり意味がないのではないかと思っています。虚構を読むというのは、そういう話ではないと思っています。

 監督や作家も、「現実の云々」と聞かれたら、「現実? それなに?」とか言って欲しいと思います。「テーマは?」と聞かれたら、「ありません」とか「わからなかったんですか?」とか言って欲しいと思います。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 現実の中で生きている人間が創作している以上、どんな作品も最終的には現実との接点を持つのでしょうが、「現代社会の問題を浮き彫りにする」だとか「これこそ今の若者のリアル」とか、なんでもかんでも…
[一言] 自分が考えていたようなことを書かれているのを見て、ああ、万人に共通の感覚なんだなあと安心しました。やはり作品そのものを論じるべきだよなあ、と思います。 しかしその一方で作者が現代を描くため…
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